水貴の日記 2008.10
誰にも知られず
DATE: 10/02/2008 23:26:14
こうして夜の中に座っていると、この家ごと沼の底に沈んでいってしまいそうな気分になる。
誰も僕のことなど知らない。
この家にいると、世の中から遠く離れているような気分になる。
祖父に忘れられてからは、いよいよ僕は世界から離れてしまった。
僕がいなくなっても、誰も気づかないだろう。
僕のことを知っているのは、もはや宵子だけだ。
彼女がこの世のものでないことはよくわかっている。けれど、僕も果たしてこの世に存在していると言えるだろうか。
そんなことを証明してくれる人は、誰もいないかもしれない。
この扉さえなければ、宵子と出会うことができるだろう。
彼女が僕のことを認めてくれるなら、僕は彼女の世界に足を踏み入れてもかまわない。
それは、小さな川を飛び越えるくらい、とてもたやすいことのように思える。
たやすいことを阻んでいるのは、この扉の鍵だけだ。
Yという男が恨めしい。
→次の夜
ひっくり返された鍵
DATE: 10/04/2008 23:41:54
夜が孤独で、たまらなく長く感じる。
昼間、微かな望みを抱いて病院に行ってみる。もしかしたら、祖父が僕のことを思い出しているかもしれない。
けれど、その望みは簡単に絶たれた。
帰りに主治医と廊下で出会うことができた。
僕の記憶だけが欠落しているように見えるが、もしかしたらそれ以外にも欠落している記憶があるかもしれない。祖父の脳機能が完全に治っていない以上、不安が残る。たびたび祖父の前に顔を出して、僕の記憶を取り戻させるように努めて欲しい。
そのような話だった。
理解はできたが、気は進まなかった。
祖父に忘れられている、という現実を毎度突きつけられることは辛くてたまらない。
夜になると、そんな僕の気持ちを扉の奥から宵子が慰めてくれる。
宵子には、まだ一度も会ったことはないが、今では自分の最も信頼のおける理解者だと確信している。
彼女は、僕の孤独を慰めながら様々な話をしてくれる。
娘を事故でなくしてから、どのような生活をこの家で送ってきたのか。
事故だということはすべて嘘で、娘がいつか帰ってくるのではないかと思い続けたこと。そのために、この部屋から先に誰も入れないように鍵をかけ、毎日娘のためにおやつを準備していたこと。
そんな話を語ってくれた。
「だけど…」
と、宵子は言葉を強めた。
「ある日、目が覚めたら、鍵がひっくり返されていたの」
鍵がひっくり返される…。
それは、内側から掛けていた鍵が、外側から掛けられる鍵に替えられていた、ということだった。
閉じこもっていたはずの宵子は、ある日を境に、閉じこめられてしまったのだ。
そんな風にひっくり返したのは、あの女鍵屋の死んだ夫だった。
今回、鍵がつけられてしまったことは、そんな風に深い因縁のある話だったのだ。
一つ目の鍵は夫がつけ、二つ目の鍵は妻がつけた。
Yという男がなかなか鍵を返してくれない以上、あの女鍵屋をもう一度ここに連れてくるしかないのかもしれない。
僕はそんな思いに駆られた。
→次の夜
暁子と宵子
DATE: 10/05/2008 23:40:13
昨日の主治医の言葉を守ったわけではない。
祖父が僕のことを思い出してくれるかもしれないという微かな希望と、もうひとつ何かの力に後押しされて、僕は今日も病院に足を向けた。
何かの力がどんな力なのか、それは僕にもよくわからなかった。
病室には祖父一人だけだった。
昨日に続けて見舞ったためだろう。祖父は僕を水貴というより昨日来てくれた人、という認識で迎え入れてくれた。
僕が腰を下ろすと、祖父は「沼の匂いがする」と言った。
自分の匂いは感じ取ることができない。
沼は埋められていたが、その匂いは長い時間、その上に暮らす者に特有の匂いをまとわりつかせているのかもしれない。
祖父は、今日も沼での悪い遊びの話をした。
毎回、僕が訪れるたびに繰り返される話だ。
けれど、今日は違っていた。
「その後、あの沼は埋められて、家が建てられた…」
新しい話に、思わず僕は膝を乗り出した。
「そこに双子の女の子が暮らしていた。名前を、暁子と宵子と言ったな」
僕は、宵子の名前を耳にしてギクリとした。
祖父が宵子のことを知っているとは。
「今でもそこに暮らしているのかな、暁子は?」
僕は、少し戸惑いながら答えてみた。
「暁子さんではなく宵子さんが住んでいるよ」
すると、祖父は「違う、違う」と首を大きく振った。
「みんな間違っている。あれは宵子じゃない。入れ違っている。あれは暁子だよ」
何のことを言っているのか、わからなかった。
ただ、祖父はあの家に宵子か暁子という人物が住んでいることを知っている。
祖父の記憶は、古いものほど鮮明だった。
それはきっと確かなことだろう。
けれど、宵子のことを暁子と言い張っている。
記憶が混迷しているのだろうか。
そのことをもう少し詳しく聞きたいと思ったところに、見舞客が入ってきた。
僕は諦めて席を立った。
僕のことを思い出して欲しい、という思いとあの家についての話を聞きたいという思いが一体となって、僕を焦れさせていた。
→次の夜
祖父だけが知っている
DATE: 10/07/2008 23:59:13
祖父の言っていた宵子の話が気になって、今日も病院に顔を出した。
祖父は、僕の顔を見ると、相変わらず不安そうな顔をする。
自分の記憶に欠落しているところがある、ということを再認識するのだろう。
僕が沼の匂いをさせているため、祖父はそこに手掛かりがある、と考えているのかも知れない。
どうであれ、今は宵子の話に興味があった。
僕が、「宵子はあの家にいます」と話を振ってみると、祖父は大きくかぶりを振った。
「みんな、死んだのが暁子だと思っているが、死んだのは宵子の方だ」
先日同様、何の話なのか、よくわからなかった。
「二人は親でも区別がつかない双子だった…」
そう言って始まった話は、驚くべきものだった。
それは今から40年以上前のこと。
あの家には、双子の子供、暁子と宵子が住んでいた。
二人は仲が良く、小学校の登下校はいつも一緒だった。
ある雨の日の下校途中、暁子はノートを学校に忘れてきてしまったことに気づいた。
怖がりの暁子に代わって、宵子がそれを学校まで取りに行ったのだが、その帰り道に宵子は事故に遭って死んでしまった。
我が子の死を知った母親は取り乱しながらも、残った子供に聞いた。
「あなた、宵子よね?」
何故なら、亡くなった宵子は暁子のノートを持っていたからだ。
暁子は、思わず頷いてしまった。
その時から、暁子は宵子になったのだ。
それからずっと、暁子は宵子のままだ。
誰一人として、彼女を暁子だと知る者はいない。
「でも私は会っていたんだ…」
祖父が言葉を続けた。
「学校へ走っていく宵子ちゃんとすれ違ったんだ。あの子があんまり急いでるんで声をかけたんだ。『走ると危ないよ、暁子ちゃん』。すると振り返って、『私、宵子だよ』と答えたんだ」
何故、残された暁子は、「宵子?」と聞かれた時に否定しなかったのだろう?
「そうすることで、宵子が生き続けると思ったのかもしれないな」
祖父の言葉に、僕は思わず頷いた。
けれど、何と長い時間だろう。
亡くなるまで暁子は宵子と名乗り続けたのだ。
「そのことを知っているのは、たぶん私ひとりだ。そして、宵子自身も私がこのことを知っているということを知らないだろう」
夜になって、雨が降り始めた。
雨の音を聞いていると、昼間の祖父の話が余計にはっきりとした輪郭を持ち始めた。
宵子は奥の部屋で、啜り泣いている。
扉を開けて欲しいという声が、一層哀れに聞こえる。
→次の夜
沼気を抜くパイプ
DATE: 10/08/2008 23:36:05
沼は記憶の集積場だ。
この町の川を伝って流れてきたものを集め、出口のないままに蓄えていく。
そこには、何十年も前の記憶が、そのまま沈んでいる。
今日の祖父の話は、再び子供の頃の水遊びの話から始まった。
記憶は話すうちに鮮明になっていくようで、まるで眼前にその光景が展開されているかのように目を輝かせて話す。
何度も聞いているが、それを止めるわけにはいかない。
祖父の話では、沼を埋めた時、どこかに細いパイプを刺して沼気が抜けるようにした、ということだった。
そうしておかないと、埋めた土がどんどん盛り上がってしまうからだ。
けれど、夜になるとそのパイプの中から声が聞こえる、という噂が立った。
子供の声だと言う。
まだ子供だった祖父たちの耳には入れないように、大人たちは囁くように話したが、もちろんそういう話が祖父たちに届かないはずはない。
どうやら、あの沼で溺れた子供が埋められた沼の底で泣きながら訴えかけているらしい。
「嘘じゃない。嘘じゃない…」と。
何で「嘘じゃない」というのだろう?
祖父たちはその話を聞いて背筋が凍った。
「嘘じゃない」というのは、溺れているのは「嘘じゃない」という意味だ。
あの時、溺れている友だちを見て笑い続けていた自分たちの記憶が、再び鮮明に思い出された。
彼は、溺れながら訴えかけていたのだ。
これは嘘じゃない、と。
その後、そのパイプは気味が悪いということで引き抜かれたという話だが、その真相は定かではない。
ただ、沼気を抜く穴はどこかにあるはずだ。でないと、土が盛り上がって家など建てられない。
きっとあの家の床下のどこかに、沼へ通じる穴が開いているはずだ。
「だから、私はあの家には近づかない。不意に背後から呼び止められて振り返ると、そのまま沼の底に引き込まれてしまうんじゃないかと思うんだ」
病院の午後に、祖父の頭に渡来する子供の頃の記憶。笑いを消した生活。
「私が腹の底から笑ったのは、それから50年以上も経ってからのことだ。笑いを取り戻すのに50年もかかった。何のきっかけで笑いが戻ったのか…。どうもそれが思い出せない」
再び、祖父の顔に不安げな表情が浮かんだ。
僕は、それを合図に病室を出た。
→次の夜
勘違い
DATE: 10/09/2008 23:02:49
この家の床下には、埋めた沼から沼気を抜く穴が開いている。
昨日、祖父から聞いた話は、帰ってきてから繰り返し思い出された。
この畳を上げて床板を剥がすと、そこには澱んだ沼の水面があるような気がしてくる。
もう何日間も、開かずの間は開けられていない。
閉じられた部屋の中に、沼の匂いが充満しているかもしれない。
女鍵屋に電話しても繋がらないことはわかっていた。
けれど、毎日習慣のように電話をかけていた。
今日も午後になって電話をしてみた。
女鍵屋の携帯電話は、6回コールした後に留守番電話になる。そのことまでわかっていたから、今では6回目のコールの最中に電話を切ることまで習慣づいていた。
今日も同じように6回目のコールが始まった。
切ろうとしかけたときに声が聞こえた。
女鍵屋が電話に出た。
こんなことを予想していなかったので焦ってしまい、何を言って良いのかわからなくなってしまった。
「もしもし…」
電話の向こうで、彼女が大きな声を挙げていた。
雑音が多くて、僕の方でもよく聞こえないことがあった。ましてや、耳の悪い彼女のことだ、余計に聞こえていないに違いなかった。
僕が、勝手に付けたあの部屋の鍵を開けて欲しい、という旨を伝えると、彼女は妙に納得したようだった。
明日、あの家の玄関先で待ち合わそう、と言う。
雑音と彼女の耳のせいで、何か勘違いしているようだった。
やがてその口ぶりから、僕のことをYと間違えていることに気がついた。
好都合だった。
彼女からの申し出を断る理由など、どこにもない。
勘違いをそのままにして、明日この家の玄関先にやってくるのを待てばいい。
そう思ったら、それ以上あまり喋らない方が得策に思えた。
彼女が違和感を覚える前に電話を切った。
明日になると、女鍵屋がやってくる。
そうすれば、この鍵を開けさせることができるだろう。
宵子は、女鍵屋とYに対する怨みを、扉の向こうで喋り続けている。
明日になれば、扉が開くかもしれない、と語りかけても、聞こえないのかその怨みの声のトーンをますます上げただけだった。
→次の夜
女鍵屋が来る
DATE: 10/10/2008 23:39:08
女鍵屋は左の耳がよく聞こえない。
だから左側から近づこう。
そう決めて、待ち合わせの時間より少し前に家を出て、玄関の脇に回り込んだ。
つつじの蔭に隠れて、様子を窺った。
約束の3時になっても、彼女は現れなかった。
彼女も、わざわざ僕の住んでいる家の前まで来るわけだから、当然用心していることだろう。
遠くから様子を窺っていることは十分考えられる。
僕は、時間を過ぎてもその場所を動かず、彼女が姿を現すのを待った。
ちょっとした餌は用意してあった。
女鍵屋に向けてYが書いたと思わせるメッセージを、玄関の扉に貼っておいたのだ。
メッセージにはこう書いておいた。
「もうこれ以上鍵を持っているのは辛いので、返しに来ました。先に中に入って待っています」
メッセージの信憑性は、重要ではなかった。
何か気になる張り紙がしてある、ということが重要だった。
気になって近づいてきてくれれば、チャンスはある。
さらに、その内容に釣られて家に入ってくれればこっちのものだ。
あまり手荒なことをせずに、鍵を開けさせることができるだろう。
一旦足を踏み入れてしまえば、彼女も逃げ道がないと諦めがつくはずだ。
30分くらい待っただろうか、小学校低学年くらいの男の子が現れた。ランドセルを背負っているから学校帰りだろう。
しばらく、じっとその張り紙を見ていた。読めない字があるらしく、何度も首を傾げている。
学校帰りに道草をしていて、張り紙が気になったのかもしれない。
やがて諦めたのか、玄関に背を向けていま来た道を戻っていった。
子供の姿を見たら、急に自分のしていることが現実離れしているような気持ちになった。
もう30分も経ったし、女鍵屋は姿を現さない。諦めようと、つつじの蔭から立ち上がりかけた時、その男の子が再び戻ってきた。
「またか…」と思ったら、男の子から四〜五歩離れて近づいてくる影があった。
女鍵屋だ。
周囲を警戒しながら、ゆっくりと近づいてくる。
僕は、もう一度つつじの蔭に身を潜めた。
彼女は遠くから張り紙を見て、案の定、気になったに違いない。ただ、簡単に近づくわけにはいかない。近くを通りかかった子供に頼んで読んでこさせようとしたのだろう。
彼女は玄関まで近づき、張り紙を読み始めた。玄関を向いている時、こちらに左耳が向いている。今なら気づかれずに近づくことができる。ただ、できることなら家の中に入ってほしい。僕はそれを願いながら、もう少しだけ待つことにした。
メッセージを読み終えた彼女は、しばらく考え込んでいた。
けれど、玄関のノブに手を伸ばす気配はない。
振り返られたらこちらに右耳が向いてしまう。そうなると、近づくことは難しいだろう。
彼女はその場を動かずに、ポケットから携帯電話を取り出した。Yに電話をして確認するつもりだ。当然だろう。
けれど、これはチャンスだ。Yが何を喋ろうが関係ない。電話を右耳に当てていれば、ほとんど周囲の音が聞こえないも同様だ。そのときを狙って近づこう。
そう思って彼女が携帯を耳に当てるのを待った。
やがて、彼女がYの番号を探し、ボタンを押した。耳に当てた。僕は立ち上がろうと膝を伸ばしかけた。
そのとき、僕の携帯電話が鳴った。
彼女が電話したのは、僕の携帯だったのだ。
僕は驚いたが、あまり大きな音ではない。彼女には聞こえないかもしれない。そう判断したが、気づいたのは彼女ではなかった。小学生の男の子だ。
振り返った彼の視線に気づいて、女鍵屋がこちらに視線を移した。
僕が飛び出すのと、彼女が逃げ出すのが同時だった。
気づかれたのが早かったので、彼女との距離はかなりあった。
でも、追いつけない距離ではないと思った。
実際、一度は彼女の腕を掴みかけた。
掴んだ僕の手を、思いのほか強い力で彼女が振りほどいた。
そのとき、彼女がお守りを落とした。彼女がそれに気を取られたので、僕も同じように気を取られた。
彼女の判断の方が早かった。
彼女は、お守りを拾うのを諦めて、再び走り出した。
僕は、お守りを拾って彼女を追った。
その判断の違いが、僕らの距離を離してしまった。
僕は、女鍵屋に逃げられてしまった。
せっかくおびき寄せることに成功したにもかかわらず。
次に彼女が罠にかかることはないだろう。
宵子は、さっきから嘆きの声を挙げ続けている。
→次の夜
歯痛
DATE: 10/11/2008 23:51:23
昨日から前歯が痛み出した。
奥歯が痛むのは虫歯で何度か経験したが、前歯は初めてだ。
食事の時も、前歯は必ず使うので不便で仕方ない。
熱も持ってきているようなので、今日はゆっくり休むことにする。
扉の向こうから聞こえる宵子の声が、今夜はやたらと耳につく。
→次の夜
鎮痛剤を飲み過ぎる
DATE: 10/12/2008 23:30:41
歯の痛みが止まらない。
三連休になってしまい、歯医者が明後日まで開かない。しばらく我慢するしかないだろう。
薬局で鎮痛剤を買ってきて急場をしのぐことにする。
女鍵屋から、お守りを返して欲しいという電話が何度か入る。
この家に来たら返してもいいと返事をすると、そのつもりはないらしく、話はいつもそこで終わってしまう。
今まで、彼女の方から電話を掛けてくることなどなかった。ましてや、懇願するような口ぶりなど初めて聞いた。
よほど大事なお守りなのだろう。
確かに、長年持ち続けていたらしく古びているが、それほど特別なものとは思えない。
お守りを見ているうちに、再び歯痛が激しくなってきた。
もう一度、薬を飲む。少し、ペースが速いかもしれない。
食事もあまり食べていないため、薬で胃が荒れ始めている。
何か食べやすいものはないかと、戸棚を探すうちに、異臭に気がついた。
戸棚の奥に、ケーキが入っていた。それが腐っていたのだ。
不意に、Fのことを思い出した。帰ってこないFのことを思いながら買って帰ったケーキが、そのままそこに置かれていたのだ。
Fのことを思い出すと、再び孤独感が増してきた。
歯痛で心細くなっていることも影響しているのかもしれない。
この痛みから逃れられれば、いくらか孤独感を乗り越えられるような気がする。そんなことを思ううちに、先ほど薬を飲んだことを忘れて、1時間も経たないうちに、もう一度同じ量の薬を飲んでしまった。
頭がぼんやりしている。
女鍵屋からまた電話が掛かってくるが、遠い世界のことのように思えて、そのまま放っておいた。
お守りをもう一度手にしてみた。
何と言うことはない。
手の中で弄んでいるうちに、口を縛っている紐が解けた。
逆さにして軽く振ってみると、中から何か固いものが落ちて床に転がった。
緩慢な動作で拾い上げたが、それが何か、すぐにはわからなかった。
やがて、気がついた。
それは、歯だった。
→次の夜
枕元の足音
DATE: 10/14/2008 03:35:38
鎮痛剤の摂りすぎで頭がぼんやりし、眠いのだが眠っても眠りが浅い。
果たして、寝ているのか起きているのか、はっきりしない長い夜だった。
だから、それは本当の話なのか夢なのか、明確なことは言えない。
お守りから1本の歯が出てきたことは、昨日書いたとおりだ。
けれど、その歯をどこに置いたのか、思い出せない。
午前2時を回った頃だろうか、僕は布団の中で目を覚ました。
体がまったく動かない。
枕元を歩く人の気配がしていた。
畳の上を裸足で歩いている。畳表から足の裏が離れるときの微かに湿った音がする。
時々、足音が止まる。しばらくは、何の音もしない。じっと僕を見ている視線だけを感じる。
そのうち、再び歩き始める。
僕は、何とか体を動かせないか、必死になってもがいてみた。
指一本、動かすことはできなかった。
不意に、目だけ開くことができた。
目を開けると、暗闇の中にぼんやりと天井が見えた。
僕は枕元を歩く人物の正体を見てみたいと思ったが、首を動かすことができない。
枕の脇を通るときに見ることができるかもしれない。
そのときを待つしかない。
そんな風に目を動かしている様子は、僕を見下ろしている人物から見えないわけがない。きっと、滑稽に映っていることだろう。
それでも、僕はその人物を見極めたかった。
恐怖心はあったが、それを乗り越えるにも相手を知ることが先決だ。
枕元を歩く者は、時々部屋の隅の方へ行っては、しばらくすると戻ってくる。何かを探しているのだろうか?
やがて、再び僕の枕元に戻ってくると、しばらく僕の顔をのぞき込んでいるようだった。
僕は目を開けたまま視線を上に向けようと努力したが、相手の姿は視界に入っては来なかった。
やがて、その人物は再び歩き始めた。
僕の右手に回り込んできたとき、初めてその足首が見えた。
女の白い素足だった。
その足は、僕の枕の右脇を通って足元の方まで歩き、そこで踵を返すと再び僕の枕の右脇を通った。
そのとき、一瞬あるものが見えた。
懐かしいあるもの…。
その足は見慣れた右足だった。
なぜなら、その足に小指がなかったからだ。
現なのか夢なのか、今ではよく思い出せない。
残念ながら、今も頭がはっきりしない。
→次の夜
答えがない
DATE: 10/15/2008 23:33:50
歯が痛くてたまらない。
今日は歯医者に行ったが、治療に時間がかかるということでとりあえず鎮痛剤をもらって帰ってきた。
前歯が痛むので、食事がままならない。
夜になって痛みが強まると、不安が増してくる。
とても孤独に感じる瞬間が、不意に訪れる。
そんなとき、誰でもいいから頼りたくなってしまう。
開かずの間の扉の前まで行って、宵子に話しかけてみる。
けれど、こういうときに限って彼女からの応答はない。
僕が何を喋ろうが、一切答えてくれない。
そこにいないのかと思うと、時々物音だけが聞こえる。いや、わざわざ物音だけを聞かせているのかもしれない。
彼女はそこにいて、僕の声も聞こえているのに、それを無視しているのだ。
今まで、そんなことはなかった。
僕が無視することはあっても、彼女から無視されるようなことは一度もなかった。
いつのまにか立場が逆転している。
弱くなっている僕の心を、さらにえぐるようなことを仕掛けているのだ。
僕にはそれがわかっていた。
けれど、わかっていながらなお、彼女に声をかけてもらいたいと願っていたのだ。
長い時間、僕は哀れな声を出して、扉を叩き続けた。
宵子からの応答は、まだない。
→次の夜
枕元を歩く足
DATE: 10/16/2008 23:57:58
一昨日、右足の小指のない者が枕元を歩いていた。
あの出来事は、本当にあったことだろうか?
鎮痛剤を飲み過ぎたせいで、幻覚を見たのかもしれない。
そんなことを思いながら、ぼんやり一日が過ぎた。
けれど、それは幻覚ではなかった。
今夜も僕の枕元を歩く者がいた。
さらに、その者は僕の枕元にしゃがみこむと、寝ている僕に向かって語りかけてきたのだ。
その声には聞き覚えがあった。
とても親しかったあの声。懐かしい声のトーン。
やはり、そこにいたのは死んだT子だった。
彼女は、あまり時間がない、ということを前置きにしながら、僕とこうして話ができることが嬉しい、と言った。
T子が話を始めると、開かずの間が激しく叩かれた。昨夜とはうって変わって宵子が僕を呼んでいる。
そのことが気がかりで、僕は起きあがって扉へ向かおうとした。
もちろん、体が動くわけがない。
そんな僕の様子を見て、T子は少し強い口調に変わった。
水貴、今のあなたは狂っているわ。
あの扉の奥にいる宵子に取り込まれ始めているのよ。
私もそう。宵子の悲しい話に同情したらもう終わり。あの女に取り込まれて殺されてしまったの。
今のあなたは、あの時の私と同じよ。
T子の話を妨害するように、宵子が激しく扉を叩く。さらに、哀れな声で僕を呼ぶ。
僕は、それが気になって仕方ない。
僕が注意をそちらに向けるたびに、T子は「聞いて」と言って自分の方に意識を戻そうとする。
あの女に意識を持っていっては駄目。
あの女は狡猾よ。平気で嘘をつく。自分のことを知って欲しいの。自分と同じ感情になって欲しいの。でも、同情したら駄目。
もうじき、あなたはあの女に会うことになるわ。
その時は、カミソリの話を思い出してね。
あの女の顔を見ないようにして、すばやくカミソリを横に引くのよ。
それしか、方法はないの。
あの女の嘘に、絶対に惑わされないように。
あなたを取り込むためなら、あの女はどんなことでもしてくるわ。
そのことだけは、絶対に忘れないで。
そこまで言うと、僕の頬にそっと手を置いた。
柔らかい温かい手だった。
そのまま、しばらく彼女は黙っていた。
宵子が扉を叩く音も、僕の名前を呼ぶ声も、もう気にならなかった。
やがて、T子はその手を離すと、すっと立ち上がった。
僕を見下ろした。
僕は初めて声が出た。
「どうして…?」
以前、彼女の体の一部が残っていたら、戻ってこられる、という話を思い出していた。
僕は、そのことを聞きたかったのだ。
「歯が残っていたから」
彼女は言った。
水貴が鍵屋から取ったお守りの中に入っていた歯は、私が去年治療で抜かれ歯だったの。それがたまたま戻ってきたから、私はこうして現れることができたの。私の足の小指が先にこっちの世界に来てしまったみたいに、私の歯はまだこっちの世界に来ていなかったの。いつでも私は何かが欠けているのね。その歯を私のお墓に入れておいてね。
そう言うと、彼女は僕から離れていった。
畳の上を歩く音が遠ざかっていった。
僕は懸命に体を動かそうとした。金縛りが解けそうな気がした。
ようやく首だけを動かすことができたとき、彼女は戸口から出て行くところだった。
首をひねるようにしてそちらを見ると、彼女の背中が見えた。
懐かしい後ろ姿だった。
きっと振り返って、嘘だよ、と笑うはずだ。
けれど、見えたと思ったときには、その柔らかい影はもう消えていた。
→次の夜
僕を取り戻す
DATE: 10/17/2008 23:05:35
昨日T子が現れたおかげで、自分を取り戻すことができた。
あやうく、宵子の策に落ちるところだった。
急に体が軽くなったような気がする。
歯の痛みも止んで、食欲が戻ってきた。
昼間、外に出てイタリアンレストランで昼食を取る。
自分でもびっくりするくらい、食べても食べても物足りない。
肉料理にパスタとサラダとパンを食べ、さらにピッツァを1枚追加した。
食後のデザートにエスプレッソを飲む頃には、ようやく満たされた気分になった。
そのまま、高台へ歩いていき、T子の墓参りをした。
昨日の感謝と、大切なものを渡すためだ。
僕は、墓石の前の石を力を込めてずらした。そこには、T子の骨壺が入っていた。
骨壺を取り出すと、蓋を開けた。
T子の白い骨が重なり合って入っていた。
その中に、僕はお守りから出てきた歯を入れた。
これで、T子の体はすべて揃ったはずだ。
しばらくT子の骨を眺めていた。
不意に強い風が吹いて、僕は我に返った。
風が吹かなければ、ずっとそのままだったかもしれない。
僕はT子の骨壺を墓石の下に戻すと、しばらく祈った。
もうじき、僕は宵子に会うだろう。
そのとき、T子が僕を守ってくれるように。
そして、墓地を後にした。
今夜は開かずの間から何の音も聞こえない。
誰もいないかのように静かだ。
何を企んでいるのだろう?
僕は用心を怠らない。
→次の夜
花と果物
DATE: 10/18/2008 22:50:07
昨夜、開かずの間から宵子の声は結局一度も聞こえてこなかった。
不気味ではあったが、いつの間にか眠気に誘われて深い眠りに落ちてしまった。
朝、謂われのない不安を感じて布団から跳ね起きた。が、何も変わった様子はなかった。
たっぷりの食事と睡眠を取ったためか、この数週間一度も味わったことのないほど、体も気持ちも軽い。
以前の自分を取り戻した感覚だ。
祖父の病院に見舞いに行くことにする。
途中で果物屋に立ち寄って、秋の果物が並ぶ中から、祖父の好きな柿を選んだ。
その後、花屋でカゴにアレンジされた花を買った。
果物と花を提げて歩くと、今まで灰色だった世界が、急激に色を帯びて生命力を増していくような気がしてきた。
土曜日の午後だというのに、祖父の病室だけはその時間、誰も見舞客がいなかった。
僕が顔を出すと、祖父の反応はいつもと変わらなかった。
以前よりは警戒心がなくなっているが、僕のことを沼の上に住んでいる住人としか認識していないことは確かだった。
ただ、僕が持っていった果物と花は素直に喜んでくれた。
祖父は、また沼の話を始めた。
いつもと同じ話だった。
僕はその脇で相槌を打ちながら柿を剥いていた。
祖父は、話を途中で止めた。しばらく、窓辺に置いた花を見ていた。
そして不意に振り返ると、驚いたように声を出した。
「なんだ、水貴、そこにいたのか?」
驚いたのは僕の方だった。すぐには返事ができなかった。
「いつからいたんだ?」
そう言うと、不意に体を起こした。手術後、見たこともないような軽い動きだった。
「ずっと探していたのに…」
祖父の目からかすかな涙が出た。
祖父は記憶の原野の中を、誰かを捜して歩き回っていたのだ。それが誰かもわからずに。
僕は、祖父に再び出会うことができたのだ。もう会えないのではないかと思っていた。
僕にとって辛い日々は、祖父にとっても不安な日々だった。
一体、どのような作用で、僕の記憶だけが抜け落ちるということが起きたのかはわからない。
ただ、手術後の祖父の精神を常に侵し続けていた理由のわからない不安感が取り去られた時、体もまた健康な状態を取り戻しつつあった。
祖父は、あの家に住むことを止めるように言った。
僕は了解した。確かに、何故僕があの家に執着していたのか、今になってみるとわからない。
祖父の言うことが素直に納得できた。
枕元の置き時計が止まっていた。あの家から持ってきたものだ。
僕がそれを持ち帰ろうとすると、祖父は「そうしてくれ」と言った。以前は抵抗していたのに、今日はむしろそれを待ち望んでいたようだった。
以前と同じように、祖父と長い話をし、以前と同じように病室を出た。
僕は自分のマンションの部屋に戻った。
今夜はここで寝よう。
久しぶりの室内は、自分の部屋でないような不思議な雰囲気を持っていた。
→次の夜
秒針
DATE: 10/19/2008 18:36:14
久しぶりの自分の部屋は、驚くほど快適だった。
知らぬ間に、湿気の多いあの家の空気に、身も心も浸っていたようだ。
昨夜よりも一層体が軽い。
ずっと抱えていた陰鬱な気分も、何にも抗うことのできないような絶望的な気分も、数日前までの自分のものとは思えなかった。
あの家に関わるのは、もう、終わりにしよう。
大学の授業も始まっている。明日からは研究に戻ろう。
夏休みの間に、二人の友だちを亡くし、一人の友だちは行方が知れない。
けれど、それは特別なことだろうか?
夏休みを終えて後期の授業に出たら、友だちが三人大学に来なくなっている、などということは珍しくない。理由などわからないまま、後期の授業は過ぎていく。やがて、そんなことも忘れてしまう。よくあることだ。
僕は理由を知っているが、それもやがて忘れるだろう。
とにかく、そんなことに、これ以上囚われないことだ。
僕にはよくわかっている。
囚われないこと、以外に解決はないのだ。
部屋を出て、坂を下り、あの部屋に置いたままの荷物を取りに戻ろう。
これで最後だ。
祖父の病室から持ち帰った置き時計も返しておかなくてはならない。
坂を下りながら、この晴れやかな気分を以前味わった事があるような気がした。
何も悩みのないようなこの気分。悪い予感など、どこにもない。
けれど、それをどこで味わったのか思い出せなかった。
不意に、鞄の中の置き時計が目覚まし音を鳴らした。
病室で見たときに止まっていたので、もう動かないものだと思い込んでいた。
目覚まし音を止めて時計を見ると、秒針が動き始めていた。
あの部屋の
DATE: 10/19/2008 19:17:20
鍵が、
開いている…。
そんな時に
DATE: 10/19/2008 21:07:18
思い出した。
坂を下りてくるときに味わった気分、それは子供の頃、叔母が亡くなった時と同じだ。
晴れやかな青空。
そんな時に限って、人は死ぬ。
→次の夜
あの夜から
DATE: 10/21/2008 23:57:24
あの夜から一日が過ぎた。
僕はようやく落ち着きを取り戻しつつある。
昨夜、あれから起こったことをここに書こう。
あの家に入ると、もう何日も施錠されたままだった開かずの間の鍵が開いていた。
一体、誰が開けたのだろう?
そんな疑問が頭から離れないが、今考えなければならないのはこれからどうするか、だ。
夜になって、開かずの間の鍵が開いていることは、今まで一度としてなかった。
もしかしたら、今すぐ、その扉を開けて宵子が現れるかもしれない。
それは恐ろしい想像だった。
僕には何の準備もない。あまりにも無防備だ。
一体、それがどのような役に立つのかはわからないが、僕は扉に体重をかけて、その姿勢のまま考えた。
T子の言っていたことが思い出された。
宵子に会ったときには、迷わずにカミソリを横に引くのよ。
今ならできるような気がした。
というより、今しかできないような気がしていた。
カミソリは、新聞紙にくるまれて茶の間の引き出しの中にあった。
新聞紙を開くと、薄闇の中で刃が青い光を放った。
僕は暗い情念を抱いてはいないだろうか。
確かめたかったが、その術はなかった。
別の引き出しを開けると、手拭いが入っていた。
その手拭いで、カミソリの柄を幾重にも巻き、そのまま自分の手を一緒に巻いた。これで、カミソリは手から離れなくなった。
その後は、なるべく考えるのを止めた。
宵子が現れたら、カミソリを引くだけだ。
開かずの間の中で電気のスイッチを探すのは、隙を作りそうで敬遠したかった。ちょっと細身の懐中電灯があったので、それを手に取ってスイッチを入れた。
幸い、電池はまだ残っていた。
驚くほど迷いなく、僕は開かずの間の扉を開けた。
そこに宵子は立っていなかった。
いつ現れても不思議ではなかったが、どこからも宵子の声を聞こえてこなかった。
闇の中に潜んで、僕の様子を見ているのかもしれなかった。
僕は、用心深く懐中電灯で部屋の中を照らしながら、先へ進んだ。
久しぶりに見る室内。けれど、こんな風に夜に見ることはなかった。
飾られたままの雛人形が、子供部屋が、すべて不気味な顔を見せているような気がした。
それらの部屋のどこから、宵子がいきなり現れてもおかしくはない。
恐ろしかったが、僕は前へ進んだ。
立ち止まったら、その途端に前にも後ろにも進めなくなってしまうような気がしたからだ。
仏壇の部屋から障子の廊下へ、僕は同じ歩調で歩いていった。
そして、最後の部屋。
あの布団の敷いてある部屋にたどり着いたとき、僕はそこに寝ている宵子を見た
→次の夜
その時はためらうな
DATE: 10/22/2008 22:22:22
開かずの間の一番奥の部屋に、宵子は寝ていた。
布団の中に顔を埋めて、頭髪だけが掛布団から出ていた。
顔は全くわからない。
その顔に興味がないわけではなかった。
ただ、顔を見たら躊躇が生まれることも確かだ。
「迷わずにカミソリを横に引くのよ」
T子の言っていたことが、その時の鮮烈な口調と一緒に思い出された。
迷わずカミソリを引くこと。
僕は頭の中で反芻した。
室内は暗く、部屋の四隅には闇が溜まり、いくら照らし出してもそこは明るくならなかった。
けれど、部屋の闇を気にしている時間はない。
僕は立ち止まったまま、布団の中の気配を聞いた。
微かな寝息が聞こえた。今なら、宵子に気づかれずにその首にカミソリを当てることができるだろう。
迷っている時間も気持ちの余裕もなかった。
僕は枕元にしゃがみこみ、懐中電灯を持った左手でゆっくり布団を上げた。
宵子の首筋が、闇の中に白く浮かんだ。
一瞬ひるみそうになったが、胸の中で「ためらうな」と呟いた。
見ている目の前で、宵子の肩が二回呼吸した。
三回目を待たずに、僕はその首にカミソリを当て、そのまま手前に引いた。
何事も起こらなかった。
少し安堵した。
その次の瞬間、いまカミソリを当てたところから見る見る鮮血が溢れ出してきた。
その量に驚き、僕は掴んでいた掛け布団を離した。
宵子が目を覚ます…!
僕はそう考えたが、T子の言っていたことを信じるなら、もうこれで終わっているはずだ。
後は、見極めるだけでいい。いや、このまま部屋を去ってしまってもかまわない。
そう考えて、僕は立ち上がろうとした。
その足首を、いきなり掴まれた。
僕は後ろに倒れ込んで、ゾッとしながら自分の足元を見た。
布団から出た腕が僕の足首を掴んでいる。
もう一方の足で蹴って離そうとしたとき、その足首を頼りに宵子が布団から姿を現した。
首を切られた痛みに、低い声で唸っている。荒い息が闇の中に聞こえる。
僕は無意識に懐中電灯を持った手を振り回していた。
その灯りの輪の中に、宵子の顔が浮かび上がった。
血が止めどなく流れる首を押さえながら、僕に迫ってくる宵子の顔を見たとき、僕は叫び声を挙げた。
それは宵子ではなかった。
灯りの輪に浮かび上がっていたのは、
Fの姿だった。
→次の夜
F…
DATE: 10/23/2008 23:42:06
「F…!」
僕は思わず声を出した。
Fが何か言ったように聞こえたが、それは痛みに耐えきれない苦痛の呻きだったのかもしれない。
Fは、苦しいのか、あるいは僕に対する恨みのためなのか、足首を掴んだ手を離そうとしない。
血に染まった首筋の向こうから、僕を真っ赤な目で見つめてくる。
まるで、その手を離した途端に生命が絶える、というような切羽詰まった力の強さが、僕の足首に伝わってくる。
そんな手を振り切ることができるだろうか。
血を流し続けている者とは思えない力で、僕を引き寄せようとする。
僕は、力弱くそれに抵抗した。
たぶん、誤ってFを傷つけたことに対する引け目が、僕に十分な力を出させなくしていたのだろう。
そんな僕の心の揺れなどに関係なく、Fは足首から膝へ、膝から腰へと、僕の体を上ってくるようにたぐり寄せる。
僕は、血で重くなった布団の中へ引きずり込まれていく。
振り返ると、僕の腰の上にFの顔があった。
闇の中に、蒼白の顔が浮かび上がっている。
それはこの世のものではないような気がした。
僕は思わず、両手に力を入れた。
広げた指を畳に思い切り突き立てると、畳表を破って指が畳にめり込んだ。
指に伝わってきた感触は、腐った草の山の中に手を入れた時と同じだった。
この部屋の畳は湿気を溜め、内側から腐ってきていたのだ。
その畳が、Fの力にどれほど耐えられるのかはわからなかったが、いずれにしてもわずかな抵抗でしかないだろう。
他に何か手がかりになるものがなければ、僕は布団の中に引きずり込まれてしまう、と思った時、目の前に白い影が現れた。
反射的に僕は左手でそれを掴んだ。
意外にも柔らかい感触に驚いて顔を上げると、そこにT子の顔があった。
僕が掴んでいたのは、T子の足首だった。
僕と視線が合うと、T子はしゃがみ込んだ。振り仰いだ目の前に、T子の顔があった。
「ごめんね、水貴…」
そんな風に謝るT子は初めてだった。
「ためらわずに、と言った私が間違いだったわ。宵子は、思った以上にずる賢かった。そこまで見抜くことができなかった私の責任よ。挙げ句の果てに、水貴にFくんを殺させてしまった」
僕がFを殺す…?
その時、初めて、事態はそんな方向へ進んでいることに気がついた。
追い打ちをかけるように、T子が言葉を続けた。
「Fくんは、もう助からないわ。水貴は、これから一生、その罪を背負って生きて行かなくてはならないの。それは私の責任よ。私が水貴にしてあげられることが何かあるといいけど…」
そんなことを言われても、混乱していてよくわからない。
もし可能なら、時間を戻してほしかった。
それが無理なら、この罪をFに許してほしい。
「許してくれるかどうかは、Fくんが決めることよ。どうやったら、水貴はこの罪を償えるの?」
T子がFに問いかけた。
Fはその声に答えるように呻き声を挙げたが、何を言っているのか、よくわからない。
T子が何度か問い直すと、ようやく言葉になって聞き取れた。
Fはこう言っていた。
「い……っ………しょ…に…………し…………ん……………………で…………」
僕とT子は、同時にその言葉の意味を理解した。
首を戻してT子の表情を見たとき、それがわかった。
同時に同じ花をきれいだと思ったり、同時にすれ違った人の顔が気になったり、同時にチョコレートが食べたくなったり、僕とT子はよくそんな風に同時に何かを感じ取った。
そしてこれが、そんな僕とT子の特別なコミュニケーションの煌めきの、最期の一回だ。
瞬時の中で、僕はそんなことを思った。
そして、T子は僕の右手を取った。
僕はその手と一緒に、右手を自分の首筋に持って行った。
右手に握ったままのカミソリが、自分の首筋に当たるのを感じた。
→次の夜
その時ためらう
DATE: 10/24/2008 23:45:17
「さあ」
額と額が触れあうくらい間近にT子の顔があった。
僕の首筋に冷たいカミソリの感触が感じ入られた。
「い……っ………しょ………に………………し…………ん……………で…………」
僕の腰にしがみついているFの声が聞こえた。
ためらわずに。
僕は胸の中で呟いていた。
カミソリを持つ右手に力を入れようとした時に、僕の耳元でT子が追い打ちをかけるように囁いた。
「ためらわずにカミソリを横に引くの」
それを聞いた瞬間、違和感を覚えた。
さっきT子はそれを謝ったばかりなのに。
動かそうとする右手を止めて、僕は一瞬視線を泳がせた。
何かが違う。
違和感は、たったいま聞いたばかりのT子の言葉ばかりではなかった。
何かに僕は違和感を覚えている。
それは何か?
一秒にも満たない、その何十分の一かの時間のなかで、僕はその違和感の原因を探した。
そして、決定的なことに気づいた。
その後、僕はT子をもう一度振り仰いだ。
生きている時に毎日のように会い、笑い合っていたその顔は、深い悲しみを湛えていた。
僕は、その目をのぞき込んで、小さく頷いた。
T子も小さく頷いた。
こんな時、T子はよく僕を騙して嘘をついた。騙されるのはいつも僕で、T子はすぐに大笑いした。
そんなことをふと思った。
頷いたその後、僕は息を一つついて、目をつぶり、右手に力を入れた。
僕に委ねるように、T子の手が緩んだ。
その瞬間、僕はカミソリの向きを変えた。
僕の首筋から離したカミソリを、そのまま右に払った。
そこにはT子の顔があった。
T子が悲鳴を挙げ、顔を押さえた。
T子は、顔を押さえて部屋の隅の方へ転がっていった。
いや、それはT子ではなかった。
僕が感じていた違和感とは、その足にあった。
T子だと思っていたその女の右足には、小指があったのだ。
それはT子ではない。
宵子だ。
宵子は狡猾で、どんな方法を使ってでも騙してくるわ、と言っていたT子の言葉が思い出された。
宵子は、T子のふりをして僕に近づいてきたのだ。
いま目の前で苦しんでいる、この女こそが宵子なのだ。
→次の夜
失敗した
DATE: 10/25/2008 22:47:12
失敗した。
宵子は、一度で仕留めなくてはならなかった。
首を狙ったが、外してしまった。
顔を切られた宵子は、部屋の隅の闇の中へ転がっていった。
失敗したが、逃げるチャンスは今しかない。
僕は、出血のために次第に衰弱していくFを布団の中から引きずり出した。
もはや、僕に抵抗する力を残していない。
そのまま、引きずるように部屋を出た。
背後に聞こえる宵子の呻き声が遠くなっていく。
脇の下に肩を入れて、Fの体を支えながら歩くが、思ったようには進めない。
遠くに聞こえていた宵子の声が、再び近づいてきているような気がした。
しかも、今度は痛みに耐える呻き声ではない。
自分を傷つけた僕に対する激しい憎しみを声に宿し、わめきながら追いかけてくる。
振り返る余裕さえなかった。
僕は、Fの体を支えながら、障子の廊下、仏間、子供部屋、とひたすらあの扉を目指した。
けれど、宵子の声はどんどん近づいてくる。
その吐く息さえも、すぐ背後に聞こえる。
振り返れば、そこに髪の毛をかき乱した宵子が、顔から血を流しながら追いすがってきているはずだ。
恐怖は体を硬直させる。
僕は思ったように体が動かないことに苛立ちながら、それでもひたすら扉を目指した。
その気持ちはFも同じだったかもしれない。
最初は僕の肩に体をあずけるだけだったが、次第に自分の足で床を蹴ってくれるようになった。力は弱いが、それがどれほど助かったことか。
すぐ背後まで迫っていた宵子を、再び引き離すことができた。
それもわずかな時間だけかもしれない。
けれど、わずかな時間で十分だった。
扉は、もうすぐ目の前に迫っていたのだから。
扉を見た瞬間、少し焦ったのかもしれない。
床を蹴っていた僕の足が、少し低く動いた。軽く右足が躓きかけた。
普段なら転ぶはずはないけれど、Fを支えていたため、バランスを崩した。
そのまま、僕はFを送り出すようにして前のめりに転倒した。
Fは、僕に送り出されるようにして、開いていた扉から向こうへ転げ出た。
まさに、向こうへ。向こう側の世界へ。
まだ時間はあった。
宵子との距離は十分で、起き上がって扉の向こうへ逃げられるはずだった。
けれど、起き上がった僕の目の前で、扉は閉じられた。
Fが扉を閉めたのだ。
僕がノブに手を掛けようとした時、鍵を掛ける音が聞こえた。
そうだ、鍵はFが持っていた。
ノブをいくら回しても、扉をいくら叩いても、無駄だった。
そして、背後に激しい息づかいが聞こえた。
獣のような獰猛な息づかいだった。
そこに、宵子が立っていることは、振り返らなくてもわかっていた。
→次の夜
宵子と出会う
DATE: 10/26/2008 22:58:50
宵子を傷つけた途端、Fが宵子の呪縛から解かれ、僕と一緒に逃げていると考えたのは、勝手な思いこみだったようだ。
宵子は、Fを使って僕の逃げ道を塞いだのだ。
僕はそれ以上扉を叩くのを止めて、背後の気配を窺った。
荒い息が聞こえていた。
その息の音が近づいてきていないことを確認してから、僕はゆっくりと振り返った。
そして、長い間扉を挟んで会話をしてきた宵子の姿を、初めて目撃した。
古びた白く丈の長い寝間着を着て、長い黒髪を乱し、部分的に出ている手や足の皮膚は土気色に澱んでいた。
頬から血が流れているが、それを気にする風でもなく、両腕はダランと垂らしたままだ。
前に垂れた髪の毛の間から、恨みのこもった強い眼光が、僕の方を睨んでいる。
僕は、扉にぴたりと背中をつけ、宵子から4〜5歩離れたところにしゃがみ込んでいたが、それでも彼女の吐く息が顔にまでかかってくるように感じた。
振り返った僕と目が合うと、宵子は白い歯を見せてニタリと笑ったように思えた。
口の端が開くことで頬が盛り上がり、そこについていた傷がアケビのようにパックリと口を開いた。
傷は思っていた以上に深かったようだ。
土気色の顔の中で、頬の傷だけが鮮明な桃色を見せた。
笑った宵子は、僕の方に体を傾けると、一歩足を踏み出した。
僕は思わず右手に力を入れた。けれど、そこにあるはずの刃物の感触はなかった。目だけを動かして見てみると、右手は血まみれの手拭いが巻かれているだけで、先ほどまで持っていたカミソリが見当たらない。逃げている最中に落としたらしい。
僕が視線を宵子に移すと、体が前に傾き、もう一歩僕に近づいてきた。
再び、彼女が笑ったように見えた。
けれど、今度は笑った彼女の歯が闇の中に見えたのではないことに気づいた。
闇の中に浮かび上がっていたのは、彼女が口にくわえていたカミソリだったのだ。
カミソリに目を奪われていると、宵子はもう一歩前に進んだ。
もう、手の届くところまで迫ってきている。
けれど、宵子は躊躇しなかった。
続けてもう一歩足を踏み出すと同時に、僕の体に覆い被さり、いきなり僕の首を絞めてきた。
カミソリを口にくわえた彼女の顔が、目の前にあった。
いきなり息ができなくなり、反射的に手を首に持って行くと、そのまま僕の後頭部を扉に叩きつけるようにして、さらに強い力で絞めてくる。
首を絞めている手を緩めずに、肘を曲げたり伸ばしたりしながら、腕全体の力で締め上げてくるのだ。
どこにも逃げる余地はなかった。
宵子には何の迷いもない。僕を一気に殺すつもりだ。
深い憎悪、際限のない怨念。それが黒い塊となって目の前に存在していた。
意識が遠のき、体から力が抜けていくのを感じた。
その時、僕の持っている携帯電話が鳴った。
宵子の意識が一瞬逸れた。
僕は最後の力で、彼女の腹部を思い切り蹴った。
彼女の体が後ろに転がり、僕は激しい咳の後、再び息ができるようになった。
彼女が起き上がって、再び僕に迫ってこようとした時、僕は思わず叫んだ。
「なんで、こんなことするんだ?」
彼女は、今度こそ笑ったような気がする。
なぜなら、彼女はもう口にカミソリをくわえていなかった。
→次の夜
テレビの声
DATE: 10/28/2008 22:11:31
闇の中で、再び宵子が足を一歩踏み出した。
先ほど僕が蹴ったことなどなかったかのように、何の損傷も迷いもなく、また一歩、僕に近づいてくる。
僕の質問には一切答えるつもりはないらしい。
僕は再び身構えた。
その時、僕のすぐ後ろで苦しげな声が聞こえた。
扉の向こうにいるFの声だった。
「水貴…。宵子さんを困らせちゃいけないよ…。宵子さんは、とてもかわいそうなんだ…。守ってあげなきゃいけないよ…」
Fは、完全に宵子の悲しみの感情に冒されていた。
首からあれほど血を流しながら、まだそんなことを言っている。
僕が視線を戻すと、Fの言葉を聞いた宵子がニタリと笑った。
頬の傷が開き、闇の中で口が二つあるように見えた。
その笑い顔を見たとき、僕は底知れぬ恐怖を感じた。
馬鹿なことを言うな。この宵子の顔を見ろ。
僕は思わず叫んでいた。
「宵子さんはやつれてるんだ…。ものすごく辛い目に遭って疲れ果てているんだよ…」
僕の声に答えて、Fはそう言った。
それなら、この扉を開けて宵子の顔を見てみろ。
扉の向こうから、微かな笑い声が漏れてきた。
「そんな手に乗ると思ってるのか、水貴…?」
Fの声に合わせて、宵子も笑い声を漏らした。
僕は、ひどく屈辱的な気分になった。
その時、再び僕の携帯電話が鳴った。
宵子の顔から笑顔が消え、あからさまに不愉快な顔になった。
もっと彼女の感情を逆撫ですると、逃げ道がみつかるかもしれない。
僕は、宵子から視線を外さないようにしながら、左手でポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押すと、ゆっくり耳に当てた。
相手の声が聞こえるより早く、僕の携帯は宵子の手に払われて、部屋の隅に転がった。
「この扉の奥に閉じこめられる気分がどんなものかわかる? こんなに湿った空気中に菌の胞子が舞い、昼も夜もないような暗い部屋で、来る日も来る日も過ごす気分は、お前にはわからないだろう?」
扉の向こうで、Fがテレビのスイッチを入れた。
まるで、宵子が喋る声を掻き消そうとするかのようだ。
宵子はその音を聞いて、Fの行動に満足げに頷いた。
テレビではバラエティ番組をやっているらしく、タレントの声の後に会場の笑い声が響く。
それが遠くで聞こえる波のようだった。
そんなことを考えたのは一瞬のことだ。
次の瞬間、目の前に立っていた宵子が、しゃがみ込んで僕の耳に囁くように言った。
「お前のさっきの質問に答えてやろう。何故こんなことをするか? 私をこんなところに閉じこめて殺した男に復讐するためさ。一人はとっくに殺した。それは、私の夫だった男だ。だけど、私を閉じこめた男は、もう一人いる。そいつにはまだ復讐が果たせていない。そいつが現れるまで、私のこの部屋を侵す奴らは、どんな奴でも呪い殺すんだ」
もう一人…?
「そうだ、実際にこの扉に鍵を取り付けた鍵屋の男だ」
→次の夜
Fを病院へ
DATE: 10/30/2008 23:03:45
宵子の沼のように深い底なしの怨みは、鍵屋の男から来ていたのか。
しかし、それはきっかけに過ぎないだろう。
この不衛生で暗い部屋の中に閉じこめられ、昼なのか夜なのかもわからず、毎日毎日誰とも話をすることなく、娘のみすずに対する自責の念に苛まれながら暮らしていた宵子は、一日一日と日を追うごとにその怨みを膨らませていったにちがいない。
やがて衰弱して息を引き取るとき、その怨念が強すぎてこの世に残ってしまったのだろう。
もはや、鍵屋などどうでもよかったのかもしれない。
誰ひとりとして自分を救ってくれなかったことへの怨恨。いや、誰ひとりとして自分に気づいてくれなかったことへの怨恨と言っていいのかもしれない。
長い時間をかけて、降り積もる埃のように溜まってしまったのだ。
「あの女に電話して鍵屋を呼び出せ」
宵子は、僕の耳元にそう囁いた。
そのささくれだった囁き声が、僕の胸を抉った。まるで、何度も人を斬って刃こぼれした刀が、僕の胸を抉っているような感覚だった。
僕は、仕方なく女鍵屋に電話してみた。
ここ数日間、何度も電話していたが、彼女が電話に出た試しがなかった。今日出る保証はどこにもない。
案の定、何度コールしても彼女は出なかった。
その間じゅう、扉の向こうではテレビの音が聞こえてきていた。
僕がこんなところに閉じこめられて髪の毛を逆立てた恐ろしい女に呪い殺されそうになっているとは、世界じゅうの誰が知っているだろう?
テレビの音を聞いていると、そんな風に思えた。
それは、宵子が抱えていた孤独感と同じだった。
僕は、再び波長が合いそうになるのを慌てて止めた。
テレビはついているが、Fの声が聞こえない。
僕は、宵子に頼んでみた。
Fのことが気になる。あんなに血を流していたんだから、早く治療しなきゃ。
宵子は僕の言葉をせせら笑った。
「Fをそんな目に遭わせたのはお前だろう? 今度は罪滅ぼしに、Fを助けたいと言うのか? 自分の贖罪の気持ちを満足させて、お前自身が救われたいだけだろう? どこまで身勝手な奴だ。Fが死のうがどうなろうが、全部お前のせいなんだよ」
そうじゃない。僕は、Fを助けたいだけなんだ。
「身勝手だよ…、水貴…」
扉の向こうで、Fの声がした。
「僕をこんな目に遭わせて、自分だけ救われたいなんて…、身勝手だよ…。僕は、いまこの扉を…、監視してなきゃいけないんだ…。お前が、変なことをしないように…。だから、ここを離れるわけにはいかないんだ…。宵子さんの、ために…」
まだ助かるんだ。F、病院に行くんだ。
僕が喚くと、その声に反応するようにテレビのボリュームが大きくなった。
僕の声を掻き消そうと、Fがボリュームを上げたのだ。
どこかのタレントが何かを言うと、スタジオが笑い声に包まれた。
僕は、孤独感に空虚感を募らせた。
宵子は、勝ち誇ったようにニタリと湿った笑いを浮かべた。
僕は、自分でも気づかないうちに呟いていた。
病院に連れて行かなきゃ…。病院に連れて行かなきゃ…。
そんなことを呟いたところで何になるわけでもなかった。
そんな僕の様子を、勝ち誇ったように宵子が見下ろしていた。
僕は、その視線を感じながらも、呟くことを止められないでいた。
→次の夜
誰かが来た
DATE: 10/31/2008 23:14:45
病院に連れて行かなきゃ…。病院に連れて行かなきゃ…。
でないと、僕はこの部屋の中で宵子と同じように呟き続けることになるだろう。
あの時、みすずの鳴らした玄関のベルの音に気づいていれば…。
その思いを抱えたまま、奥の寝室の布団の中で死んでいった宵子。
あの湿った布団の中で、誰にも気づかれずに呟き続ける僕自身の姿が目に浮かんだ。
宵子の呪いが、僕の肩に重く深く覆い被さっている。
僕は、再び携帯電話を掴んだ。
今度は、自分から女鍵屋に電話を掛けてみた。
繋がらない…。
その様子を、宵子は勝ち誇ったように見下ろしている。
扉の向こうに声を掛けても、もうFは答えてくれない。
テレビのバラエティ番組の賑やかで狂騒的な声が、大音量で聞こえてくるばかりだ。
Fが、答える気がないのか、答えられないくらい衰弱しているのか、それすらもわからない。
時間ばかりが過ぎていき、僕は為す術もなく狼狽していた。
宵子はそんな僕の姿を、時々笑いを浮かべて見下ろしている。
そのたびに、闇の中で桃色の傷口が開く。
どのくらい時間が経ったのだろう。
いきなり、テレビの音が止まった。
「どうしたんだ?」
誰かの声が聞こえた。
それがYという男の声だ、と気づくまでに少し時間がかかった。
Yは、血を流しているFを介抱しようとしているようだった。
「くそっ…、邪魔が…」
宵子が口の中で呟いた。
僕は、その呟きで呪縛を解かれたような気がした。
思い切り扉を叩いた。
宵子が背後から覆い被さってきたが、叩くのは一回で十分だった。
「誰か、いるのか?」
Yの声がした。
「誰か、いるのか?」
僕は宵子に背後から首を絞められ、声を出すことができなかった。
やがて、扉の向こうで少し争う声が聞こえた。
Yが、Fから鍵を受け取ろうとして争っているのだろう。
けれど、時間はかからなかった。
鍵穴に鍵が差し込まれる音が聞こえた。
「邪魔が…」
僕のすぐ頭の上で、宵子がささくれだった刃物のような声を出した。
鍵が回る音が聞こえ、扉が開けられた。
Yはその場に立ちつくして僕を見た。
その足にFがしがみついて止めようとしていた。
Yは目を見開いて動かなかった。
