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水貴の日記 2008.09


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病院での再会

DATE: 09/01/2008 21:55:11
 
悪い予感のない時に限って人は死ぬ。
小学生の時叔母が亡くなったときも、僕は夏休みで、何の予感も感じていなかった。
川でザリガニを捕っていた午後に、誰かがやってきて、僕に家に帰るように告げた。
親しい人の死は、いつでもそんな風にやってくる。
僕は病院に向かうタクシーの中で、そんなことを考えていた。
 
病院には、T子の両親や親族とごく親しい友だちが集まっていた。
すでに午前2時で、病院内は静まりかえっていた。
僕は両親に挨拶をして、T子の顔を見せてもらった。
いつでも表情豊かなT子の顔が、じっと止まったまま動かない。
唇の脇がちょっと上がったいたずらっぽい顔つきは、見慣れたものだった。
一瞬、すべてが僕を驚かすための彼女の企みのように思えたが、そんなわけはなかった。
病院内には、警察の姿も見えた。
T子の死に不審な点があるということで、調べているらしい。
刑事らしい人物に話を聞かれている女の横顔に見覚えがあった。
すぐには思い出せなかった。
こんなところで出会うような相手ではなかったから、思い出せなかったのだ。
刑事に質問されている間、右耳を相手にかざしている姿が印象に残っていた。
あの家の玄関の鍵を作り直してもらう時に頼んだ鍵屋の女だ。
彼女は僕の視線に気づいて振り返った。
彼女は気づいていないようだった。
けれど、なぜ彼女がこんなところにいるのか?
僕も刑事に呼ばれて事情を聞かれる中で、その疑問は氷解した。
鍵屋の女がT子の死体を発見したのだ。
しかも、T子は暗渠の草むらの中で死んでいた、と言う。
あの日、不意に降り出した雨の中、T子のあとを追いかけていればこんなことにはならなかったかもしれない。
T子がみつかった暗渠の草むらは、僕が彼女に教えた場所だった。
その草むらの奥には、暗渠の点検口があったのだ。
T子は、その場所だったら僕が見つけてくれるだろうと考えたのかもしれない。
あの時、追いかけていればこんなことにはならなかったかもしれない。
せめて、蟻のたかったショートケーキを捨てに行こうとしたときに、ぬかるみに足を取られなければ、僕がT子をみつけてあげられただろう。
僕は、後悔していた。
 
→朝
 


 

大量の薬

DATE: 09/02/2008 07:10:49
 
明け方に家に帰ると、Fが布団の上に正座して僕を待っていた。
僕はひどく疲れていたが、Fはおかまいなしに話し始めた。
「鍵はどこだ?」
Fは、開かずの間の鍵がどこにあるかを聞いてきた。
僕が話題を変えようとしても、じっと僕を見たまま鍵のことを聞いてくる。
Dが死んだのは鍵を開けなかったからだ、というのがFの言い分だった。
あんなに開けてくれとDが言っていたのに、頑として僕が開けようとしなかったためにあんな目に遭ってしまった。その連鎖でT子も死んだのだ。
それがFの論理だった。
けれど、僕はその程度のことでFに鍵を渡すわけにはいかない。
開かずの間の奥にいる何者かが、鍵を開けさせようとしてFを惑わせているのだ。
Fは、同じ事を繰り返し言った挙げ句に、いきなり立ち上がるとトイレに駆け込んで吐いた。
ゴミ箱に捨てたはずの例の薬の包みが、何枚も部屋の隅に捨てられていた。
大量に服用していたらしい。
ひとしきり吐いてから、一気に体力を消耗したらしく、布団に横になった。しばらくは私を責めていたが、やがて寝入ってしまった。
 


 

宵子

DATE: 09/03/2008 02:16:26
 
一眠りして午後に起き出した。
昨夜の病院の風景が、夢のように思い出され、その後に現実味を帯びてきた。
T子が雨の降る暗渠で死んだ。
その死体は、あの豪雨の中、じっと僕に発見されるのを待っていのかもしれない。
あのとき、暗渠に出かけていれば、と、僕は後悔をしていた。
夕方になって、開かずの間を閉める頃から、家の中の空気感が変わっていた。
夜になるにつれて、開かずの間の奥の気配が濃厚になってきた。
10時くらいに、物音が聞こえ始めた。
最初は何かがきしむような音だった。それがはじけるような音に変わった。
やがて、扉の向こうで、明らかに誰かが歩いている音がし始めた。
僕は落ち着かなくなっていた。
いつもと違う感じだ。
扉の前から離れることができない。
12時を回る頃、足音が扉に向かって近づいてきた。僕に向かって歩いてきている、とはっきり意識した。
僕は、扉に耳を当てた。
その扉の反対側に、誰かが立っていた。
僕とその何者かの距離は、扉を挟んでわずか20センチもないだろう。
そして、初めて僕はその声を聞いた。
「水貴、待っていたわ」
息をつくのがやっとのような女の声だった。
僕には、すぐにそれが宵子だとわかった。
この開かずの間に、死んだ後も住み続けている女だ。
「ようやく話ができるわね」
僕は、こんな風に死んだ人間の声を聞くようなことはないだろうと思っていた。
位相が違っている以上、双方の回路が開かれない限り、鉢合わせすることはないはずだ。
僕には、その回路を開かない自信があった。
でも、いまその回路は開かれつつあった。
僕は、ようやく声を出した。
「どうして…?」
「それは、あなたが後悔したからよ」
宵子は、扉の向こうで小さく笑ったように思えた。
 
→次の夜
 


 

声が出ない

DATE: 09/04/2008 03:13:13
 
 
結局、明け方まで眠ることができなかった。
一昨日に続けて二晩も睡眠不足だ。
昼過ぎに起き出すと、Fの声が出なくなっていた。
喉がかすれて聞き取れない、という状態ではなく、全く声が出ないのだ。
口を開けて何かを言おうとするのだが、全く音にならない。
Fは不安そうな表情のまま、僕に背を向けて布団に戻ってしまった。
もうこれ以上、自分の惨めな姿を晒したくない、といった後ろ姿だった。
 
昼過ぎに起きたので、日のある時間は短い。
たちまち夕方がやってきて、開かずの間に鍵をかけた。
あまり寝ていないため、睡魔に勝つことができず、10時頃には床に就いた。
どのくらい眠っただろうか。
ドンッ、ドンッという激しい音で目が覚めた。
開かずの間の方から聞こえてくる。
時計を見ると、午前2時だった。
近づいていくと、Fが禁断の扉に向かって体当たりを繰り返している。
鍵を見つけられないため、扉を壊しても何とか開こうとしているようだ。
僕は慌ててFの動きを止めた。
けれど、その力は強く、ちょっと押さえたくらいではとても制止できるようなものではなかった。
Fを抱えるようにして床に座らせた。
荒い息をして強い力で僕の腕を振り払おうとする。
それを何回か止めるうちに、ようやくおとなしくなった。
腕を抱えるようにして、Fの隣に座った。
二人して並んで座り、激しい呼吸を整える。
ようやく息が楽になった時、不意にFがしゃべり始めた。
一瞬、声が戻った、と思ったが、その声はFの声ではなかった。
女の声だった。
 
→次の夜
 


 

小指の儀式

DATE: 09/04/2008 23:54:01
 
 
Fは開かずの間の扉に背をもたせかけて座り、女の声で喋り続けた。
Fの背中のすぐ後ろに誰かがいて、彼を操っているかのようだ。
その目は見開かれたまま、けれどどこにも焦点が合っていなかった。
時々、目玉がぐるりと回るが、それも何かを見ようとしてではなく、ただの眼球の運動に過ぎなかった。
Fの喋る口ぶりは、死んだT子そのものだった。
目をそらすと、そこにT子が座っているようだ。
少し早口で弾むような喋り方。
凍りついた表情のまま、見開いた眼球をぐるりと回し、T子そっくりの口調で喋るFの様子は、気味が悪くて仕方なかった。
Fが喋っているのは、僕とT子の思い出話だ。
大学で出会った時のこと、学食での食べたお互いの好物、午後の授業をさぼって映画に行った時のこと、付き合わされたショッピングのこと、など、他愛もないことばかり。
やがて、この数日の話になった。玄関先でT子を見かけてから、彼女が暗渠の草むらで死ぬまでの話だ。
彼女がいなくなってから発見されるまで、毎日集中的に豪雨が降り、横たわった彼女の死体を濡らした。
それが、どんなに寒くて惨めなことだったかを、彼女の声でFは喋り続けた。
夜になって闇が覆い、体がどんどん冷えて、動かなくなった体の上を蟻が這い、誰も私に気づかず、世界にたった一人きりで、どんなに悲しかったことか。
きっと追いかけてきてくれると思っていた。
そうでなくても、きっと死んだ私を見つけてくれると思っていた。
T子の声でFは私を攻め続けた。
僕にはわかっていた。
それはすべて宵子がやっていることだ。
僕の後悔の気持ちを膨らませて、僕の波長を彼女の波長に合わせようとしているのだ。
けれど、僕はそう簡単に宵子の思うとおりにはならない。
喋っているのはFだし、そこにT子はいない。
そんなことはわかり切っていることだ。
やがて、Fも疲れてくるだろう。そのうちに黙るにちがいない。
明け方近くなって、僕もかなり疲れてきた。
この数日の睡眠不足が祟っているのだ。
その時だ。
Fの口から、
「なんて、全部嘘だけどね」
という言葉が洩れた。
そのトーン、その口ぶり、そのタイミング。
T子そのものだった。
その瞬間、僕はそこにT子の存在を感じてしまった。
そこにT子がいる。
そう思った時に、一気に後悔の念が湧き上がった。
開かずの間の方に向かって、グッと何かに引き込まれるような感じがした。
扉の向こうに立っている宵子が、僕を引き寄せている。
その時、もうひと言、Fが喋りかけてきた。
いや、このときは本当にT子だったかもしれない。
「小指の幽霊の…」
僕は思い出した。
気持ちが宵子に引きずられるのを無理矢理ふりほどき、部屋を出て糸と針とカミソリを探した。
再び部屋に戻ると、Fの左足の小指と僕の左足の小指を結んだ。
小指の先をしばらく針で突き、その後、Fの右足の小指にカミソリを当てて、スッと横に引いた。
一瞬、何事も起きなかった。
次の瞬間、切り口から鮮血が溢れ、Fが絶叫を挙げた。
その時、僕は宵子の自分が手から逃れたのを感じた。
僕は傷口にハンカチを当ててきつく縛った。
Fは両手を振り回して僕をはたき続けたが、やがて意識を失った
意識のないFを布団まで運び、傷の手当てをする頃には、宵子の存在感は薄れかけていた。
T子の言ったとおりだ。
「次に会うときは、カミソリを忘れないでね」
今回は、T子に助けられた。
 
→次の夜
 


 

宵子の死体の変形菌

DATE: 09/05/2008 23:17:56
 
Fはすっかり体力を消耗してしまったらしく、布団から起き上がれないでいる。
昨日僕が傷つけた足の小指の傷を消毒して、また包帯を巻いた。
それでも、Fは無反応だった。
体力がなくなったためか、僕に対する信頼をなくしたためか、それはどちらともわからなかった。
 
変形菌の胞子がこの家の中に舞い始めている。
数年前のフィールドワークの途中、沼で死んだウサギの口から変形菌が出ているのを見たことがある。
その変形菌は、死体の体内に繁殖するという特徴を持っていた。
おそらく、この家にはそれと同じ変形菌が繁殖しているにちがいない。
この家が、祖父の言ったとおり沼の上に建っているのなら、環境にも共通点がある。
何より、Dの肺の中に変形菌が繁殖していたことを考えると、同じ種類のものだろう。
けれど、その変形菌は死体に繁殖するとは限定できない。
Fのひっかき傷にも生え始めていたからだ。
条件によっては、生体にも繁殖するのかもしれない。
 
夜になったら、また開かずの間に音が聞こえ始めた。
鍵のかかっている扉を、向こうから叩く音がする。
それに答えずにいると、やがて、幽かな声で哀願し始めた。
「ねえ、ここを開けて。ここを開けて。そこにいるのでしょう? ここを開けて」
僕が扉のすぐ前にいるのを見透かしているかのように、細い声で懇願してくる。
もちろん、その程度のことで僕の気持ちが揺らぐはずがない。
「あなた、水貴という名前でしょう? ねえ、水貴さん、ここを開けて。私は、体が弱くて、いつでも横になっていないといけないような女なの。こんな私になにができるの? 扉を開けても、私にはなにもできないわ。水貴さんが怖がるような相手ではないのよ」
宵子は僕を説得しようとしているが、僕は反応しない。
彼女の言葉に心を動かされるようなことはない。
「ねえ、水貴さん、見たでしょう? 私が寝ているところを」
宵子が寝ているところを見たとは、どういうことだろう?
「ほら、一番奥の部屋。あなたが私の鏡台の引き出しを開けたりしていたとき、一度振り返ったでしょう? あのとき、私が寝ているのが見えたはずよ」
思い出した。確かに、変形菌が女の寝ている姿に見えたことがあった。
「死んだ私の体に変な菌が繁殖してね、どんどん繁殖するうちに私の全身を覆ってしまったの。私の死体が運び出された後も、畳の上に私の体の形のまま菌が残ったわ。その菌は、私の体の養分を吸収して増え続けたの。なにを言っているか、わかる?」
そのまま、宵子は扉の向こうでしばらく黙った。
僕はなにも答えなかった。
死者と話すことなど、なにもないのだ。
扉の向こうで、かみ殺した笑いが聞こえた。
宵子は、なにがおかしいのか笑っていた。
僕はその笑いの意味を知りたくなったが、声を掛けることはしなかった。
死者に話すことなど、なにもない。
宵子は笑い続けていた。
 
→次の日
 


 

Fの外出

DATE: 09/06/2008 13:39:22
 
 
毎晩、宵子に邪魔されてなかなか眠ることができない。
どうしても睡眠不足気味で、起きるのも昼過ぎになってしまう。
今日も起きたのは1時くらいだった。
起きると珍しくFが布団から出ていて、元気そうに外出する支度をしている。
どうしたのか、と聞くと、体調がいいので散歩がてら買い物に行ってくるという。
声帯は戻っていないのか、女のような声のままだが、それ以外は昨日に比べると見違えるように元気そうだ。
何にしても良いことだ。
あまり無理をしないように、と言って送り出した。
 


 

みすずの髪の毛

DATE: 09/06/2008 15:09:00
 
 
Fがいないうちに、開かずの間をもう一度確認したかった。
宵子についての知識をもう少し持っていた方が、僕にとって有利になるように思えたからだ。
子供部屋には、多くの痕跡が残っていた。
Dが言っていたとおり、その部屋には“みすず”という女の子がいたらしい。
小学校4年生の教科書が出てきたから、10歳くらいだったのだろう。
10歳まではその部屋で生活をし、それ以降はその部屋に戻ってはいない。
何故だろうか。
教科書の発行年は、1989年だった。今から20年近く前の話だ。
その疑問は、仏壇を見て氷解した。
みすずの位牌が置いてあったからだ。
みすずは、1989年6月21日に10歳で亡くなっている。
けれど、仏壇に宵子の位牌は置かれていなかった。
ということは、今の部屋の状態のまま、宵子は生活をしていたことになる。
みすずの部屋をそのままにし、死んだ娘のために雛人形を飾り、奥の部屋に伏せっていたのではないか。
そんな時が止まったままのような生活。
そのことを想像しながら、仏壇を探っていると、思わず声を挙げそうになった。
仏壇の引き出しに手を入れて中を確認していたら、指先にザワッと何かが触ったからだ。
引き出しをそのまま出して、仏壇のろうそくに近づけてみると、そのなかに一房の髪の毛が入っていた。
黒く細く柔らかい髪の毛。
みすずの髪の毛だ、とすぐに思い至った。
宵子は、みすずの遺体から髪の毛を切って、手元に置いていたのだろう。
きっとお通夜の晩だ。明日には遺体も焼かれてしまう。
自分から離れていってしまう娘の温もりを、少しだけでも身近に置いておきたくて、みんなが寝静まった深い時間に、棺桶の蓋を開けて娘の髪の毛を切ったにちがいない。
その思いがこもった少女の髪の毛は、一層気味の悪いものに思え、僕はそのまま仏壇の引き出しに戻した。
 


 

Fとの食事

DATE: 09/06/2008 23:58:25
 

5時頃にFが帰ってきた。
牛肉や卵、ネギや焼き豆腐を買ってきて、今夜はすき焼きにしようと言う。
見ると見事な霜降りだ。さぞかし高かっただろうと聞くと、100gで1200円もしたらしい。
やけに羽振りがいいが、Fが自分で体力をつけたいと思ってのことだろう。今回は甘えてしまおう。
そのほかにも、電球をいくつか買ってきた。
開かずの間の手前の部屋の電球がよく切れて、納戸や茶の間から電球を抜いて当座をしのいでいた。
Fの買ってきてくれた電球のおかげで、ようやく家の中が以前のように明るさを取り戻した。
明るい茶の間で、Fと僕は高級な肉をふんだんに使ったすき焼きを食べた。
舌がとろけるようにおいしかったが、Fが食べたのは最初の数枚だけ。あとは、ニコニコしながら僕の食べる様子を見ている。
残りは、ほとんど僕が平らげてしまった。
夜がやってきて、Fはまた体調が悪くなったようだった。
僕はFを寝かしつけて、満腹のお腹を抱えて洗い物をした。
平和な一日だった。
夜になって、開かずの間から宵子の声が聞こえてきたが、昨晩ほどの激しさはなかった。
 
→次の夜
 


 

うなぎ

DATE: 09/07/2008 23:48:37
 
今日も体調がよいと言って、Fは午後散歩に出かけた。
帰ってくると、今度はうなぎの蒲焼きや肝焼き、ケーキなどをぶらさげている。
昨日から、精のつきそうなものばかりを買ってくる。
そんなわけで、今夜はうなぎをたらふく食べることになった。
相変わらず、Fは少し箸をつけただけで、残りは僕が食べることになった。
 
昨日のすき焼きと今日のうなぎで、体が随分生臭くなったような気がする。
Fを先に風呂に入れ、その後、僕も風呂に入った。
湯船に浸かってしばらく目を閉じていると、急にお湯が重くなったような気がした。
目を開けると、水面にびっしりと髪の毛が浮いている。
昨日、仏壇で亡くなったみすずの髪の毛を見たばかりだったから、一瞬その髪の毛かと思った。
よく見ると、あんなに細くしなやかな髪ではない。
ところどころ癖があるのを見たとき、Fの髪の毛だと気がついた。
でも、なぜこんなに大量のFの髪の毛が湯船に浮いているのだろか。
風呂から上がってFに問い詰めると、そういえば髪の毛が抜けやすくなっていて、一度気になって抜き始めると際限なく抜いてしまうのだと言う。
本人は笑いながら話しているが、異常としか思えない。
 
夜になって、開かずの間から柱時計の鳴る音が聞こえてくる。
多くても12回鳴れば止まるはずなのに、何回も何回も鳴り続けている。
気になって開かずの扉の前まで行って耳を澄ます。
やがて、時計は鳴るのを止めた。
その後の静寂の中で、誰かが誰かと喋っているのが聞こえてきた。
宵子だけではなかった。
宵子が、誰かと囁き合っているのだ。
しかも、それはどうやら僕のことを話しているらしい。
時々、「水貴が」というような声が聞こえてくる。
「そろそろ…」「もう…」などというのが、断片的に聞こえてくる。
一体、僕のなにについて話をしているのだろう。
気になって仕方ない。
 
→次の夜
 


 

宵子の薬

DATE: 09/08/2008 23:50:39
 

Fは、今度はレバーを買ってきた。
焼いたレバーを少し食べるのはいいが、それだけを大量に食べるのには難儀した。
ここのところ、毎日出かけては何かを買ってきてくれる。
最初のうちは、寝込むことの多かった自分の世話を、僕が続けていたことに対する感謝のつもりだろうと考えていた。
けれど、毎日続くと少しばかり気になってくる。
 
昨日、宵子と誰かが、夜中の開かずの間で僕について話していた内容が気になって仕方ない。
けれど、こうして気にすること自体が、宵子の企てかもしれない。
とにかく、宵子や開かずの間に興味を持たないことだ。距離を置いておかないと、DやT子のようになってしまう。
夜になって、開かずの間からまた柱時計の音が響いてきた。
最近、Fは不気味なくらい陽気で、一人でクスクス笑っていることが多い。
特に夜になると、その傾向が強くなる。
柱時計が鳴ったときも、何がおかしいのか笑っている。
やがて、柱時計が鳴りやむと、開かずの間の奥の方から鈴の音が聞こえてきた。
音はまっすぐに近づいてきて、御札の貼ってある扉の前で止まった。
やがて、扉の向こうから、宵子が話し始めた。
「ねえ、返して」
何のことだろう?
「ねえ、返してってば」
僕はなにも喋らなかった。
喋ったところで、僕は何もわかっていないのだ。
やがて、宵子は再び話し始めた。
「水貴さん。あなたのお父さんやおじいさんはどういう方かしら? 人の持ち物に手を出してもなにも言わないような方なのかしら?」
何を言っているのだろう?
「ひどいわね、水貴さん。まだわからないの? 私の薬のことよ。私の大事な薬を全部持って行ってしまったでしょう? 病人から薬を盗む人なんて、そんなひどいこと、聞いたことがないわ。盗むだけじゃなくて、私が苦しむ姿を見て喜んでいるのね。残酷でひどい人。こんなに病人が話しかけても、一言も返事をしないし、冷たい氷のような心しか持っていないのね。ねえ、薬を返してください。私をこれ以上苦しめて、なにが嬉しいの? ねえ、その薬がないと、私は苦しくてならないの」
ようやく私は思い出した。
何日か前に、開かずの間の一番奥の部屋に入った時のことだ。
あのとき、鏡台の引き出しに入っていた薬をすべて持ち出してきた。
そのことを言っているのだ。
宵子は、薬がないから苦しい、と言って僕を責め続けた。
その後、薬をいますぐ持ってきてほしい、と懇願してくる。
Fが飲んでいた薬があるはずだ、とも思ったが、それ自体がおそらく宵子の企てだろう。
宵子は、僕の良心に訴えかけようと考えているのだ。
けれどそんなことは、僕にはあまり意味のないことだ。
ただ、いつのまにか手元に薬の包みがあった。
僕は、その包みを見ながら、宵子の話を聞き続けた。
 
→次の日
 


 

柱時計の中

DATE: 09/09/2008 16:46:33
 
毎晩、開かずの間の柱時計が鳴るので、昼間のうちに調べてみることにした。
振り子の下がっている小窓を開けると、そこに銀行通帳が隠されていた。
取り上げようとして、おかしなことに気づいた。
もう何年も、その通帳には手が触れられていなかったため、時計の中とはいえ、薄く埃が積もっていた。
けれど、通帳の上に一部分だけ埃が積もっていない場所があったのだ。
何か名刺くらいの大きさの四角いものが置かれていた跡が、そこにあった。
キャッシュカードだ。
おそらく、通帳の上にはキャッシュカードが置かれていたのだ。
それが、後にそこから持ち去られた。だから、そこだけ埃が積もっていないのだ。
僕は用心しながら四角い跡を指でなぞってみた。
なぞった指先を見てみると、全く埃はついていない。
このことから考えて、つい最近、キャッシュカードは持ち去られたに違いない。
通帳を取り上げてみてみると、名義はやはり宵子の名前になっていた。
中を開くと、最後に記帳された日付が印字されていた。
1990年9月9日。
9月9日といえば、今日と同じ日付だ。
急に、その通帳を使った日が現実味を帯びたものに感じられた。
下ろした金額は3000円で、残金はわずか400円足らずだった。
18年前の今日、宵子は銀行にでかけていって、この通帳のほとんどのお金を下ろしたことになる。
もし、この通帳が宵子の全財産だったとしたら、相当困窮した生活を送っていたのかもしれない。
けれど、その想像は当たっていた。
通帳の下に、何枚かの紙をみつけた。
取り出してみると、光熱費の督促状だった。
電気、ガス、水道、電話…。
そのすべてが、差し止めの通知だった。
最後の水道の差し止めは、8月23日だった。
それから、少なくとも9月9日までは、宵子は灯りもガスもない生活を送っていたのだろう。
何の調理もできず、飲み水もなく、風呂もトイレも使えない生活。
1年前にみすずを失ってから、宵子はこの家でたった一人、苦しい生活を送り、最後の数ヶ月は身を削るようにして日々を過ごしていたのだろう。
もしかしたら、あの薬も最後の薬だったのかもしれない。

 


 

想像できる

DATE: 09/10/2008 01:48:11
 
Fは今日も僕に高価な食材を買ってきた。
昼間のこともあって、あまり食は進まなかった。
Fは不満そうな表情をして、早めに床に就いた。
 
夜になって、開かずの間から宵子の声が聞こえてきた。
僕を呼んでいる。
僕は布団の中で体を固くしていた。
昼間、宵子の通帳に触れたのがよくなかった。
あまり感情が動かない僕でも、18年前の今日、この家で宵子がどんな風に過ごしていたかは想像できる。
電気のない真っ暗な家の中で、風呂にも入れず、病の体を抱え、たった一人で、夜をみつめていた彼女の姿は想像できる。
 
これ以上は書くのをやめよう。
宵子に対して、憐憫の感情が生まれそうになってきた。
これを書いている間に、僕の感情が動き始めたに違いない。
それに伴って、開かずの間の彼女の存在が大きくなってきている。
僕の波長が宵子の波長に合い始めている。
危険な兆候だ。
もう今夜は書くのをやめる。
 
→次の夜
 


 

気味の悪い月の夜

DATE: 09/10/2008 23:53:03
 
気味の悪いオレンジ色の月が西の空に浮かんでいる。
昨日から、変形菌の胞子の量が増え続けていたようだ。
昼間開かずの間を開けると、思わず咳き込んでしまった。
そんな空気の悪い中、Fはずっとみすずの部屋で本を読んでいる。
何も、こんな空気の悪い中で本を読むことはないだろう。
ただ不思議なのは、僕は咳き込んでしまうのに、Fは平気な様子で普通に呼吸をしている。
以前は、激しい咳に悩まされていたのに、今では僕よりの平気になっている。午後になって、Fの足の小指の手当をする。
包帯を解くと、その下は湿っていて、傷口に変形菌がびっしりと生えていた。
僕が思わず包帯を取り落とすと、Fは女の声で笑った。
その様は、まるでそこに宵子がいるみたいだった。
 
夕方になって、急激に宵子の気配が濃くなってきた。
僕は、宵子のことを考えないように努めたが、彼女が扉越しに話しかけてくると、それを貫くことは難しくなってくる。
宵子は僕に語りかけてくる。
「ねえ、私の薬を返して。もうそれしかないの。私の薬を返して」
生活に困窮していた宵子にとって、薬は貴重なものだったろう。
それを考えると…。
いや、そんなことを考えることは、全く無意味だ。
彼女はもう死んでいて、薬があったところでどうなるものでもない。
僕は、彼女の声に耳を貸さないように心がけた。
彼女は、あの奥の部屋の布団の上で、もう18年も前に死んでいるのだ。
死体だって、とっくの昔に運び去られている。
ただ、その死体には変形菌が生えていた。
死体を養分とした変形菌は、18年経っても、この家に繁殖を続けている。
特に、昨日からは、その胞子が著しく舞っている。
「ねえ、5日前に私が言いたかったことはわかったかしら?」
変形菌の胞子のことを考えていると、宵子が僕に話しかけてきた。
そして、僕は理解した。
この変形菌は、宵子だ。
宵子の体の養分を吸収して成長しているとすれば、宵子の肉体が変形菌を作っている。
その変形菌が、胞子を飛ばして僕たちの体に入ってきている。
Dの肺が変形菌でいっぱいになっていた、ということは、Dの肉体そのものが宵子に支配されていた、と言ってもいいのかもしれない。
Fも、その肉体を宵子に奪い取られかけている。
声帯に変形菌が生え、女の声に変わってしまった。
それも宵子の支配だ。
宵子は、Fの体を乗っ取り始めている。
「ねえ、わかった?」
絶妙なタイミングで宵子が声を掛けてくる。
宵子は、ただ取り憑いてくるわけではない。
体そのものを自分のものにしようとするのだ。
「ねえ、わかったの?」
二度目の問いかけには、侮蔑の笑いの雰囲気が含まれていた。
僕は、何と返事をすればいいのだろう。
僕の中に、初めて恐怖が浮かび上がってきた。
僕は、それを強引に押し戻した。
 
→次の日
 


 

体が重い

DATE: 09/11/2008 11:45:13
 
 
昼前に起きると体が重い。
昨夜の記憶からだろうか、変形菌が僕の体を侵し始めているような気分になる。
気のせいだろうが、用心しておいた方がよい。
宵子は心を支配するだけではない。体ごと支配するのだ。
宵子に、取り憑かれるのではない。宵子に、なってしまうのだ。
僕は宵子のことを軽く見過ぎていた。
これからは、もっと用心しなくてはならない。
Fは声まで変わってしまった。もうかなりの部分まで宵子に支配されているのかもしれない。
 


 

置き時計

DATE: 09/11/2008 15:26:32
 

明日は以前から予定されていた祖父の手術だ。
とはいえ、それほど大きな手術ではないので心配はしていない。
2時間くらいで終わる簡単な手術だ。
僕に何ができるわけでもないが、祖父の気晴らしくらいにはなるだろうと思って、重い体を引きずって病院へ出かけた。
以前病院で感じた違和感、自分がここでは異物であるという感覚は、前にも増して強くなっていた。
自分で気づかないうちに、僕の体はやつれ、薄汚れ、他の人とは少し違う気配を持つようになっていた。
病室に入ると、祖父は嬉しそうな表情の後、一瞬不安そうな顔になり、「誰か一緒なのか?」と言って首を伸ばした。
僕は思わず後ろを振り返った。
もちろん、そこに誰かいるはずもない。
「誰か一緒だと思ったが」
僕は否定できなかった。
「気のせいか…」
その後は、いつものように祖父の話につきあって時間が過ぎた。
祖父は僕に気を遣ってか、それとも本当にそうなのか、明日の手術に対する不安を全く表に出さなかった。
2時半くらいになって、そろそろ帰ろうとして思い出した。
祖父のために持ってきたものがあったのだ。
置き時計だ。
手術の後、体が動かせない時に、すぐに目に入るように大きめの時計がほしいと言っていた。その時計を持ってきていたのだ。
「これでいい?」
と、僕は文字盤や針がわかりやすい時計を祖父に見せた。
「ああ、これか」
と、祖父は言った。気に入ったようだった。
その後、病室を出るとき振り返ると、祖父は「気をつけて」と言って笑って手を振った。
僕は誰かそこに残っている、と一瞬思った。もちろん、誰もいるはずがない。
 


 

置いてきてしまった

DATE: 09/12/2008 02:11:30
 
 
いま、こうしてこれを書きながら、すぐにでも病院に行った方がいいのではないかと心がざわめいている。
なぜ、僕はあんなことをしたのだろうか。
祖父のところに持って行った時計は、開かずの間の一番奥の部屋に置かれていた置き時計だったのだ。
宵子が寝ていた部屋だ。
僕は、開かずの間のものには手を触れないように心がけていた。
もちろん、それを持ち出すことなど、あってはならないことだ。
なのに、僕は宵子の時計を祖父の病室まで持って行ってしまうとは。
不安感が募った。
ただ、冷静に考えてみると、そんなことを考えていること自体が異常なような気もしてくる。
病院に入っていった時の違和感が思い出された。
自分は、空気も流れないこの窪地の家に住みながら、社会から少しずれ始めているのかもしれない。
こんな夜中に、傍から見たら何の変哲もない時計を病室まで取りにくる、という行動を看護士が見たら、きっと異常だと感じるだろう。
確かに、僕はいま尋常ではない。
そう考えると、納得がいった。
ただ、不安感は消えない。
開かずの間は、今夜は比較的静かだ。
時折、笑い声のようなものが聞こえるくらいだ。
 
気持ちがいつまでたってもざわついている。
 
→次の夜
 


 

祖父の手術

DATE: 09/12/2008 23:34:27
 
 
祖父の手術は午後からだった。
手術が終わったからといってすぐに帰るわけにはいかない。おそらく、この家に帰るのは夜になるだろう。
開かずの間を閉めて出ることにしたが、夜、Fをこの家に一人残したことはなかった。
それがいささか心配だった。
ただ、最近のFの明るい雰囲気を考えると、杞憂にすぎないとも思えた。
考えても仕方がないので、Fを残して家を出た。
 
病室には、父や親戚が集まっていた。
僕が到着すると、祖父は嬉しそうに迎えてくれた。
昨日水貴が持ってきた置き時計が気に入っている、とベッドの周囲を取り囲んだ親戚に笑いかけた。
僕は、その時計を取り戻したかったが、そうはいかない雰囲気になってしまった。
手術も終わって数日経てば、別の時計と交換してもかまわないだろう。
とにかく今は、祖父が気に掛かるようなことはしない方がいい。
そう思っている間に、祖父は手術の準備に入り、そのまま手術室へと運ばれていった。
手術室のスプリングドアを通るとき、祖父は笑いながら手を振った。
誰もが心配はしていない風を装っていたが、高齢なので不安がないわけではなかった。
手術中、僕は久しぶりに会う父から、早く帰ってくるように、と説教をされた。
確かに、僕は何故あの家にいるのだろうか?
あの家にいると、それが当たり前のことに思えるが、こうして離れて見てみると、やはりおかしなことだろう。
僕は、父の話にいちいち頷いた。
 
手術は2時間後に無事終わった。
今夜は麻酔が効いていて眠ったままだろう、ということだったので、みんなで食事をしてから別れた。
家に帰ってきたのは、9時過ぎだった。
Fは、もう床に就いていたので、僕は声をかけなかった。
ただ、様子が変だ。
説明のしようがないが、何か違和感を覚える。
開かずの間にいってみると、確かに鍵は掛かっている。
けれど、何とも言えず変な感じがするのだ。
もしかしたら、僕が長い時間この家を離れて病院にいたため、この家の持つ異質な感じを改めて感じ取っているのかもしれない。
そう考えると、いくぶん納得がいった。
 
今夜はまだ宵子の声を聞いていない。
 
→次の夜
 


 

麻酔が切れて

DATE: 09/13/2008 22:40:41
 
 
午後から祖父の病院に見舞いに行くため、昼前には家を出なければならない。
昨夜は親戚と食事であまりきちんと食べられなかったせいか、ひどく空腹だった。
冷蔵庫を開けると、驚くほど大量の食材が入っていた。
しかも、どれもがかなり高価な食材ばかりだ。
学生の身である僕らには、贅沢すぎる内容に、少し戸惑った。
Fはなぜ急に、高級食材ばかりを買い込むようになったのだろうか?
いつまでも冷蔵庫の扉を開けたままにしているわけにもいかず、中から適当に選んで、今まで食べたことのない高価な朝食を平らげた。
そろそろFが起きてくるのではないかと思ったが、結局顔を見せなかった。
開かずの間の鍵を確認したが、昨日のまま施錠されていた。
異常はないようだ。
布団にくるまっているFに声をかけたが、まだ眠っているようで返事がない。
仕方なしに、そのまま家を出た。
 
病院に着くと、もうすでに父や親戚は集まっていた。
祖父も麻酔から覚めて、もう話を始めていた。
ただ少し様子がおかしい。
僕の顔を見て名前を口にしたが、それは知らない人の名前だった。
「違うよ、僕だよ、水貴だよ」
と、言っても、不思議そうな顔をするばかりで、僕のことを水貴だとはわかっていないようだった。
僕が何度自分の名前を口にしても、何の反応もなかった。
やがて、僕に興味をなくしたかのように、窓の外を見始めた。
あの優しかった祖父が、急に僕のことがわからなくなってしまったことに、少なからずショックを受けた。と同時に、怒りのようなものが沸き上がってきた。
そんな様子を見て、父が僕を病室の外に連れ出した。
「どうやら私たちのことがわかっていないようなんだ。そのくせ、昔のことはよく覚えている。若かった頃のことや子供の頃のことは鮮明に思い出すようだ」
一体、なぜそんなことが起こったのだろう。
僕の疑問に答えるかのように、父が言葉を繋いだ。
「麻酔が切れるときにはこんなことがよく起こるらしい。さっき先生に聞いたら、心配することはない、と言われたよ。水貴もよくわかっているだろ? 一過性のもので、麻酔が抜けたら元に戻るからって」
父も同じ事を考えていたのだろう。
叔母が亡くなった時のことだ。
あのときも、麻酔が切れた後の叔母は、やはり父や祖父や僕のことまで、まるっきりわからなかった。
まだ子供だった僕には、大好きな叔母が僕の名前を忘れてしまったことが衝撃だった。
衝撃というより恐怖だった。
ベッドの上にいるのは、叔母の姿はしているが、実は叔母ではない。全く僕の知らない人間なのだ。
そうでなければ、こんな風に僕の名前を忘れてしまうことは考えられない。
そのような恐怖だった。
叔母はその後まもなく、術後の経過が悪くなり亡くなってしまった。
そんな記憶が思い出されると、祖父の病室も急に暗いものに変わってしまった。
明日になれば、麻酔も抜けて名前を思い出すだろう。
みんなが口々にそう話す。
僕も同意してから、買ってきたばかりの置き時計を祖父の枕元に置き、先日持ってきた置き時計を持って帰ろうとした。
すると、祖父が大きな声でそれを拒否した。
誰もが驚いた。それくらい大きな声だった。
何故か、祖父はその置き時計に執着していた。新しい置き時計も見やすい文字盤と針に変わりなかったが、それでは駄目なようだった。
結局、あの置き時計はそのまま祖父の枕元に置いたままになった。
 
帰ってきたら、Fはまだ寝ていた。
どうやら体調が芳しくないらしい。
このところ元気そうに見えていたが、まだ体力も回復していないまま外出して、かえって疲れてしまったのかもしれない。
開かずの間は、異常ない。
出かけた時のまま、鍵がかかっている。
僕は冷蔵庫に入っていたステーキ肉を焼いて食べ、Fのためには消化の良さそうな料理を作った。
冷蔵庫に入れておけば、夜中にでも起きて食べるだろう。
ひとりで食事をしながら、昼間の病室のことを考えていた。
思いの外、ショックを受けている自分がいることに気づき、若干自己嫌悪に陥った。
 
→次の夜
 


 

Fの布団

DATE: 09/14/2008 20:40:41
 
 
昼前に起きてFの様子を窺うが、昨日と変わりなく布団にくるまっている。
冷蔵庫を開けると、昨日Fのために用意した軽食が手つかずのまま残っていた。
全く何も食べていないのだろうか。
さすがに心配になって、Fに声を掛けてみた。
返答がない。
一昨日、帰宅したときの違和感が蘇ってきた。
布団の様子が少し変だ。
もう一度、Fの名前を呼びながら布団に触れてみた。
すぐに、そこに誰もいないことに気がついた。
めくってみると、Fの姿はなかった。
一昨日から、布団の様子は変わりなかった。
あのとき感じた違和感は、出かける時と帰ってきた時の布団の様子が全く変わりなかったからだ。
ということは、出かける前からFはそこにいなかったのだ。
僕は、玄関に行って下駄箱の中を確認した。
Fの靴も僕の靴も、すべてそこにあった。
ということは、この家の中にFはいるということだ。
嫌な予感がした。
僕は、一昨日から鍵を掛けたままだった開かずの間を開けた。
Fの名前を呼びながら中へ足を踏み入れた。
生臭いような、水の澱んだ沼のような匂いが鼻をついた。
さすがに、歩を進めるのがためらわれた。
けれど、Fを探さなくてはならない。
僕は一歩ずつ先へ進んだ。まるで、沼の中を歩いているようだった。
雛人形の飾られている部屋を抜け、みすずの子供部屋から仏間へと足を進める。
けれど、Fの姿は見えない。
奥へ奥へと進むと、沼の匂いはますます濃くなっていく。
一番の奥に宵子の寝ていた寝室がある。
その扉を開けるのには、少しの決意が必要だった。
引き戸をゆっくり引くと、部屋の真ん中に布団が敷かれていた。
以前は、そんなものはなかったはずだ。
布団には、誰かが寝ていた。
黒い髪の毛が掛け布団から覗いている。
僕は、恐る恐る声を掛けてみた。
Fの名前を呼ぶと、少し反応したようだった。
もう一度名前を呼んでみる。
明らかに反応があった。
体を揺すると、Fがゆっくりと顔をこちらに向けた。
その顔は、女の長い髪の毛に覆われていた。
僕がぎょっとして手を引くと、Fはその手にすがるように僕に助けを求めてきた。
起き上がってきたFは、まるで病人の女のようだった。
恐怖はあったが、Fに違いない。
僕はその体を受け止めた。
そのまま、Fの体を引きずるようにして寝室を出た。
早くこんなところは出た方がいい。
引きつっているFの脇に手を回し、できるだけ早く開かずの間を出たかった。
ようやく開かずの間を出たとき、携帯電話が鳴った。
父からだった。
出ると、今日は見舞いに来ないのか、と言う。
2時に行く約束だったので、まだ時間があるじゃないかと言うと、
「何を言ってるんだ? もう4時だぞ」
と言う。
そんなわけはない、と言おうとして気がついた。
一昨日感じた違和感は、実はもう一つあったのだ。
家じゅうの時計が狂っているのだ。
僕は、もう少しで4時以降の開かずの間に残ってしまうところだった。
 
→次の夜
 


 

わたしはからだがよわくて

DATE: 09/15/2008 23:00:55
 
 
わたしはからだがよわくて
しょうがくせいのみすずをおくりだすと、
よくおくのへやにふとんをしいて
ねていました。
はれているときは
まだいいのですが、
きあつがひくくなって
あめがふりはじめると、
おきていることが
つらくてたまりません。
からだがおもくて
だるくて
ねつがでて
おきていられなくなってしまいます。
それでも4じになると、
かならずおきだしました。
げんかんさきにすずのおとが
きこえてくるのです。
みすずがもっていた
げんかんのかぎについている
すずのおとです。
みすずがかえってきた
とおもうと
おきておやつを
よういしてあげます。
そのひは
もうなんにちも
あめがつづいていた
つゆのまっさいちゅうです。
わすれもしない
げしのひです。
そのひはしょーとけーきを
よういしていました。
けれど
なぜかそのひ
4じにおきることが
できませんでした。
みすずはがっこうがえりに
かぎをおとしていました。
4じになってもすずのおとは
きこえてきませんでした。
みすずはげんかんのとびらを
たたいたかもしれません。
けれどわたしは
ふかいねむりにおちていました。
ぬまのそこのような
ふかいねむりです。
みすずはあきらめて
おとしたかぎをさがして
きたみちをひきかえしました。
わたしがおきたのは
しつこくなるでんわのせいでした。
でてみるとそれは
みすずが
しんだ
ことを
しらせる
でんわ
でした。
あめのふるなか
あしもとをみて
あるいていたためでしょう
まえからきたくるまに
きづかずに
みすずはしんでしまいました。
わたしのせいです。
あのとき
わたしがおきていれば
みすずはしぬことは
なかったのです。
わたしのせいです。
みすずがしんだのは
わたしのせい。
わたしのせい。
わたしのせい。
 
それから
わたしは
このへやで
みすずとふたりで
ずっと
みすずと
ふたりです
 
起き出してみると、憔悴したFが一人でノートパソコンに向かってキーボードを叩いていた。
声をかけても反応しない。
近づいていっても振り向きもしなかった。
Fは人差し指だけでキーボードを叩いていた。
見慣れたFのキーボードの打ち方とは、まったく違っていた。
まるで、初めてパソコンに触る人のようだった。
ディスプレイをのぞき込むと、そこに打たれていたのは、ひらがなだけの文章だった。
その内容を消さないまま、ここに載せてみた。
宵子だ。
宵子がこれを打っていた。
Fは二晩を開かずの間で過ごし、宵子が死んだ布団に寝て、完全に宵子に体を乗っ取られたのだろうか。
この文章を打ち終わると、Fはそのままバタリと仰向けに倒れた。
 
→次の夜
 


 

Fが帰ってこない

DATE: 09/16/2008 23:42:30
 
 
起きると、パソコンにまたひらがなだらけの文章が打たれていた。
僕の寝ている間に、Fが打ったにちがいない。
いや、それは宵子が打ったと言っていいだろう。
 
みつけてあげないと。
みすずがさがしていた
すずを
みつけてあげないと。
みすずがさがしに
いったかぎは
しんだみすずの
てのなかにありました。
それでもみすずは
なにかをさがして
もときたみちを
もどっていったのです。
みすずがさがして
いたものは
かぎについていた
すずでした。
すずをさがして
みちをあるくうちに
くるまにひかれて
しんでしまったのです。
でもそのすずは
そのあとも
でてきませんでした。
すずをみつけてあげないと。
みすずのすずを
はやくみつけてあげないと。
 
開かずの間には、止まった感情が澱んでいる。
宵子の後悔の念だ。
宵子は、みすずが死んだのは自分のせいだと、ずっと自分を責め続けながら、この家のあの扉の奥に暮らしていた。
いや、今も、その部屋に暮らしている。
4時になるとみすずが帰ってくると思って、宵子は目覚めるのだ。何10年もの間、毎日、毎日。
だから、4時以降に足を踏み入れると、宵子はみすずが帰ってきたのかと勘違いする。
これでようやく深い後悔から解放されると安堵する。
けれど、そこにいる者がみすずではないとわかった途端、宵子の怨みが一気に爆発する。
そんな風にして、4時以降に足を踏み入れた者は、宵子に取り殺されるのだ。
午後4時の部屋の秘密が、ようやくわかってきた。
 
パソコンに残された文章を読み終えて、家の中を探したが、Fの姿が見えない。
どこにいったのだろう?
祖父の病院に見舞いに行かなくてはならなかったので、とりあえず家を出た。
祖父の症状はいくぶん改善されていた。
親戚の名前を少しずつ思い出せるようになっていたのだ。
良い兆候だ。
ただ、僕の名前は相変わらず思い出せないようだった。
 
念のために、4時前に家に帰り、開かずの間の中を調べてから鍵を掛け直した。
この間のように、Fを取り残してしまうことのないよう、用心をしたのだ。
開かずの間にはFの姿はなかったが、他の部屋にもFはいなかった。
あんなフラフラする体で、どこかに出かけてしまったようだ。
心配で、辺りを探し回るうちに暗くなってしまった。
家に戻って、いつか帰ってくるだろうと、玄関先に注意を払っているが、いまだに帰ってこない。
 
→次の夜
 


 

ケーキ

DATE: 09/17/2008 22:26:31
 
 
今日も祖父の見舞いに行く。
術後の経過は順調で、麻酔も徐々に体から抜けている。
僕が行くと、すでに何人かの親戚がいて、楽しそうに話をしている。
すっかりみんなの名前を思い出して、もう完全に記憶も戻っているという。
けれど、僕が話しかけると、祖父は急に顔を曇らせた。
僕のことがわからないのだ。
周りの親戚が気を遣って、祖父に僕を思い出させようとするが、一向に効果がない。
みんなの顔から、次第に笑顔が消えていくのがわかった。
祖父もみんなにすがるような視線を送っていた。祖父自身が、一番不安なようだった。
誰のせいでもないことは、みんながわかっていた。
けれど、僕に何かの原因があって祖父の記憶が戻らないような、そんな根拠のない思いが、みんなの頭の中にあった。
僕はいたたまれなくなって病室を出た。
祖父の記憶が戻らない限り、おそらく僕は祖父にとって不安の材料だろう。
僕が存在することが、祖父を悩ませている。
祖父の記憶の中では、僕のところだけが暗くて深い穴になっているのだろう。
その穴を覗くことは、きっと不安に違いない。
けれど、僕もまた、誰かに忘れ去られることがこれほど孤独なことかと、大きな傷を負っていた。
いつものように暗渠を通って帰りながら、いつものように感情を殺そうと試みた。
僕はただの水の入った革袋だ。
傷を受けても痛みを感じるはずはない。
うまくいくはずの方法が、今日に限ってうまくいかない。
何度も試みたが、痛みは残るばかりだ。
僕は気分を変えようと、ケーキ屋に寄って、ショートケーキを2つ買った。
Fが帰ってきているかもしれない。
 
家に帰ると、4時の間際だった。
僕は少し自棄になっていたのかもしれない。
開かずの間に鍵は掛けたが、あまり重要なことには思えなかった。
Fは帰ってきていない。
そのことが、祖父から忘れられることが生み出す孤独感をますます大きくしていった。
感情を抑えることが難しい。
こんなことは、僕にはあまり経験がなかった。
Fはいつ帰ってくるのか?
ケーキを目の前に置いて、いつのまにか、そんなことばかり考えるようになっていた。
 
Fはいつ帰ってくるのか…?
 
Fは…いつ帰ってくるのか…?
 
Fは…いつ…帰ってくるのか…?
 
 
みすずは…いつ…帰って…くるのか…?
 
宵子は、この家の中で、ずっとみすずの帰りを待っていたのだ。
4時になると起き出して、おやつを用意して、ずっと待っていたのだろう。
いつの間にか、家の中は夕闇に包まれると、外の闇より深い闇が、家じゅうを支配している。
宵子は電気を点けようとする。
けれど、電気は停められている。
諦めて、また闇の中に座り込む。
そうやって、何時間も何時間も、宵子はケーキを前にして座り込んでいる。
 
不意に宵子の気配が背中に貼り付いたような気がした。
身震いしてそれを振り払った。
僕の感情が、宵子の感情と波動を合わせ始めている。
以前よりもずっと深く、宵子と繋がり始めた。
僕は孤独な感情に支配されないように、思い切り体を動かして電気を点けた。
部屋の中が、まぶしいほど明るくなった。
僕はケーキを冷蔵庫にしまって、夕飯の準備に掛かった。
 
→次の夜
 


 

名前のない夢

DATE: 09/18/2008 23:51:56
  
いつの間にか眠ってしまったようだ。
嫌な夢を見て目が覚めた。
僕は死んでしまっているのだが、そのお墓の墓碑銘を多くの人が消そうとしている。
僕の名前はどんどん消されて、いつのまにか別の名前がそこに刻み込まれていた。
僕は、とうとう存在しない人間になってしまった。
恐ろしくて悲しくて目が覚めると、枕元に誰かが立っているような気配がした。
横を向いて寝ていた僕の目に、女の足元が見えた。
その足には小指がなかった。
「T子…!」
と口に出して起きあがった。
誰もいなかった。
みんな、いなくなっていく。
DもT子もFも…。
けれど、みんないなくなった、と思ったら、実は反対で、僕だけがいなくなっていたのかもしれない。
そんなことを考えていたら、再び悲しみが蘇ってきた。
夢があまりに生々しく、いつまで経ってもその感情から逃れられない。
  
今日は祖父の見舞いは諦めた。
Fのことを考えるのもやめた。
気分を変えるために、久しぶりに散歩をした。
少し迷ったが、坂を上って自分の部屋に立ち寄ってみた。
もう何年も帰っていなかったような、遠い昔に暮らした部屋のような気がした。
途中で買ってきたサンドウィッチを食べ、ベッドに横になっていたら、いつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと、すでに時計の針は3時40分を回っていた。
その時間を見てからも、しばらく僕は眠りの中に落ちようとしていた。
それを引き留める者がいた。
開かずの間を閉めなくては…!
沼の中に引きずり込まれるような眠りに抗って、僕はようやく起きあがった。
ここからあの家までは、急いでも20分はかかる。
靴を履くのももどかしく、僕は部屋を出ると、坂道を駆け下った。
家にたどり着いたのは4時5分前だった。
開かずの間に鍵を掛け、僕は荒い息を整えた。
明らかに、誰かが、僕を眠りの底に引きずり込もうとしていた。
 
→次の日
 


 

Fからのメール

DATE: 09/19/2008 17:30:28
 
 
東京に台風が近づいている。
午後になって雨が降り始めた。
冷蔵庫の中の高級食材を使って適当に調理をし、遅いお昼を食べていると、携帯電話が鳴った。
Fからのメールだった。
僕は慌ててメールを開けた。
 
わたしがすずをなくしたから、きっと神さまがおこって、わたしをころしたんでしょう。
このすずをならしたらおかあさんがすぐに行くから、どんなことがあってもみすずちゃんのところに行くから、と言って、おかあさんがわたしてくれたすずをなくしてしまったから、わたしがいくらさけんでも、おかあさんの耳にはとどきません。
すずをみつけなくては、おかあさんのところへは行けません。
すずはどこにおとしたのでしょう。
 
Fからのメールだと思ったら、みすずが打ったメールだった。
僕はすぐにFに電話してみた。
出なかった。
メールを出してみたが、返信はなかった。
思いついて、試しにみすずにメールを打ってみた。
すぐに返信があった。
 
みすずもすきやき、食べたかったです。うなぎを食べたかったです。ステーキやレバーも食べたかったです。ウニのスパゲティも食べたかったです。
おいしかったですか。おいしかったですか。
 
ウニのスパゲティは、まさにいま食べていたものだった。
まるで、どこからか覗いているかのようだ。
その後、何度かメールを送ったが、ついにFからの返事はなかった。
 
→次の日
 


 

みすずの通帳

DATE: 09/20/2008 20:57:07
 
 
午後、いなくなったFから初めてメールが届いた。
昨日届いたのはみすずからのメールでFからのものではない。
そのメールはあまり長いものではなかった。
「水貴、ごめん。もう帰れないかもしれません。知っているかどうかわかりませんが、宵子は僕らが考えているより、ずっとずっと狡猾です。僕はたぶんもう駄目ですが、水貴は十分用心してください。
でも、ごめん。これが最後の連絡になるかもしれないから書いておくけど、謝っている理由は洋服ダンスの中にあります。春先に着たまま吊してある縦縞のジャケットの胸ポケットの中です」
そこで、Fのメールは終わっていた。
僕は、Fへ返信メールを打ってみた。
しかし、Fからの返事はなかった。
仕方なく、洋服ダンスを開けてFのジャケットをまさぐってみた。
中に入っていたのは、通帳とキャッシュカードだった。
名義を見てみると、そこに宵子の名前はなかった。
そこにあったのは、みすずの名前だった。
なぜ、みすずの通帳とキャッシュカードを見せて、僕に謝るのだろう。
Fからの連絡は、それ以来ない。
 
→次の日
 


 

感情の傷

DATE: 09/21/2008 17:17:31
 

Fの上着のポケットに入っていたみすずの通帳には、彼女が生きていた頃の記録が残っていた。
おそらく、生まれた時からその積み立ては始まっていたのだろう。
月々決まって1万円が積み立てられていた。
宵子が、将来のみすずのために毎月積み立てていたものだ。
通帳の記録は、毎月の入金1万円が続くだけで、払い戻された記録はなかった。
宵子が死んで、その習慣が途絶えるまでは。
ところが、今年の9月になって払い戻された記録が印字されている。しかも何回かに分けて。
そのとき僕は、昨日のFのメールの意味を理解した。
この通帳からお金を下ろしていたのはFだ。
そんなことができるのは、Fしかいない。
Fは、そのお金で何を買っていたのだろう?
想像するのは、難しくなかった。
毎日散歩に出かけては買ってきた高級な食材だ。
僕は、そのときの食卓の様子を思い出してみた。
Fはあまり食べることはせず、僕にばかり食べさせようとしていた。
Fは、僕にその高級な料理を食べさせたかったのだ。
僕に、みすずの貯金で買った食事を食べさせたかったのだ。
実際、僕はFの用意した食材で様々な料理を作って食べていた。
小学生で亡くなったみすずのお金を奪って、すき焼きや鰻を食べてしまった。どんなに苦しい生活の中でも、みすずの将来のために貯め続けた貯金だ。
みすずが死んだ後、電気や水道が停められても、宵子が決して手をつけなかった貯金だ。
そのお金で、僕は裕福な食事を食べ続けた。もう2週間以上にわたって。
これは罠だ。
宵子がFを使って僕にしむけた罠だ。
そんなことはわかっている。
わかっているが、わかっているからと言って、この耐え難い慚愧の念を解消できるわけではない。
感情とは水の流れのようなものだ。
一旦動き始めると流れを止めない。
一つの感情が強く動くと、自分で蓋をしていた他の感情も動き始める。
後悔や怒りや寂寞や孤独などの感情が、不意に生々しく沸き立ってくる。
良くない兆候だ。
僕は、それらを押さえ込もうとしたが、みすずの貯金を使ってしまったという衝撃が大きくて、いつものように制御が効かない。
この深く心をえぐるような罪悪感。
停めていた感情を動き出させるような強い傷を、宵子は僕に負わせていた。
 


 

DATE: 09/21/2008 23:19:38
 
 
夜になっても感情の流れは止まらない。むしろ、ますます強くなるばかりだ。
開かずの扉の向こうから、宵子がずっと僕の名前を呼んでいる。
けれど、それは恨めしかったり怒りを孕んでいたりするような声ではなかった。
慰めるような優しい声だ。
深い母性を感じさせる声だ。
「水貴は悪くない。悪いのは全部私なの。水貴、大丈夫。あなたは知らなかったんだからしょうがないわ。全部、悪いのは私…」
そんな優しい言葉を繰り返してくる。
宵子に会って謝れば、きっと許してもらえる。それによって、この苦しい罪悪感から解放される。もう、こんな気持ちは沢山だ。
そう思うと、すぐにでも扉を開けて、宵子に会いたくなる。
すべてが罠だ。
宵子が仕掛けた罠だ。
けれど、感情の流れが止まらない。
みすずに許されたい。
宵子に許されたい。
宵子と波長が合ってきていることがよくわかる。
感情に蓋をしなくては。暗渠のように。
 
でも、
今夜、僕は鍵を開けずに過ごすことができるのだろうか。
 
→次の日
 


 

笑いを奪われる

DATE: 09/22/2008 17:13:32
 
 
宵子の優しい声に、何度誘われそうになったことか。
長い夜がようやく明けた。
とりあえず昨夜は扉を開けずに済んだ。
外が明るくなるといくらか冷静さを取り戻した。
早朝の町を暗渠まで歩いて、点検口の蓋を開け、持ってきた荷物をその中に捨てた。
冷蔵庫に入っていた数々の高級食材だ。
それらを捨てると、無性に誰かと話がしたくなった。
話をすることで、僕は誰かと結びついていたいのだ。
まだ人の少ないファーストフード店に行って、疲れた表情の店員からコーヒーを受け取り、疲れた表情の客の間でそのコーヒーを啜った。
人の中にいても、少しも他人と結びついているような気持ちになれない。
かなりの時間をそこで潰してから、ゆっくり立ち上がって店を出た。
久しぶりに大学に行ってみたが、まだ休みのため誰も知った顔に出会えなかった。
仕方なしに、病院に足を向けた。
もしかしたら祖父が記憶を取り戻しているかもしれない。
病院が近づくにつれて、それは十分あり得ることのように思えてきた。
祖父の記憶の中で、僕の記憶だけが欠落するなどということ自体が不自然だ。
きっと今日は、僕を笑って迎えてくれるにちがいない。
けれど、その期待は静かに打ち破られた。
起こしたベッドの上で、祖父は僕の顔を見ると穏やかに微笑んだ。
わかっているのだろうか。
僕はベッドの枕元に立った。
「いま急に…」
と、祖父がしゃべり始めた。
「思い出したんだよ。あのとき、あの沼でいつものように遊んでいた。私らが岸に上がって休んでいたら、あいつが溺れる真似を始めた。もうその遊びにみんな飽き始めていたから、みんなあまり見ていなかったな。でも、あいつはずっとやっている。しかも随分うまいんだ。私らはその真似がおかしくておかしくて、岸でゲラゲラ笑っていた。そのうちに、あいつは水の中に沈んでいった。その真似もうまかった。私らはまたゲラゲラ笑った。でも、笑いが治まってからも、あいつは水から上がってこなかった。何分かが過ぎた。あいつの姿は現れない。そのうち、誰かがおずおずと言い出した。ちょっと用事があるから家に帰る、と。それをきっかけに、みんな家に帰った。ずっと封印していたんだが、いま思い出した。私らはあいつが引っ越したというお話にして記憶の中にしまい込んでいたが、実際はそうではなかった。あいつはあのとき死んだんだ。
それから3年くらい、私らは笑うことができなかった。あのとき、溺れるあいつを見ながらゲラゲラ笑っていた罰だ。あいつは私らから笑いを奪ったんだ。3年間笑わなかったことは、その後に大きく影響している。私らは、もう自分が笑おうとしない限り、笑うことができないんだ。自然に笑うことなど子供の頃に切り捨てられてしまった」
それから僕の方に顔を向けて目の奥をじっと見た。
「思い出させるためにやってきたんだろう? あのときは悪かった。お前のことを見殺しにしたわけじゃないんだ」
祖父は、僕のことを溺れ死んだ友達と勘違いしていた。
何度も何度も頭を下げて、僕に謝ってくる。
僕は祖父に自分の名前を告げた。
途端に、その表情が曇った。
まだ思い出していなかった。
僕は大きく失望した。
祖父は、僕の名前を口の中で反芻するばかりだった。
昔のことは鮮明に思い出し、目の前の僕のことは全く思い出せない様子だ。
 
帰り道、思いがけず聞いた祖父の話が頭の中を巡っていた。
死んだ人間が笑いという感情を取っていってしまう。
特にこのことが、僕には興味深かった。
 


 

優しい夜

DATE: 09/23/2008 01:14:44
 
 
夜になった。
結局、今日一日、祖父としか話をしていなかった。
けれど、祖父は僕を僕だと思って話はしていなかった。
また夜が来た。
先ほどから宵子の声が聞こえる。
みすずのお金で買った食材を処分したことも、わかっているようだ。
その声を聞くと、再び罪悪感が募ってくる。
その罪悪感を取り除いてくれるのは、宵子しかないように思えてくる。
宵子の声は優しく、母性的で、すべてを許してくれるような包容力に満ちている。
もう、この扉を開けて宵子に許してもらおう。
そう、何度も思っては、その思いを打ち消した。
 
→次の日
 


 

命日

DATE: 09/23/2008 14:21:23
 
 
昨夜もまた宵子の優しい声に悩まされた。
起きると、ひどい電磁波の中にいるような、重い空気が渦巻いていた。
みすずの貯金で食事をしていたことを知って以来、ほとんど食欲が沸かない。
食べないといけないとわかっていても、あのときの衝撃が胸を去らないのだ。
朝食の支度をしていると、玄関のベルが鳴った。
来客があるとは珍しい。
ドアを開けると、黒い服の男が二人立っていた。
一人は初老でもう一人はまだ20代だろう。
全く見覚えのない顔だ。
ドアを開けた僕を見て、深々と頭を下げて「このたびはご愁傷様です」と言う。
何のことだろうか?
呆然としている僕に向かって、若い男が「いまご遺体はどのようになっていらっしゃるのですか?」と聞く。
ますます、何のことかわからない。
しばらく話をするうちに、ようやく意味がわかってきた。
二人の男は葬儀屋で、通夜の準備にやってきたのだ。
聞けば、女の声でその依頼の電話があったのだと言う。
一体、誰の通夜だというのだ。
投げかけた質問に、再び若い男が「宵子様です」と答えた。
僕は思わず言葉に詰まった。
その沈黙を救うように、初老の男が話を繋いだ。
「失礼ですが、こちらのお宅ではないということでしょうか?」
僕が頷くと、彼も納得したように頷き返した。
「やはり噂は本当だったんですね」
彼が言うには、毎年この日になると、この地区の葬儀屋に女の声で電話がかかってくる。それはいつも「宵子という女性が亡くなったので葬儀の準備に来てほしい」というものだ。でかけていくと、宵子はとっくの昔に亡くなっていて、誰も電話した者はいない。
そんなことが毎年起こるので、葬儀屋の間では噂になっていた。
そして、今年はうちに電話がかかってきた。
「でもですね…」
初老の男は、さらに言葉を継いだ。
「宵子様の本当のご葬儀をやらせていただいたのは、私なんですよ」
どういうことだろう。
「18年前の今日が、宵子様の命日なんです。18年前、私がご葬儀を取り仕切らせていただきました」
様々な驚きで、僕は混乱していた。
さらに彼は驚きを重ねてきた。
「今でも思い出しますのはお通夜の時のことです。夜中に何度も棺桶が内側から叩かれるのです。死体が蘇生することがある、と聞いていたので、そのたびに蓋を開けてみるのですが、もちろん息はしていません。ただ、胸の上に置かれた守り刀がずれていて、どうも動いたような気配があるのです。けれど、どう見ても死体は息をしていません。そんなことが、お通夜の晩に5〜6回ありました」
そんな話をした後に、彼はつまらない話をしてしまいました、と言って話を終わらせた。
そのまま、二人は立ち去って行った。
初老の男は振り返って、何かありましたらご連絡ください、と告げた。
僕は、一層呆然としたまま、玄関先で二人を見送った。
風が吹いてきて、僕は我に返った。
 


 

真綿のような闇

DATE: 09/24/2008 01:11:17
 
 
夜の闇は真綿のように僕の上にのしかかり、僕の息を塞いでくる。
今夜は宵子の命日というためか、開かずの間から読経の声が聞こえてくる。
あの仏壇の前で、誰かがお経を上げている。
その声が2時間も続いていただろうか。
お経が終わると、扉の向こうから啜り泣く声が聞こえてきた。
宵子の声だった。
これほどあなたのことを考えて、なにもかも許すと言っているのに扉を開けてくれないのは、よほど私が嫌われているせいだ。よほど私が信頼されていないせいだ。
仕方ないにしても、それは悲しくて寂しいことだ。
そう言って、また宵子は泣き始める。
 


 

鍵を入れる

DATE: 09/24/2008 02:33:15
 
宵子の仕掛けた罠に、ことごとくはまっていることはわかっている。
様々な出来事を仕掛けてきては、僕を自責、後悔、慚愧などの感情で満たしていく。
わかっているが、同時に僕は孤独だった。
祖父から忘れられている孤独感が、宵子の孤独感と同調し、僕は宵子と同じ波動を持つようになってしまった。
宵子は、僕を責めるわけではなく、完全に許そうとしてくれている。僕の様々な思いを受け止めてくれようとしている。
そう思うと、僕が鍵を開けない理由などどこにもない。
冷蔵庫の奥に一部だけ外れる部分がある。僕はそこに鍵を隠していた。
僕は、冷蔵庫を開けて鍵を取り出すと開かずの間の鍵穴にゆっくり差し込んだ。
扉の向こうで宵子の優しい声が聞こえる。
あとは、時計回りに回すだけだ。
回そうと思った。
けれど、それは簡単なことではなかった。
何か別の力が、僕の指先を反時計回りに動かしている。
それがどういう作用かはわからなかった。
ただ、僕は鍵穴に鍵を入れたまま、じっと動けずにいた。
もう少しで、宵子に会えるというのに。
もう少し力を入れれば、鍵は開くというのに。
けれど、鍵は回らなかった。
そんな簡単なことが、今夜の僕にはひどく難しかった。
 
→次の日
 


 

女鍵屋が

DATE: 09/24/2008 18:34:52
 
昨夜は本当に危なかった。
最近の睡眠不足で、昼過ぎになると眠くなる。
うっかりしていると、4時に近くなっている。
今日もそうだった。
うとうととまどろんだかと思うと、夢の中にT子が現れた。
T子はいつもの笑顔で、
「先に死んだ方が化けて出ようって言ったでしょ?」
と言う。
だから、こうして出てきたというのか。
「水貴の応援をしてあげたいけど、今はあの部屋に閉じこめられて無理。何か、私の体の一部が、そっちにあればいいけど。髪の毛が一房とか、どこかにないかしら?」
もちろんそんなものはない。
そんな話をしている間に、T子の表情が変わった。
「水貴、しっかりして。いま、とても危険な状態よ。もう少しで宵子に取り込まれてしまうわ。私が手助けしてあげたいけど、いまは無理。ああ、早く起きて。水貴、早く起きて。もうすぐ4時よ」
目を覚ますと、4時2分前だった。
慌てて、開かずの間に施錠した。
 
夕方の遅い時間に、誰かが訪ねてきた。
玄関に出てみると、以前鍵の交換を頼んだ女性の鍵屋と見知らぬ男性が立っていた。
「葬儀のお知らせをいただいたので」
と言うが、もちろんそんなものは出していない。
そう告げても帰ろうとしない。
それどころか、勝手に上がり込んでいく。
追いかけていくと、真っ直ぐに開かずの間に進んでいく。
そのまま、彼女はそこに座り込んだ。
 
→次の日
 


 

新しい鍵

DATE: 09/25/2008 22:35:16
 
 
女鍵屋が、なぜやってきたのかは知らない。
彼女は見知らぬ男と一緒に家に上がり込むと、真っ直ぐに開かずの扉まで進んでいった。
初めて入る家という感じではなかった。
僕が声を掛ける前に、彼女は扉の前で止まった。
そこから先に何があるかを知っているかのようだった。
いや、確かに彼女は知っていた。
「もうひとつ鍵をつけた方がいいわ」
彼女は勝手に道具をひろげ始めた。
鍵をつけることに異存はなかったが、身勝手な振る舞いは不愉快だった。
僕が抗議をすると、彼女は右耳を僕の方に向けて「え?」と聞き返した。
思い出した、彼女は左の耳がよく聞こえないのだ。
僕は別の言葉を、突き出された耳に投げ入れた。
「なんでここに鍵がついてるって知ってるんです?」
今度は聞こえたようだった。
「私の主人がつけたからよ」
驚いた。驚いたが、妙に説得力があった。
そんな僕を尻目に、彼女は作業を始めた。
4時を過ぎていた。
そのことも彼女は知っていて、作業は扉を閉じたまま進められた。
彼女が錠をいじる音が聞こえ始めると、開かずの間の奥が俄にざわつき始めた。
宵子が、その不穏な空気に気づいたのだ。
女鍵屋がビスを回し始めると、不意に扉が奥の方から叩かれた。
僕たちは思わずビクッとした。
尋常な叩き方ではなかったのだ。
体を思い切りぶつけるような叩き方だ。
次に、宵子の声が聞こえてきた。
昨夜までの優しい声は、もう微塵もなかった。
「また来たのか、疫病神め。お前とお前の旦那は、この世で最も卑しい奴らだ。金のためなら何でもやるのか。とっととこの家から出て行け!」
そう言い放った途端、鍵屋の使っていた電動ドリルの回転が止まった。
宵子の笑い声が響いた。
女鍵屋は黙ったまま、ドライバーを取り出すと、ビスを回し始めた。
ドライバーは回るのだが、ビスは一向に入っていこうとしない。延々と回り続けるだけだ。
彼女はため息をついて男の方を見上げると、「主人が貸していたものを出して」と言った。
男は一瞬ためらったが、宵子の勘に障る笑い声がその迷いを断ち切ったのだろう、鞄の中から奇妙なものを取り出した。
男が手の中の布を開いた時、僕は思わず声を挙げそうになった。
誰かの口が、そこに現れたのかと思ったからだ。
それは細密に作られた歯の模型だった。
女鍵屋はそれを受け取ってしばらく眺めた後、鎖を回すとドアノブにぶら下げた。
途端に、宵子の笑い声が消えた。
ビスは回り始め、明らかに宵子の力が衰えた。
何か魔除けのような力があるのだろうか? 宵子が扉から離れていくのがわかった。
その間に、女鍵屋は新しい錠を取り付けた。
 
鍵屋が新しい錠前の鍵を渡そうとしたが、僕は断った。
昨夜はついに鍵を差し込むところまで行ってしまった。今夜はどうなるかわからない。
そのためにも、鍵を持っていたくなかった。
僕が鍵を返そうとすると、鍵屋は困った顔をして、その鍵を男に渡した。
男は困惑した表情を見せた。
「鍵を開けたくなったら、この人に連絡すればいいから」
そう言って、鍵屋は道具を片付けると、歯の模型を男に返してそのまま家を出た。
僕は男と顔を見合わせて、そのとき初めて自己紹介し合った。
男は、Yと言った。
 
→次の日
 


 

宵子の罵倒

DATE: 09/26/2008 23:10:25
 
 
昨日、女鍵屋とYが帰った家の中は、いきなり殺伐とした空気が流れた。
開かずの間の様子は、昨夜までとは全く違っていた。
優しい口調で僕に語りかけていた宵子は、もういなかった。
激しく扉を叩き、ここを開けろと叫び声を挙げた。
挙げ句に、僕のことを罵り始めた。
みすずの貯金を使って高級な料理を食べ漁った人非人! T子を見殺しにした人でなし! 病人の薬を奪うこそ泥!
どれもが耳を塞ぎたくなるようなひどい言い方だった。
僕を罵る声は、一晩じゅう響き続けた。
 
→次の日
 


 

家が揺れる

DATE: 09/27/2008 20:12:25
 
 
宵子の罵り声は、今夜も変わりない。
こんな時間から宵子が僕を罵り続けている。
いまもまた、ひときわ大きな声で僕を罵倒し壁に何かをぶつけている音がする。
根拠がなければ、僕は少しも怯むことはない。
ただ、宵子の叫んでいる内容は、確かに僕がやってしまったことばかりだ。
たとえそれが宵子の罠だったとしても。
追い込まれていることは僕にもわかっている。
だから、新しい鍵はYという男に渡したのだ。
これで、あの扉を開ける心配はなくなった。
その代わりに、宵子が荒れている。
決して開けられないとはいえ、こんなに荒れているのは恐ろしい。
彼女の怒りが、今夜も一晩中この家を揺らす。
 
→次の日
 


 

揺さぶり

DATE: 09/28/2008 22:42:43
 
 
宵子が扉の向こうで、僕を罵り続けている。
今日で3日目だ。
また、あの声を聞かなくてはならないかと思うと、夕方から憂鬱になってくる。
宵子は、まるで僕の様子が見えているかのようだ。
長い時間、罵り続けていたかと思うと、不意にその声が止む。さすがにもう終わりかと思って安心し始めると、再び始まる。時々、哀れを誘うような啜り泣きが聞こえ、気になって近づいていくとそれを侮蔑するかのように再び罵り始める。
僕を精神的に揺さぶっている。
この手の揺さぶりは、僕には無縁のものだと思っていた。
けれど、違っていた。
宵子が仕掛けた様々な罠によって、僕が封じ込めていた感情は、その表面の覆いを1枚1枚剥がされていた。
長い間覆い隠していただけに、今は剥き出しでさらされているような不安感が強い。
こうして書いている最中も、宵子の言葉に自分の感情が大きく動くのを止められないでいる。
 
→次の夜
 


 

こんな深夜に

DATE: 09/29/2008 00:57:47
 
 
今からYという男のところに電話して、鍵を持って来させろ、と宵子は喚いている。
こんな時間に電話するわけにはいかない。
けれど、Yから鍵を取り戻していた方がいいかもしれない。
迷惑に違いない。
明日になったら、電話してみよう。
 


 

時間など関係ない

DATE: 09/29/2008 03:24:41
 
 
確かに宵子の言う通りだ。
別に、僕が鍵を掛けたわけではない。
あの女鍵屋が勝手に掛けただけの話だ。
僕が責められる理由はどこにもない。
だとすれば、勝手に鍵を持っていったYという男に電話しても、それは何も後ろめたいことはないはずだ。
電話してみよう。
時間のことなど、関係ない。
 


 

約束

DATE: 09/29/2008 04:13:39
 
Yに鍵を断られた。
何故、彼は鍵を持ってこないのだろう?
そういう約束だ、と言う。確かにそんな約束をした覚えはある。
けれど、状況は変わったのだ。
何故、そういうことが理解できないのだろう?
僕の苛立ちに、宵子が共感してくれている。
僕に非がないことを、彼女はよくわかってくれる。
もう僕を責めようとはしない。
この件に関しては、彼女は最高の理解者だ。
とにかくYと女鍵屋がいけない。
考えると、益々苛立ちが募る。
落ち着かず、部屋の中を歩き回る。
→次の夜
 


 

恨みという感情

DATE: 09/30/2008 23:55:35
 
 
全く、Yという男はなんと融通が利かないのだろう。
昨夜も何度も電話したが、何を言っても押し問答になってしまう。
その様子に、宵子も困惑しているようだ。
宵子は、今では僕のことを一晩じゅう罵倒するようなことはなくなった。それどころか、僕の立場になって考えてくれるようになっている。
そのことが、僕の精神状態をかなり平穏なものにしている。
数日前まで、一晩中続いていた彼女のわめき声が、いかに負担になっていたのかがわかる。
彼女が僕のことを理解してくれているように、僕も彼女のことを理解しなくてはならない。
確かに、女鍵屋とYという男はひどい。勝手に鍵を取り付けることによって、宵子の意志はもとより僕の意志も踏みにじっている。
その意味では、僕たちは二人とも女鍵屋とYの被害者だ。
昨夜も何度かYに電話したが、一向に話が通じない。
挙げ句に一方的に電話を切られてしまう。
今夜も同様だった。
仕方ないので、聞いていた住所を頼りに、雨の中をタクシーでYの住むマンションまで行ってみた。
インターフォン越しに話をしたが、それでも埒があかない。
Yと話をすると苛立ってきて仕方がない。
僕は鍵を返してほしいだけなのだ。なぜ、そんな簡単なことができないのだろう?
何かいい方法はないかと思案しながら、雨に濡れて歩いた。
僕は、人を恨む、ということがよくわからなかった。
何も解決を生み出さない、意味のない感情だと思っていた。
今夜は初めて恨みという感情を理解した。
僕は、Yに対して恨みを抱き始めている。
 


 
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