水貴の日記 2008.08
4時以降開けてはいけない
DATE: 08/01/2008 22:57:12
大学の友人Fから電話が入る。
いま住んでいる一軒家が取り壊しになるということで、引っ越し先を探していると言う。
Fは僕と違って社交的で、何度か家に遊びに来ている時の様子を、父も気に入っている。
例の一軒家の話をすると、Fはかなり興味を持ったようだ。気は進まないが、一度案内することになった。
きっと父も了解するだろう。
父に、御札の貼ってある扉の鍵のことを聞いてみた。
急に怪訝そうな顔になったが、掃除をすると言うと、鍵を渡してくれた。
鍵を渡す時、父は珍しく僕の目を見た。
そして、そのまま含めるような口調で、
「4時までに掃除を終わらせてその扉から出るんだ。そのとき、必ず鍵をかけるんだぞ」
と言った。
記憶している限りでは、こんな強い口調の父を見たことはなかった。
僕は思わず言葉を返した。
「4時以降…?」
「そうだ、4時を1分でも超えてはいけない。それだけは、どんなことがあっても守るんだ」
父の口ぶりが変わることはなかった。父は何かを考えているようだった。
僕はゆっくり頷いた。
僕が出て行こうとすると、背中から声がした。
「いや、待て…」
「え…」
僕が振り返ると、
「明日ならいい。今日は待っていてくれ」
そう言って鍵を僕の手から受け取った。
腑に落ちなかったが、明日ならいい、という言葉を信じて今日は引き下がることにした。
明日、Fを連れて、案内しがてら掃除をすることにしよう。
→次の夜
Fを案内
DATE: 08/02/2008 22:27:28
今日も鍵を渡すとき、父は逡巡していた。
改めて、昨日の話をした後、ようやく鍵を渡してくれた。
待ち合わせの場所に現れたFは、相変わらず人の良さそうな顔をしている。
僕は、人の良いFのことが好きだ。
愛想が悪いからと言って、愛想の良い人間を嫌っているわけではない。
それはFも同様だろう。
話がかみ合わないところがあったり、考え方が時に正反対であっても、僕とFはそれなりにウマが合っている。
僕らは、相変わらずのそんな関係のまま、待ち合わせた場所から坂を下って、あの家へ歩いていった。
あの家の近くまで来ると、湿度が上がったように感じられた。
Fに向かって家を指さすと、Fの表情が輝いていた。
魅力を感じているようだ。
玄関の鍵を開けると、家の奥へ何かが身を引くような感じを受けた。いつものことだ。
ただ、Fにはそんな感覚はないらしい。
Fを見ると、いつものように感じたままがその表情に現れている。俄然、この家に興味を持っているようだった。
僕は、Fを案内して家の中に入っていった。
前の住人の荷物は片づける、ということは伝えながら、僕はFを先導した。
薄暗く、暑苦しいものの、広い間取りが最優先のFにしてみれば、十分に魅力的な家に違いない。
本や昆虫の標本を膨大に持っているFは、自分の生活するスペースよりもそういったものを収納するスペースをほしがっていた。
けれど、問題はあの扉の奥だ。
僕もFも、その扉の前で足を止めた。御札の貼られた、あの扉だ。
振り返ってFを見ると、不安そうな表情を浮かべている。
やっとの思いで鍵を受け取った僕は、そんなFにかまわずに鍵を差し込んだ。
扉は何の抵抗もなく、ごく普通に開いた。
僕らはそこから先の部屋に足を踏み入れた。
しばらくして、Fが激しく咳き込み始めた。
→次の夜
気に入った
DATE: 08/03/2008 22:24:46
もう何年も開けたことのない扉だったのだろうか。
昨日、Fと一緒に開けた、あの御札の貼られた扉のことだ。
開けたときは、長い時間動かないでいた空気が持つ重苦しい感じがした。
扉の奥は、ひと部屋だけではなかった。むしろ、この家は扉の奥の方が広かった。
何部屋あったのだろうか?
そんなことはよく覚えていない。
それよりも、T子と初めてこの家を訪れた時の感覚、「誰か住んでいる」と彼女が呟いたあの感覚が、実は半分当たっていることがよくわかった。
扉の先にあったのは、まさに誰かが住んでいるそのままの部屋だった。
茶の間、障子の廊下、子供部屋、寝室…。
すべては整えられ、きちんと整理されていた。そこに住んでいる住人の性格を示すように。
そこにだれもいないことが、かえって不気味に感じられた。
けれど、そこは確かに長い時間使われていなかった。
整理はされているものの、埃が積もり、それが僕たちの動きに合わせて空中に飛散していった。
やがて、Fが激しく咳き込み始めた。僕は慌ててシャツの袖を口に当てた。
歩くたびに、驚くほどの量の埃が空中に舞っていく。空気に濃度がますます増していく。
シャツの袖では、とても防げるような埃ではなかった。僕が咳き込み始める頃、Fはしゃがみこんで、息をすることもできないほどに咳を続けていた。
彼の背中に手を回し、玄関へと引き返した。
引き返す途中で、彼の咳は止まっていた。
逆に、僕の咳の方が激しくなっていた。
玄関から外へ出ると、驚くほど世界は生命に満ちて見えた。
僕が振り返ると、Fは笑っていた。
そして、「気に入ったよ」と僕に言った。
→次の夜
雨の日に研究室で
DATE: 08/04/2008 11:59:15
朝から曇り空。
夕方から雨が降るという予報のため、大学に行くことにする。
5時頃家を出て、学校へ向かう途中から空に閃光が光り始めた。
幸い、降り出す前に研究室にたどり着いた。
ある種の菌類は、空気中の湿度が一定量を超えると急激に活動的になる。
その特徴を調べるために、雨が降る時に、できるだけ記録を取っておきたかった。
この菌も、僕の課題の一つだった。
夏休みの構内は人影も少なく、校舎を歩く足音も聞こえない。
その分、集中することができた。
雨は夜半に激しくなってきた。
守衛さんに頼んでいても、11時には大学を出なくてはならない。
もう少し記録を取りたかったが、仕方がない。
大学を出て携帯電話を見ると、数件の留守番電話が入っていた。
父から3件、Fから1件だ。
内容を聞いてみて驚いた。
Fは父と話をして、あの家を借りる契約を結んでしまったらしい。
僕が研究室で課題に取り組んでいる間に、父の店にやってきたということだ。
あまりFらしからぬやり方に、少々驚いた。
僕を通さずに直接父と話すとは、よほど切迫した事情があるのだろう。
立ち退きを迫られている今の一軒家の取り壊しが、思いのほか急ぎの話なのかもしれない。
開かずの間のこともあり、父は断ろうとしたが、Fの決心は固かったようだ。
明日、Fから事情を聞くことにしよう。
帰り道は、傘を差しながら暗渠の上を通った。
途中で、木の陰にいる蝉を捕まえた。
暗渠の下は、どうなっているのだろうか。
いつもの場所に行き、隠れた蓋を開けると、そこはいつもとは全く違う世界だった。
轟音とともに、濁流が流れている。
暗闇の中の荒れ狂う水に、思わず足がすくむ。
胸が高まりながら、しばらく、その中をのぞき込んでいた。
その後、その激しい音の中に、蝉を投げ入れた。
今日は、誰とも話をしていない。
僕には、子供の頃から少しだけ悪いことをする癖がある。
→次の夜
豪雨
DATE: 08/05/2008 23:20:27
朝から研究室に閉じこもり、菌の観察。
今日は非常に活発だ。
研究室は窓がないため、外の集中豪雨に全く気づかなかった。
良いデータが取れる、と思っていたら、大学の近くで落雷があったらしい。
昼頃、いきなり停電になってしまった。
しばらく待ったが復旧の目処が立たない。
父に祖父の着替えを届けに行くよう頼まれていたのを思い出し、病院へ向かった。
昼を過ぎたら、雨はずいぶんと小雨になっていた。
途中で何度かFに電話をしたが、一向に繋がらない。
病院に着くと、入り口に土嚢が積まれている。
ナースセンターと通りかかると、看護士に呼び止められた。昨夜、祖父は夜中に暴れたらしい。鎮静剤を打って、ようやく興奮が治まったと言うことだ。
病室に入ると、祖父は眠っていたが、僕の気配に気づいて目を開けた。
いつもの通りの笑顔だ。
早速、今日の雨の話を始めた。昨夜も夜中にすごい雨だった、という話になった。
そのまま、深刻な顔を僕に向けて、ささやくように言った。
「昨夜、夜中に子供に足を引っ張られたぞ。もう少しで水の底に引きずり込まれるところだった。何とか逃れたが、すごい力だった。今でも、掴まれたところが痛いくらいだ」
何のことを言っているのか、よくわからなかった。
けれど、夜中に暴れたということと関係があるのだろう。
あまり言うので、布団の裾を上げて祖父の足首を見てみた。
一瞬、驚いた。足首に、確かに掴まれた痕があったからだ。でも、それはきっと看護士の手の痕にちがいない、と思い直した。暴れる祖父を押さえつけるしかなかったのだろう。
病院を出て、Fに電話してもまだ繋がらない。
祖父のところに着替えを届けたと、父に電話を入れると、父が多少困ったような口調で言った。Fがあの家の鍵を借りて、朝から戻ってこないのだという。
もう夕方になりかけている。
契約を結んだとはいえ、あまりに性急な行動に父も困惑しているようだ。
Fにはまだ連絡がつかない。
仕方なく、あの家に向かう。直接、Fと話すしかないだろう。
あの家は窪地にある。
近づくと、お昼の雨で辺りはぬかるんでまともに歩けない。
あの家も、地面に少し沈んでいるように見える。
玄関に手をかけたが鍵がかかっている。Fと行き違いになったのだろうか。
何度かドアをノックするうちに、どんどん空が暗くなってきた。
いけない、と思っている間に、大粒の雨が落ちてきた。
玄関に雨宿りするようなスペースはない。
僕は急いで駆けて、通りに出た。その通りには、カフェがある。そこを目がけて走った。
幸い、あまり濡れることはなかった。
雨宿りの間、Fに電話したが、全く連絡が取れなかった。
帰りは暗くなっていた。昨日と同じだ。
また暗渠を通った。
例の蓋を開けてみると、昨日よりも激しい水音が、足下すれすれに聞こえる。
すぐそこを濁流が流れている。
僕は高揚する気分を押さえきれなかった。
点検口に頭を入れて、顔のすぐ近くを流れる黒い水流を、いつまでも感じ取っていた。
→次の夜
Fの引っ越し
DATE: 08/06/2008 23:41:57
きっと、昨日祖父から聞いた話のせいだ。
昨夜、僕は夢の中で子供に足を掴まれた。
子供とは思えない力で、そのままどんどん引きずり込む。僕は逆らおうとするのだが、全く何の抵抗にもならない。
夢の中で、僕は「ああ、あの子供か」と思っていた。
祖父の夢の中から、今度は僕の夢の中へと渡ってきたのだ。
祖父が暴れたのも無理はない。
どこに引きずり込まれていくのかわからないが、とにかく苦しくてたまらないのだ。
ずいぶん長いこと、もがいたような気がする。
その末に、ようやく夢から解放された。
Fに電話すると、2日ぶりに繋がった。
電話が繋がらなかった話をすると、
「そうなんだ。ここ、窪地のせいなのか、雨が降ると繋がりにくくなるみたいだ」
と言う。
もしかしたら、と思って尋ねると、Fはもうあの家に引っ越しを済ませていた。
この2日間の豪雨の中、引っ越しを行うとは、なぜそこまで急ぐ必要があったのだろうか。
Fらしからぬ行動が気にかかって、あの家に出かけてみた。
着いたのは夕方だった。出てきたFは寝起きの顔をしていた。引っ越し疲れで、昼寝をしてしまったという。
寝起きのせいか、いつもと違う感じがした。
荷物は、全く手つかずのまま、まだ梱包も解かれていない。
段ボールが山と積まれ、台所や風呂用品の箱を探し出すこともできない。すぐに必要なものが出てこなくて不便で仕方ないという。
明日、とりあえず必要なものを持って来ようと言って、玄関先で別れた。
振り返ると、夕闇のせいだろう、家はまた少し沈んでいるような気がした。
夕方の闇は、陰や窪みでますます濃い。
見上げると、空はまだ明るいというのに。
→次の夜
赤い水
DATE: 08/07/2008 19:18:46
引っ越しといえば、学生にとってはお祭りのようなものだ。
お昼前に行くと、Fの家にはすでに何人かの友人が集まっていて、荷物の整理をしていた。
みんな、この奇妙な家に興奮している様子だった。
古くて部屋数の多い一軒家、というだけで珍しいのに、4時以降開けてはならない扉、という存在によって、全員が高揚していた。
人数も多いため、少し悪ふざけをする雰囲気も生まれ始めていた。
開かずの間の荷物をいじってみたりする者も出始めた。
僕が注意しようとした矢先、Fが強い口調で戒めた。全員の高揚した気分が一気に沈んだ。
普段のFにはない雰囲気だったため、驚いたのは僕だけではなかった。
けれど、これからこの家の住人になろうとする者にしては当然の態度だろう。
あの条件を承諾した以上、そこに何かがあることは予想がつくはずだ。父から、何かを聞いていたのかもしれない。
いずれにしても、たったひとつだけなのだ。
やってはならないことはただひとつ。
4時以降、その扉を開けてはならない。
それだけを守っていれば、Fはこれまでにない最高の環境を手に入れることができるのだ。
多少語気が荒くなっても仕方ないだろう。
段ボールを整理していると、Fが僕のところにやってきた。
水道の元栓が見つからないというのだ。
早速、家の周りを調べてみたが、確かに見当たらない。
父に電話して、心当たりを聞いてみたりしながら、ようやくみつけた元栓は、地面の中に埋まっていた。
2日続いた雨のために埋まってしまったのだろうか。
古びた元栓は、果たして正常に機能するかどうかも怪しかった。
ゆっくりと栓を開いてみた。
家の中をゴボゴボという音が、這い回るように動き回った。まるで、この家が息を吹き返したかのようだ。
次の瞬間、台所、洗面所、風呂場、トイレ、家じゅうの蛇口が、バンッと大きな音を立てると、真っ赤な水を吐き出した。
水道管の中が赤錆だらけだったのだろう。とにかく、真っ赤な水だ。
みんな、この水に驚いたが、当初は水道管の中が赤錆だらけだったのだろうと考えていた。
けれど、一向に透明な水にならない。
延々と流れ続ける赤い水。その様子に、全員が不安を感じ始めた。
やがて、全員が蛇口から離れた。
何もなかったかのように。
けれど、蛇口からは赤い水が流れ続けていた。
ずっと、ずっと。
なにか正常でない息の吹き返し方をしてしまった。
言葉には出さないが、みんなそんなことを考えていたように思う。
→次の夜
水のせい
DATE: 08/08/2008 22:45:17
あの家は、2日前の雨でぬかるんだ玄関先が、まだぬかるんだままだ。
玄関を入ろうとすると、足元におびただしい数の虫が死んでいるのに気がついた。
コガネムシ、蛾、カメムシ、セミ…。
夜の間に玄関の灯りに集まってきたのだろう。
その光景を見て、改めて気分が悪くなった。
昨日は、あの後、3時頃にはあの扉を閉じた。
水道の水も、いつしか透明になっていた。
日が落ちたら、引っ越し祝いをしようと言うことになった。
近所で食材を買い、ビールを買い、料理のできる者が適当に調理をして、みんなで段ボールのテーブルを囲んだ。
その時に、水道水が体に入ってきたのだろう。家に帰りながら、気持ちが悪くて仕方なかった。
一晩経っても、胸の底の方が冷たく、気分が悪い。
体内に、あの家の何かが入ってきてしまったようだ。
午前中に、二人の友人から電話が入った。やはり、昨日から気分が悪いと言う。
気になって、午後Fの家を訪ねてみた。
出てきたFは、寝ぼけているようだった。
昼寝をしてしまったのだという。
その後、意外なことを口走った。
眠ると、子供が足を引っ張って、どこかに引きずり込もうとする、というのだ。
同じ夢だ。
祖父の中に生まれた夢の子供が、僕へ渡り、Fに渡っている。
そして、Fは自分の足首を見せた。
そこには、何かに掴まれたような痕があった。
今日は家に入る気にならなかったので、玄関先で立ち話をして別れた。
話しながら靴で虫を踏みつけていた。
いま、その感触を思い出したら、また気分が悪くなってきた。
夢は今度はどこへ渡るのか?
→次の夜
貴重な環境
DATE: 08/09/2008 22:24:58
菌類を見ていると、「死」という概念があやふやになることがある。
多くの菌類は、生存するのに必要なある条件、たとえば水などがなくなると仮死状態に入る。
仮死状態というのは、ある条件が整えば再び生命を蘇らせる、ということがわかっているので「仮死」という言い方をしているが、そのことがわかっていなければ、それはただの「死」だ。
ということは、死んで蘇っている、ということの他ならない。
「死」とは、僕たちが考えるほど固定された概念ではないかもしれない。
Fの家には、いつでも誰かしら大学の友人がいた。
溜まり場になるには格好の家だ。
開かずの間という気味の悪い存在を気にせずに暮らすには、いつでも誰かの声がするような環境の方がいいだろう。
今日は、僕とFの共通の友人Dがいた。
Dは、僕を見るなり、顔を輝かせて話を始めた。
開かずの間に住んでいた住人がわかったのだと言う。
僕もFも、開かずの間にはあまり興味を持たないようにしていた節がある。
Dは好奇心が旺盛で、そんなことにお構いなしだ。
僕らの素っ気ない反応にも気づかずに、Dは話を続けた。
どうも、小学生くらいの女の子とその母親が住んでいたらしい。
女の子の名前は「みすず」という。
けれど、それくらいは開かずの間にある子供部屋を見てみればわかることだ。
「母親の名前がわかんないんだ。もう少し見てみればわかると思うんだけど…」
Dのその言葉に、Fが話を遮った。
「もうやめよう、開かずの間の話は。僕は興味ないんだ」
家の主に言われてしまうと、Dもそれ以上話を続けるのが憚られたようだ。
実は、僕は別の意味で、開かずの間に興味があった。
適当な温度と湿度があり、しかも窓を開けないことで、この環境が変わらない。
そこは、ある種の菌類が生息するには、最高の条件を備えていたのだ。
というより、もはや何種類かの菌類が繁殖し始めているのが、特有の匂いからわかっていた。
2日間の雨以降、特に菌の活動が活発になってきているだろう。
ここは、貴重な環境だ。
Fには内緒だ。
→次の夜
Dがいなくなった
DATE: 08/10/2008 22:39:36
朝起きたら、Dの姿がなかった、とFが言っている。
Fが眠っている間に、出て行ったのではないかと話してみた。
確かに、最近寝起きが悪いのだと、Fがこぼした。
聞くと、眠るたびにあの夢を見るのだという。
子供が足を引っ張る夢。
僕は、その夢がFから別の人間に渡っていかなかったのか、と考えていた。
何故、夢はFのところで止まったのだろうか。
Dのことは、確かに奇妙な感じがした。
携帯電話も置いたままだ。
何人かDの友人に連絡してみたが、何も知らないと言う。
言葉には出さないが、Fも僕も次第にあのことが気になり始めていた。
Dが、開かずの間に興味を持っていたことだ。
娘と母親が一緒に住んでいたことを、Dは探り出していた。
今日は、夜までDを待ってみようかと思った。
日が暮れて、簡単な夕飯を二人で食べた。
Dからの連絡は、まだなかった。
気持ちが波立つのを感じながら、オリンピックの話などをして料理を口に運んでいた。
そのとき、家の奥で音がした。
開かずの間の奥だ。
目覚まし時計のベルの音。
二人して顔を見合わせた。
「僕の荷物の中の目覚まし時計が鳴っているんだ」
二人とも腰を上げようとはしなかった。
けれど、不気味だったのは、その後だ。
しばらく鳴っていた目覚まし時計のベルが、不意に止まった。
まるで誰かが止めたかのようだ。
開かずの間の闇の中で、Fの目覚まし時計を、何者かの手が止めているイメージが、鮮明に脳裏に浮かんだ。
→次の夜
真夏の草むしり
DATE: 08/11/2008 23:31:01
昨夜、Dは結局帰ってこなかった。
今日は蒸し暑い一日。
父に命じられて、賃貸物件の草むしりをする。
夏の草は勢いがよく、むしるのに手間がかかる。
暑くてたまらないが、こういう単純作業を続けるのは気持ちがいい。
思考や感情がなくなっていくのは、なんと爽快なことだろう。
延々と作業を続けていてもかまわない。
僕の感情は、暗渠の下に溜まる泥濘のようなものだ。
草むしりを終えて自分の部屋に帰ろうとして、鍵のないことに気がついた。
草むしりの最中に、どこかに落としたらしい。
むしった草は、大きなゴミ袋で8袋にもなった。あの中に入っているとしたら厄介なことだ。
けれど、そんなことも言っていられない。
もう一度戻って、ゴミ袋の口を開けていった。
4袋目のゴミ袋の中に、草にまみれて鍵をみつけた。
ほっとしたが、鍵につけていた鈴が見当たらない。Fが引っ越したあの家の玄関先で拾った鈴だ。
僕の部屋の鍵につけていたが、外れてしまったらしい。
それ以上探す気にならず、そのままゴミ袋を元に戻した。
夜になって、Fに電話をしてみる。
繋がらない。
あの家は窪地にあるせいか、時々携帯が繋がらなくなることがある。
草むしりで疲れたので、ゆっくり休みたい。
Dのことは気になったが、明日Fの家に出かけていって聞いてみよう。
→次の夜
Dが帰ってきた
DATE: 08/12/2008 23:59:13
今日も昨日に続けて草むしり。
けれど、昨日ほど集中できない。
Dのことが気になって、何度かFに電話するが繋がらない。
そのことが余計にじれったく思える。
1時頃に草むしりを終え、簡単な昼食をとった後、Fの家に向かう。
着いたのは3時過ぎだった。
玄関先は相変わらずぬかるんでいた。
Fは、ニコニコしながら僕を迎えた。
Dが帰ってきたのだという。
僕は胸を撫で下ろした。Fも、不安から解放されたようで、顔がほころんでいる。
茶の間でお茶を飲んでいる、というので、Fと一緒に部屋に入った。
ちゃぶ台にコップが二つ置かれているが、Dの姿はない。
トイレにでも行ったのだろう。
しばらく待ったが、戻ってこないのでトイレを見てみるが姿がない。
家の中を見て回るがどこにもいない。
そうしているうちに4時が近づいてきた。
あの扉を閉める時間だ。
僕らは、もちろんあの扉に鍵をかけた。
10時くらいになっただろうか。
開かずの間から物音が聞こえ始めた。
明らかに誰かがいる。
僕とFは扉のある部屋まで行ってみた。
誰かが、その奥で何かを叩いている。
誰が、何を叩いているというのだ?
そう思った瞬間、いきなり扉が向こう側から激しく叩かれた。
「開けてくれ!」
それは、Dの声だった。
Dを開かずの間に残したまま、僕らは鍵をかけてしまったのだ。
Dはいつもの聞き慣れた声で僕らの名前を呼んだ。
「F! 水貴! 開けてくれ」
「わかった」
Fが返事をして扉に近づいた。
鍵穴に鍵を入れようとしている。
僕は慌ててそれを止めた。
「4時を過ぎてる」
「だって、Dがいるんだ」
「でも、4時を過ぎてる」
そんな話をしている間も、扉の向こうでDは僕らに呼びかけていた。
けれど、どんなことがあっても開けてはならないはずだ。
僕がそう話しても、Fは納得しない様子だった。
開かずの間にも窓はある。出たいのなら出られないわけがない。
僕はそう考えていた。
Dは、何度も何度も僕らの名前を呼び、扉を叩いてきた。
Fは、何度も鍵を手の中で握り直していた。
僕は、その様子を見ながら、窓から出られる、と扉越しにDに呼びかけた。
しかし、Dは一向に聞く耳を持たないようで、同じことを繰り返し話すばかりだった。
どのくらいそれが続いただろう。
Dは諦めたのか、扉から離れた。
叩く音が遠ざかっていく。
Dがどこかの窓から出ていればいいが。
僕は、そう願っていた。
→次の日
Dがみつかった
DATE: 08/13/2008 14:53:09
Dが死体でみつかった。
Fの家からそう遠くない空き地。
刈った夏草の山の中から、人の手のようなものが出ている、という通報を受けて警官が調べたところ、中からDの死体がみつかったのだ。
死後3日が経っていた。
やはりそうか、と納得したが、Fのことが気がかりだ。
10分前
DATE: 08/13/2008 16:40:05
僕がDの死の知らせを受けたのは、もう夕方近かった。
Fに電話をしたが、やはり繋がらない。
急いで、Fの家に向かった。
着いたのは、10分前。そう、4時10分前だ。
とにかく、あの扉を閉めなくては。
玄関を叩いても応答がない。Fのいつもの癖で鍵はかかっていない。
そのまま上がり込んで、Fを呼びながら家に入っていった。
けれど、返事がない。
ちゃぶ台の上に、また今日も麦茶のコップが2つ置かれている。
Fはどこにいるのか? これだけ声をかけているのに返事がないとすれば、開かずの間の奥の方にまだいるのかもしれない。
時計を見ると、7分前だ。
まだ少しだけ時間がある。
僕は御札の貼られた扉を開けて奥へと進んだ。
扉の奥の開かずの間には、いくつもの部屋がある。そこにFは、自分の荷物を置いている。
部屋を一つずつ開けていく。が、Fの姿はない。
時計を見ると、もう5分前だ。
いつも用心して早めに扉を閉めていたので、こんな時間に開かずの間にいることはない。
急に、自分の周りの空気が濃密になったような気がした。
水が腐ったようなすえた匂いが体にまとわりついてくる。
早くしたほうがいい。
そのとき、思い出した。僕の腕時計は少し遅れている。
それがどのくらい遅れていたのか?
思い出せない。
残り時間が4分あるのか、1分しかないのか、はっきりしない。
戻った方がいいかもしれない。
だけど、もうひと部屋だけ。
部屋を開けると、その隅にFがうずくまっていた。
声をかけると驚いたように振り返った。
昆虫の標本の箱を開けて、そのうちからひとつを小さい箱に入れようとしていた。
「4時だぞ」
僕の声に、Fは素早く反応した。急に、何かから解き放たれたように。
Fは、蛾の標本をひとつと小さな箱を持ったまま、僕の後ろを小走りについてきた。
焦れったくなるような時間だった。
ようやく、あの扉にたどり着き、僕がその扉を開けてFを迎え入れた。
鍵は、扉のすぐ脇にかけてある。
Fの体が通り過ぎるのを待って、扉を閉め、鍵を取り上げて施錠した。
その瞬間、
ドンッ!
と、何かが扉にぶつかる音がした。
誰かがFの後ろについてきて、そのまま扉にぶつかったのだ。
もちろん、僕らはその正体を知っている。
Dだ。
けれど、FはまだDが死んでいるということを知らなかった。
夜明けまでには
DATE: 08/14/2008 02:33:50
その後、僕とFの長い夜が始まった。
いまも、扉の向こうでDが僕らを呼んでいる。
扉を開けないことを怒ったかと思うと、泣いて開けてくれと懇願する。かと思うと臆病者とからかってきたりもする。
いまは、数年前に遊びに行った山のバーベキューの話をしている。
昔の思い出話を聞いていると、まるでそこにDがいるかのようだ。
数日前に別れたDが遊びに来て、お茶を飲みながら話をしているような、そんな気分になってくる。
なぜ、扉を挟んで話さなくてはならないのか。そのことの方が不自然に思えてくるのだ。
Fは何度もそんな思いに駆られ、扉を開けようとする。
そのたびに僕が止める。
けれど、Fの気持ちは理解できる。
いま、扉の向こうでDが咳払いをした。その独特の咳払い。
あのDがそこにいる。
扉を開けてほしいと僕らに言っている。
どうして、僕らはその願いを拒むことができるだろうか。
夜明けまでには、まだまだ時間がある。
聞き慣れた声
DATE: 08/14/2008 04:29:50
Dの声が聞こえないようにテレビをつけている。
オリンピックの女子バレーボールの試合を放映している。
Dが女子柔道の話をしてくる。
いつもの口調で驚くDの声に、まるで表情が見えるようだ。ついつい、Fは話を続ける。
話を続けては駄目だ。
話を止めなくては駄目だ。
→次の夜
肺の中に
DATE: 08/14/2008 23:38:21
Dは、夜が明けるまで話を続けた。
扉越しに話を聞いていたFと僕は、結局眠ることができなかった。
外が明るくなる頃、Dの声は小さくなっていった。
Dの死因を調べるために、司法解剖が行われていた。
その結果を、誰もが真っ先に僕に伝えてきた。
なぜなら、死んだDの肺の内部にはおびただしい菌が繁殖していたからだ。
ほぼ隙間のないくらいまで菌に埋め尽くされた肺の中。
菌の胞子がDの体内に入り、繁殖してしまったのだろう。
人間の肺の中で繁殖する菌類について、心当たりがないわけではなかった。
けれど、このような症例を聞くのは初めてだ。
その菌について強烈な興味を感じる。
Dの肺の中に手を入れてサンプルを採取したいくらいだ。
そんなことが許されるわけがないことはよくわかっていながら、衝動を抑えることができない。
昨夜眠れなかったため、午後になって強い眠気に襲われる。
Fが心配なため、4時までにはあの家に戻らなくてはならない。
けれど、睡魔に引きずり込まれてしまう。
ようやく起き出したのは4時を少し回っていた。
慌てて、Fの家に向かった。
玄関を開けると、目の前にFが座っていた。
その手の中に、昆虫標本があった。
僕が問いかけるより先に、Fが喋り出した。
「昨日、4時前に部屋から出ようとしたときに、この標本の蓋を開けたままだったんだ」
そう言って見せてくれた標本箱には、カビが繁殖して、まるで赤紫のベルベットを敷き詰めたようだった。
その中に、Fが命より大切にしていた昆虫標本があった。
たった一日で、ここまでカビが繁殖するものだろうか。
Fはそれがショックで、眠ることもできなかったようだ。
11時頃になって、また扉の向こうにDがやってきた。
DはFに謝り続けている。
「僕が、昆虫標本を元に戻しておけば、あんなことにならなかったのに」
しばらくそんな話をした後に、不意にDが提案してきた。
「これから僕が、Fの昆虫標本が無事かどうかを見てきてあげる」
Fは顔色が変わった。
「いや、見てくれなくても大丈夫」
けれど、Dの口調は変わらない。
「一つずつ、蓋を開けて見てみればいいんだろう?」
Fの言うことも聞かずに、Dは奥の部屋に進んでいったらしい。
やがて、奥の方で何かを落としたり、叩きつける音が聞こえてきた。
Fの顔が蒼白になってきた。
いま僕はFを連れて、開かずの間からもっとも離れている茶の間まで来ている。
Dが何かを倒す音が聞こえてくる。
僕は興奮気味のFを押さえつけるのに苦労している。
扉の向こうで、
Dは一体、何をやっているのだろう?
→次の夜
Dの通夜
DATE: 08/15/2008 20:24:03
8月15日(金)
Dの通夜
暦を見て気がついた。
昨日は友引だったのだ。
Dは扉の向こうで、何かを落としたり叩いたりして、Fの気を引こうとしていた。
僕が止めていなければ、Fはとっくに扉を開けていただろう。
眠れないまま朝を迎え、開かずの間を開けてみると、Fの標本のいくつかがまたしてもカビに覆われていた。
僕らは、睡眠不足でだるい体を引きずって、標本を開かずの間から運び出した。
昨日が友引だったので、Dの通夜は今夜になった。
蒸し暑い宵に、僕らは黒い服で集まった。
見慣れた顔は、いずれも神妙な表情をしていた。
Fと僕は他の参列者のように悲しむことはできなかった。
Dがここにいないことはわかっている。Dは、Fの家にいるのだから。
T子が僕らを見つけて近づいてきた。
目を泣きはらしている。
久しぶりに会ったせいなのか、黒い喪服のせいなのか、大人っぽく見えた。
暑さを逃れた酒席の隅で、三人で話をした。
T子の話の中で、一つだけ引っかかることがあった。
Dの携帯電話が見当たらないというのだ。
その時、T子が思いついたように言った。
「かけてみようか」
僕とFは顔を見合わせた。
が、止めはしなかった。
僕は小さく頷いて見せた。
T子は、好奇心いっぱいで携帯を取り出すと、操作をした。
僕は、開かずの間の奥で響くDの携帯を想像してみた。
けれど、その想像はすぐに破られた。
T子の顔色が見る間に青ざめたからだ。
彼女は、黙って携帯を僕らに差し出した。
僕は、その携帯を受け取ると、耳に当ててみた。
そこに聞こえてきたのはDの声ではなかった。
ひどい雑音の向こうに、気味の悪い男の声が聞こえ、よくわからない言葉を喋っている。
けれど、それがDだということは、僕にはすぐわかった。
「Dか?」
と、僕が問いかけると、それに答えるように雑音が返ってきたからだ。
けれど、それは昨夜まで話していたDの声とは明らかに違っていた。
なにか、別の次元と電波が繋がってしまったような嫌な感じだった。
Fも携帯に耳をつけ、すぐに離した。
僕は、Fの家の奥で、僕らともっともっと話したがっている孤独な魂のことを思っていた。
携帯を切ってから、T子が話したがっているのを振り切るのに苦労した。
僕は斎場を後にしながら、ふと思いついて振り返り、携帯でDの遺影を撮影した。
→次の夜
Dの肺の中
DATE: 08/16/2008 22:42:33
Dの告別式が行われた。
大声をあげて泣き伏す女子学生がいた。
悲しみという感情を表現することが、僕にはよくわからない。
感情など、できることならなくなればいい。特に、悲しみという感情は。
昨夜はFと一緒に僕の部屋で休んだ。
二日ぶりに十分な睡眠を取ることができた。
Dの死因が奇妙だったため、誰もがそのことを遠回しに知ろうとしていた。
死体の肺の中が菌でいっぱいになっていた、ということが参列者たちの興味を掻き立てていた。
帰りに研究室に立ち寄った。
このDの死体の話を聞いてから、確認しておきたかったことがあったからだ。
以前、研究室のフィールドワークで変形菌の採取のために、N県の山の中に入っていったことがある。
その時に、僕は足を滑らせて滑落し、ある沼の畔で夜を明かしたことがあった。
最初、そこに沼があるとは思えなかった。
辺りは草や灌木で覆われ、沼の存在を隠していたため、僕はただの窪地だとばかり思っていた。
けれど、その窪地のさらに窪んだ辺りから、時々ボコッという音がする。
気のせいかと思っているとまたボコッと音がする。
気になってかき分けかき分け近づいていくと、目の前の草が不意になくなり、そこに水面が現れた。
ボコッという音は、沼気の立ち上る音だったのだ。
その沼の周囲で、特殊な変形菌をいくつかみつけることができた。
沼の環境が特殊だったためなのだろう。
その中でも一番驚いたのは、死んだ野ウサギの口の中から現れた変形菌だった。
最初は、体内の寄生虫が口の中から出ているのかと思った。
けれど、よく見るとそれは網目状の変形体で、そこだけ着色したような鮮やかな色をしているのが気味悪かった。
おそらくウサギの体内で繁殖した菌にちがいない。
翌日になって見てみると、すでにウサギの口の中から、近くの倒木の裏へ移動していた。
けれど、動物の体内に生息する変形菌などあるのだろうか?
その時は、満足な記録を取ることができなかった。
十分な資料は残っていないものの、研究室で数ページのレポートを読むうちに、そのときの記憶が蘇ってきた。
Dの肺の中から発見されたものも、あのときと同じ変形菌なのかもしれない。
気がつくと、窓の外は暗くなってきていた。
Dの携帯履歴
DATE: 08/17/2008 23:42:19
午後から雨が降り出した。
あの家は、いつも以上に湿気に包まれている。
Fは体調が悪いと言って、茶の間に布団を敷いて寝ている。初めて家に入ったときと、同じ咳をしている。
Dの携帯電話は、きっと、この家のどこかにあるはずだ。
この家にDの携帯があるうちは、Dはまだこの家に残っているにちがいない。
まだ十分明るいうちに開かずの間に入った。
扉を開けると、腐った水の匂いが強く感じられた。
開かずの間の中は様々な荷物が置かれていて、その中から携帯電話を見つけるのは容易なことではなかった。
自分の携帯でDの電話を呼んでみた。
耳を澄ますが、着信音は聞こえない。Dはよくマナーモードにしていたことを思い出した。そうであれば、振動音しか聞こえないはずだ。
その振動音だけを頼りに、何度かコールしながら先へ進んだ。
一番奥の部屋の手前に来たとき、かすかな音が聞こえた。
振動音を探して部屋に入った。
部屋は窓がなく、夕方まで時間があるというのに灯りを点けなければ前も見えない。
雨が屋根を叩く音が強く聞こえた。
他の部屋とは異なり、その部屋の中には掛け軸と鏡台、あとはわずかな荷物しか置かれていなかった。
僕は最後の電話のつもりで、Dにメールを送った。
昨日撮った告別式のDの遺影の写真を添付した。
携帯の振動音が聞こえた。
携帯電話は、鏡台の裏に置かれていた。
奇妙な場所に置かれているな、と思いながら携帯電話を拾い上げたとき、どこかで鈴の音が聞こえた。
「え?」と思った。
背後に人の気配を感じたのだ。
振り返ると、
部屋の真ん中に女が寝ていた。
さっきまでは誰もいなかったはずなのに。
けれど、よく見ると、それは人ではなかった。
変形菌が、人の形をして畳の上に生えていたのだ。
まるで、女がそこに寝ているように変形菌は生えていた。
Dの携帯を取り上げて、開かずの間を出たら、もう4時前だった。
十分に時間に余裕を持って動いたはずなのに、こんな間際の時間になってしまうとは。
急いで開かずの間に鍵をかけた。
Dの携帯を彼の両親に届ける前に、確かめたいことがあった。
その履歴だ。
Dが死んでから今日まで、その携帯が使われているはずがない。
着信は何件かあっても、発信の履歴はあるはずがない。
ところが、昨日の夜、その携帯は何者かに使われた形跡があった。
しかも何回も。
その相手は、すべてT子だった。
最後の発信は今日だった。
メールをT子に送っていた。
文章はなく、画像の添付だけ。
その画像は、さっき僕が送ったDの遺影だった。
花に囲まれた笑顔のDの写真は、しばらく見ているうちにプツンと消えた。
バッテリーが切れたのだ。
その画面を見たとき、Dはいなくなったと感じた。
僕は、Dの両親に携帯を届けた。
帰り道、雨が上がっていた。
満月だ。
死んだDは、昨夜T子と話をしていたのか。
→次の夜
Fの咳
DATE: 08/18/2008 22:23:15
昨夜、開かずの間から物音は聞こえてこなかった。
夜は涼しく、睡眠を妨害するものはFの咳以外になかった。
Fは、夜中に時々激しく咳き込んでいた。
僕が目覚めると、Fはもう布団から出ていた。
首の根元から胸にかけて赤い筋が覗いていた。
胸には、爪で引っ掻いた痕が残っていた。
昨夜苦しくて胸を掻きむしったらしい。
それより、と言いながらDの告別式の時に着ていった喪服を僕に見せた。
気味の悪いものが付着していると言う。
見ると、仕立ての良い黒い布地に、網目状のものがわずかに付着して乾いている。
すぐに、それが変形菌の一種だとわかった。
しかも、以前フィールドワークの時に沼で見たものと同じように思える。
これは、Dの体内で繁殖していた変形菌かもしれない。
司法解剖の後、Dの肺からすべての菌を取り除いたとは思えない。
だとすれば、昨日Dの遺体の口の中から出てきた変形菌が棺のどこかに付着していて、Fの喪服についたにちがいない。
僕はFの喪服から菌を採り、保管した。
それは、昨夜僕が女の寝姿だと思った変形菌と同じ種類のものだった。
Dからの電話のことをT子に確認しておきたい。
そう思って、彼女に連絡を取ってみた。
T子は何も知らないと言い張った。
けれど、そんなわけはない。Dからの発信の履歴が、それを物語っている。
T子はよく嘘をつく。
けれど、今回の嘘は、今まで僕の知っている嘘とは質が違うような気がした。
暗渠を通ってFの家に戻った。
玄関を開けると、Fの咳の音が聞こえた。
→次の夜
宵子
DATE: 08/19/2008 21:24:30
Fは眠ると必ず足を掴まれる夢を見る、と言う。
この悪夢と夜の咳のせいで、日に日に疲弊している。
夜よく眠れないためか、昼間に布団に入っていることも多い。
Fが、昨日のひっかき傷が熱を持って変色し始めている、と言って見せてきた。
見てみるとミミズ腫れになって、変形菌が生え始めている。
Dの口から出てきたものが、喪服に付着し、Fのミミズ腫れで繁殖を始めたのだろう。
Fの体に、別の生き物が棲みつき始めている。
僕が黙っているのを見て、「そう言えば」とFが話を始めた。
Dの告別式の夜、T子がこの家にやってきたのだという。
一時間くらい開かずの扉の前にいて、一人で何かを喋っていたそうだ。
あとで考えて不思議な気がしたのは、T子がこの家に入るのは初めてだったにもかかわらず、まるで自分の家のように上がってきて、真っ直ぐに開かずの扉まで行ったことだ、とFは首を傾げた。
Fが眠ったのを見計らって買い物に出た。
戻ってきてみると、ポストに手紙が入っていた。
前の住人宛の郵便物だろう。
「宵子様」と宛名が書いてあった。
何と読むのだろう?
そのとき、「しょうこ」という呼び名が頭に浮かんだ。
「しょうこ」とつぶやいてみる。
急に、そんな女がいるような気がしてきた。
Dの携帯に電話したとき、ノイズのような声の中に、そんな言葉を聞いたような気もする。
僕は、開けかけた玄関から、灯りの点いていない家の中をのぞき込んだ。
その暗闇の奥に、誰かがいる。
→次の夜
掛け布団の中に
DATE: 08/20/2008 23:31:26
2通目の手紙がポストに届いていた。
宵子宛の手紙だ。
差出人は、昨日同様書かれていない。
子供部屋に置かれていた荷物は、みすずという子供のものだと、亡くなったDは言っていた。
母子2人で暮らしていたようだが、母親の名前がわからない、ということも言っていた。
僕にも好奇心はあったが、それを封じ込めることも知っていた。
ただ、「宵子」という名前を目にした時から、頭が開かずの間に傾き始めていた。
名前など、知るものじゃない。
Dも、「みすず」という名前を知ったために、開かずの間へ引きずり込まれるようなことになったのだ。
名前など知らなければ、遠い距離でいられたのだ。
だから、もうこれ以上、考えるのはやめよう。
寝込んでいたFが、荷物の中に薄い掛け布団が入っているので持ってきてほしいと言う。
確かに、少し涼しくなってきた。
ただ、Fの荷物は多くて、どこに入っているか本人でもよくわかっていない。
開かずの間に入って、Fの荷物を開けてみる。
Fが見当をつけたいくつかの段ボール箱を開けていくと、10箱くらい開けたところで、ようやく掛け布団を見つけた。
その布団を持ち上げた時、布団の間から何かがバラバラと床に落ちた。
見ると、何本ものヘアピンだった。
20本くらいあっただろうか。
その後、ゴトンといって手鏡が落ちた。
表面が曇った古めかしい手鏡だった。
そんな古い手鏡を、Fが持っているはずはなかった。
けれど、段ボール箱は未開封で、ガムテープが貼られたままだ。
どうやったら、そんな中にヘアピンや手鏡が紛れ込むだろうか。
僕は、ヘアピンを手鏡の上に載せてそっと棚の上に置いた。
まるで、ずっと前からそこにあったような気がした。
そこのことは、Fには言わなかった。
4時前になって鍵を掛けようと開かずの間の手前の部屋へ行くと、電球が切れていた。
暗いので、納戸の電球を外してきて取り付けた。
→次の夜
鉛筆を削る
DATE: 08/21/2008 23:23:56
Dがいなくなって以来、開かずの間を4時に閉めるのは、僕の役割になっていた。
僕は毎日3時くらいにはFの家に戻り、開かずの間に鍵を掛けるようにしている。遅くなっても、3時半には施錠する。
ただ、この頃、家の中の時計が狂ってきている。
まだ2時だと思っていたら、実際は3時半だったりする。
用心していないと、鍵を閉める時間をやり過ごしてしまう。
鍵は、ある場所に隠してある。
実は、Fが勝手に扉を開けようとするのではないかと心配なのだ。
特に、この2〜3日、僕に鍵のありかを聞いてくる。
僕がちゃんと閉めるから安心しろ、と言っても納得しない。
しつこく聞いてきて辟易するが、いろいろな理由をつけて今まで教えずに過ごしてきた。
今日は帰りが3時半くらいだった。
開かずの間に鍵を掛けに行くと、扉の脇にテレビが置かれていた。
昼間体調がよかったので、テレビを移動したのだと言う。
何も、こんな場所に置かなくてもいいだろうと言ったが、そもそもはFの家だ。
Fが置きたいという場所に置くしかないだろう。
久しぶりに見るテレビは新鮮で、二人で思わず見入ってしまった。
6時過ぎから風が強く吹くようになり、雨も強く降り始めた。
室内の湿度が急に上がり、空気が重くなってくると、開かずの間の奥に様々な気配が感じられるようになる。
扉1枚挟んだ向こう側で、何かが動き回っているのがよくわかる。
言葉少なになった僕らは、テレビの画面に集中するふりをしていた。
そのとき、不意にテレビが砂嵐に変わった。
チャンネルを変えても、画面に変わりはなかった。
強風でアンテナが倒れたのかもしれない。
そう思ったら、今度は部屋の電球が切れた。昨日、納戸の電球を外して入れたばかりなのに。
仕方なく、今度は台所の電球を外して入れる。
夜中になっても、Fは映像の映らないテレビをつけたまま、その前に座ってカッターで鉛筆を削っている。
時々、咳をしているのが聞こえる。
僕は気づかないふりをしている。
Fは、何本も何本も、先が針のようになるまで鉛筆を削っている。
→次の夜
医者にかかる
DATE: 08/22/2008 22:03:08
昨夜、遅くに人の声で目が覚めた。
布団の中で耳を澄ませると、どうも開かずの間の手前の部屋から聞こえてくるようだ。
時計を見ると、2時半だった。
Fが、まだあの部屋で鉛筆を削っているのだろうか。
覗いてみると、Fが開かずの間の扉に耳をつけて相槌を打っている。
扉の向こうの誰かの話を聞いているようだ。
Dはもういないはずだ。
となれば、やはり彼女なのだろう。
彼女は、確実に存在感を増してきている。
僕は気づかないふりをして布団に戻った。
Fが戻ってきたのは、4時近かった。
Fが起きてきたのはお昼頃だった。
最近食欲のないFのために、僕は簡単な食事を用意した。
このままでは、Fがどんどん衰弱してしまうと考えたからだ。
比較的涼しかったので、鶏肉とネギを入れた温かいうどんを作った。
最初は食欲がない、と言って箸をつけようとしなかったが、せっかく作ったんだから、としつこく言うと、ようやく一口食べた。
温かいものが体に入ったら、次第に食欲を取り戻したようで、結局用意したうどんを全部平らげた。
食べた後、Fは久しぶりに笑顔を見せた。
その笑顔の後、急に真顔になって、僕に「怖いのだ」と打ち明けた。
この頃、自分の体が自分のものでなくなるように感じることがある。
特に夕方からその感じが強まってくる。
何かが、自分を浸食しているみたいだ。
そう言うと、Fはいっそう不安そうな表情で、
「昨夜、何かおかしなことをしていなかったか」
と聞いてくる。
カッターで鉛筆を削っていたことだけを話した。
Fは半分納得したように、
「そうか」
と言った。
そういうときの記憶は、まるで夢の中の出来事のように思い出されるのだという。
その話の後、僕は医者に行くようにFに言ってみた。
Fの咳は、尋常ではなくなっている。
このところ、毎日言っていたが、毎度はぐらかされていた。
今日は説得できるような気がして、少し強く言ってみた。
すると、案外すんなりと返事をして、すぐに出かけていった。
テレビのアンテナを直そうと屋根に上ったが、倒れたり折れたりしてはいなかった。
どこかで、アンテナ線が切れているのかもしれない。
屋根の上では異常が見られなかった。室内のどこかで切れているのか。
夕方になって、Fが医者から帰ってきた。
特に異常は見られないので、咳止めの薬だけもらって、様子を見るように言われたそうだ。
医者からそう言われたのでは仕方ない。しばらく様子を見て、それでも治まらないようなら、別の医者にかかるように勧めよう。
→次の夜
Fの薬
DATE: 08/23/2008 23:05:10
小雨が降り続いている。
Fに頼まれた買い物の帰り、T子とすれ違ったような気がした。
お互い傘を差していたので、顔はよく見えなかった。人違いだったのかもしれない。
雨の中で見ると、Fの家はいつもより低いところにあるように見える。
玄関脇のポストに、また宵子宛の手紙が入っている。
Fは相変わらず咳をしている。
昼食は元気に食べたが、夕食はあまり食欲がないようだった。
夕食の後、薬を飲んでいるFの様子を見て奇妙な感じがした。
やがて、その原因に気がついた。
Fは、セロファン紙を折った包みの粉薬を飲んでいたのだ。
子供の頃なら見たこともあるが、今時、そんな包装で薬を処方する病院があるだろうか。
僕がそのことを指摘しても、Fは不思議な顔をするばかりでおかしいとは思っていないらしい。
本当に医者に行ったのだろうか。
その薬の包みには見覚えがあった。
最近、どこかで見たような気がする。
はっきりしないが、思い出そうとすると嫌な気持ちがした。
それはきっと、あまりよくない場所だ。
昨日から5服も飲んでいるのに、Fの咳は止まない。
→次の日
鏡台のなかの薬
DATE: 08/24/2008 14:35:29
朝、朝食も食べずにFは例の薬を飲み、また寝込んでしまった。
今日は、昼食もあまり進まない。
薬ばかり飲んでいて気にかかる。
昼食の後、開かずの間に入ってみた。
今日は雨模様で、湿気が立ちこめ、ますます菌類の匂いが増している。
どこかで薬の包みを見たような気がする。
そう思って、心当たりを探してみた。
奥の間に来たときに思い出した。
Dの携帯が置かれていた鏡台の引き出しの中だ。
開けてみると、薬の袋の中に、2包残っている。
Fが飲んでいるものと、よく似ている。
僕は、その袋をポケットに入れた。
Fは、こんな薬を飲んでいたのか?
袋には、「宵子様」と書かれていた。
部屋に帰ろう
DATE: 08/24/2008 18:14:00
5時頃、父から連絡が入る。
店に出かけていくと、少し説教をされる。
頼まれていた仕事が一向にはかどっていないことを指摘された。
確かにその通りだ。
自分でも気がつかないうちに、あの家ばかり出入りしている。
まるで、何かに誘われているかのようだ。
今日は、自分の部屋に帰ろうと思う。
蛇口の声
DATE: 08/24/2008 23:31:13
Fの家に戻るともう7時で、Fは寝ていた。
台所で、Fが病院からもらってきたという薬を調べてみる。
ポケットに入れていた「宵子様」と書かれていた薬と比べてみると、悪い予感は的中した。
全く同じ薬だ。
Fは、かつてこの家に住んでいた「宵子」という女の薬を飲んでいる。
何の薬かもわからない。しかも、何10年も前の薬だ。
何故、そんな薬を見つけ出してきて、僕に嘘をついてまで飲み続けているのだろうか?
「何かが自分を浸食しているみたいだ」と言ったFの言葉が思い出された。
人の気配に気づいて振り返ると、玉暖簾の向こうに誰かが立っていて、じっと僕のことを見ている。
一瞬、誰かわからなかった。
玉暖簾をかき分けて入ってきたのは、Fだった。
Fは僕の手から無言で薬を取ると、蛇口をひねってコップに水を注ごうとした。
僕が注意しようとした時に、蛇口をFが叩いた。
ひねっているのに水が出ないのだ。
蛇口は手応えなく回るばかりだ。
けれど、蛇口の奥の方で水のような音がしている。
Fが耳を近づけると、青い顔をして僕を見上げた。
僕も蛇口に耳を近づけてみた。
水のような音だと思ったものが、人の声に聞こえた。
水の中で女が話しているような声。
しかも、それはFの名前を呼んでいた。
僕がFを見上げた瞬間、いきなり蛇口から「バンッ」と音を立てて真っ赤な水が出てきた。
初めてこの家で水道を通した時と同じだ。
家じゅうの水道管が「ゴボッ、ゴボッ」と音を立て、台所の蛇口からは「バンッ、バンッ」と破裂音を出して断続的に真っ赤な水が出てくる。
家じゅうが怒りの感情に包まれているかのようだ。
全開にしていた蛇口からは勢いよく赤い水が噴き出し、僕とFを濡らした。
慌てて蛇口をひねって水を止めた。
Fはそのまま台所を出て行ってしまった。
→次の日
風呂の水
DATE: 08/25/2008 13:28:09
昨夜は、蛇口から溢れ出た赤い水に悩まされた。
飲み水は、僕がコンビニでペットボトルを買ってきたが、気味が悪かったのは、風呂の水だ。
バスタブに溜めても、沸かしてみても、赤い色は褪せることがなかった。
その赤い湯に浸かるのは、かなり勇気を要した。
それでもお湯に浸かっていると、赤い湯の中から長い髪の毛が束になったものが浮かび上がってきた。
今日になって、腕の擦り傷に変形菌が寄生し始めていることに気づいた。
Fに比べると、菌が発生する面積は圧倒的に少ない。
すぐに取り除くが、また生えてくるかもしれない。
そんなことをしている間に、自分の部屋に帰るきっかけを失ってしまった。
朝になったら、蛇口の水は普段のものに戻っていた。
バスタブの昨日の残り湯は、変色して沼のような色と匂いを発していた。
まだ残っている
DATE: 08/25/2008 15:10:27
昨日、Fが台所の引き出しに入れていた薬は、すべて隠したはずだ。
なのに、ゴミ箱には薬の包み紙が捨てられている。
Fは、まだあの薬を飲み続けているようだ。
どこかに隠し持っているらしい。
どうしたら、止めさせることができるだろうか。
T子の素足
DATE: 08/25/2008 20:33:18
夕方、T子がやってくる。
久しぶりに会った彼女は、少し印象が変わったように思えた。
Fは、T子の言うことなら聞くかもしれない。
T子は、上品な顔立ちをしていながら、その屈託のない明るさで誰とも分け隔てなく話をしていた。DやFにとっては、少しまぶしい憧れの対象だった。
最近、家の中に蟻が入ってきて困っていた。蟻を退治している間、T子はFと話をしていたようだった。
しばらくして、僕のところにやってきたT子の様子に驚いた。
彼女は裸足だったからだ。
彼女の素足を見たのは、これが二度目だった。
彼女は、夏のどんなに暑い日でも靴下を履いていた。
なぜなら、彼女は右足の小指がなかったからだ。
「靴下は?」
と、僕は彼女の顔色を窺いながら聞いた。
「小指の幽霊が出たから」
と、彼女は言った。
小指の幽霊とは、ありもしない小指の先が痒くなったりすることだ。
いなくなった小指が現れることから、彼女はそれを小指の幽霊と呼んでいた。
そして、そのまま踵を返して、玄関から出て行ってしまった。
明らかに普段と様子が違っていた。
その後、電話しても、彼女は出なかった。
→次の夜
小指の幽霊
DATE: 08/26/2008 23:43:37
T子は、昨日Fに何の話をしていたのだろう?
ただ、確かなことは、Fが今日もあの薬を飲み続けている、ということだ。
そしてもう一つ、FがT子とあの儀式をやったということだ。
あの儀式とは、なくなった小指の先が痒くてたまらなくなったとき、つまり小指の幽霊が出たときに、それを鎮める儀式のことだ。
家族や友達、恋人など、自分と波長が合う人間に隣に座ってもらい、自分と同じ格好をしてもらう。
その格好のまま、損失部分と反対側の部位に糸を結ぶ。彼女の場合は、右足の小指が損失部分なので、左足の小指に糸を結ぶ。
その糸の反対側の端を、隣に座った人の同じ部位に結びつける。
その状態のまま、同じリズムで糸で結ばれた左足の小指を掻き始める。
しばらく、それを続けながら、二人の波長を合わせていく。
頃合いを見て、今度は右足の小指を掻き始める。
T子には右足の小指がないので、ただの空間を掻くだけになる。
二人の波長が合ってくると、二人の中でないはずの小指があるかのように思えるようになる。小指の幻想だ。
二人して小指の幽霊を見ることのできる瞬間だ。
そのとき、T子は痒みを解消することができるようになると言うのだ。
一種の儀式だが、儀式はこのように人の心を動かす作用がある。
ただ、この方法を知っているのは僕だけのはずだった。
T子は痒くてたまらない時、靴下を脱いで白い素足を見せた。
それは、僕とT子の秘密の儀式だった。
その儀式が、FとT子の間で行われている。
僕は、そのことに軽い嫉妬を覚えた。
そして、僕が嫉妬していることに驚いた。
いつからT子とFは、そんなに親密な関係になったのだろうか。
今日も、T子は連絡がつかない。
Fは何度も何度も、僕に開かずの扉の鍵の隠し場所を聞いてくる。
僕がそれを疎ましく思ったのは、家の中の蟻の退治に忙しかったためだろうか。それとも、FがT子とあの儀式をやっていたからだろうか。
→次の夜
町に沼がある
DATE: 08/27/2008 22:38:48
祖父の見舞いに行く。
あの家から病院にやってくると、その空気の違いに驚く。
病室に入ると、新聞を読んでいた祖父はいつもの笑顔で僕を迎えた。
けれど、次の瞬間、その顔が曇った。
なにか、湿った匂いがする、と言うのだ。
言われてみると、確かにそのような気がする。
以前は感じなかったが、今は病院の中で自分が異質な存在に思える。
その後、どういう経緯でその話になったかわからない。
祖父がしたのは、子供の頃あの町にあった沼の話だ。
葦が生えた沼は気味が悪く、町の人はあまり近寄りたがらなかった。
けれど、大人たちが来ないことをいいことに、子供たちの格好の遊ぶ場になっていた。
祖父たちにとって、その沼で泳ぐことは最高の遊びだった。
それは一種の度胸試しだ。
濁ったぬめりのある水に身を浸して、葦の間を泳ぐのだ。
子供とはいえ、気分のいいものではない。
けれど、それにも慣れると、さらに遊びはエスカレートした。
誰かが、溺れたふりをしたのだ。
慌てふためく友達を尻目に、彼は葦の間に隠れ、やがて全く別の方向から現れてみんなを驚かせた。
「悪い遊びだ」
と、祖父は言ってため息をついた。
なぜなら、その沼には沼気が立つことがあり、それを思い切り吸い込んでしまうと、意識が錯乱することがある。
そうなると、どんなに泳ぎが達者だろうが、溺れることもあるからだ。
ところが、みんなはその遊びに夢中になった。
そんなある日、不意に誰もがその遊びを止めた。
「誰かひとり、本当にいなくなったような気がする」
祖父は、どうしても思い出せないようだった。
「だけど、ただ、引っ越しただけかもしれない。いずれにしても遠い昔のことだ」
そう言って話を終わらせた。
僕は、もう少し聞きたかったが、祖父の横顔がそれを拒んでいた。
でも、あの町に沼などない。
それを聞いてみると、
「埋められて、そこには家が建っている」
と言った。
僕にはわかった。
それは、あの家だ。
けれど、前からわかっていたのかもしれない。
だって、以前フィールドワークで見た、沼の畔で死んだウサギの口から出ていた変形菌は、死んだDの肺の中で繁殖した変形菌と同じものだったのだから。
あの家は、沼の上に建っている。
→次の夜
T子のメール
DATE: 08/28/2008 23:30:28
急に激しい雨が降ったかと思うと、急に上がって風が吹く。
そんな天候を繰り返す一日だ。
昨日、祖父から聞いた話を思い出す。
この家は、沼の上に立っている。
こんなに激しい雨が降ると、沼の中に沈んでいきそうな気分になる。
そんなことを思いながら、家に近づいていくと、連絡がつかなかったT子が玄関先に立っているのが遠目に見えた。
玄関を入るわけでもなく、何かをしている。
ポストに何かを押し込んでいるように見える。
近づいていこうとしたところで、不意に大粒の雨が落ちてきて、たちまち土砂降りとなった。
慌てて家の軒先に逃げ込もうとしたのと、T子が玄関を離れたのが同時だった。
T子は土砂降りの雨に全く頓着していない様子で、何事もないように歩き去っていく。
追いかけようとしたが、あまりの雨に阻まれて、僕は足を踏み出すことができなかった。
声を掛けても、T子は振り返らない。
一瞬、T子が僕を驚かそうとしてやる無茶な遊びかとも思った。
僕が心配すると、くるりと振り返って笑いながら駆け戻ってくるんじゃないか。
そう願っていたのかもしれない。
けれど、結局T子はそのまま歩いて、煙る雨の中を去っていった。
ポストを見ると、そこには「宵子様」と書かれた手紙が入っていた。
雨が上がると、T子からメールが届いた。
先ほどのことには、全く触れずに、小指の幽霊の治め方が書かれていた。
「小指の幽霊を治める方法を以前話したけど、あれは全部嘘です。そんなことをやっても駄目。
私の嘘につきあって、自分の小指を掻いてくれたりしてありがとう。
本当は、こんな方法です。
糸で小指同士を結ぶところまでは同じ。
その後、水貴くんは自分で自分の右の小指を針でつつくの。何回もチクチクと。そのチクチクした感じが、私のないはずの小指に伝わってきたときを見計らって、スパッとカミソリで切るの。私の小指を。
だけど、もちろん、そこに小指はないから平気。でも、そうやって強引に切ることが大事。
小指の幽霊に、こちらが波長を合わせることは間違っている。
こちらの波長に合わさせておいて、カミソリで切り落とすしかないのよ。
よく覚えておいて。
次に私に会うときは、カミソリを用意しておいてね」
メールはそこで終わっていた。
僕は、もうT子に会えないのではないかと感じていた。
→次の夜
驟雨、鈴の音
DATE: 08/29/2008 22:56:01
昨日と同じように、夕方から激しい雨が集中的に降る。
僕は、昨日玄関先から叩きつけるような雨のことも知らぬように立ち去っていったT子の後ろ姿を思い出していた。
雷が時々すぐ近くで鳴っていた。
雨は信じられないくらい激しく降ったかと思うと、たちまち小雨になったりし、それを繰り返していた。
雨が激しく降るときに限って、玄関先で鈴の鳴るような音が聞こえた。
それはFにも聞こえていたようだ。
僕より先に立ち上がって、Fが玄関の扉を開けてみたりした。
けれど、そこには誰もいなかった。
T子が雨に降られて玄関先に逃げ込んできたかと思ったのは、僕だけではなかったようだ。
夜になって、鈴の音は開かずの間から聞こえてくるようになった。
誰かが持って歩いているようだ。
近づいてきたかと思うと、また奥へと引き返す。
何かを探して奥の部屋から順々に見て回り、開かずの扉の前まで来て引き返していくようだ。
もちろん、開かずの間に誰かいるはずはない。
僕は、開かずの扉に耳を押しつけて、扉1枚隔てた音を聞き続けた。
やがて、奥からゆっくりやってきた鈴の音が、扉の向こうで消えた。
どこかに行ってしまったのか。それとも、そこにいるのか。
そのままの姿勢で30分くらい聞いていただろうか。
何の物音もしなかった。
何の気配もしなかった。
もうこれ以上聞いていたところで、どうなるわけでもない。
そう僕が思って、
立ち上がろうとした瞬間、扉の向こうで鈴が小さく鳴った。
誰かがまだそこにいた。
僕と同じように扉の前にじっとしていて、気配を感じるのを待っていたのだ。
鈴は、そのまま奥の部屋へと遠ざかり、やがてそのまま消えてしまった。
→次の日
湿気の溜まる家
DATE: 08/30/2008 14:29:26
午後から雨が降り始め、夜になっても止むことはなかった。
雨が降ると死んだ人のことを思い出す、と何かの本に書いてあった。
これだけ毎日雨が降ると、家の中に湿気が溜まる。部屋の隅や押し入れの中など、風通しの悪いところは特に湿度が増して、そんな場所に死んだ人間が立っているような気にもなる。
湿って重みを増した空気が、人の気配のような、人の形のようなものを孕むのかもしれない。
4時になる前から家の中に気配のようなものを感じるようになる。
ショートケーキ
DATE: 08/30/2008 21:32:43
雨に降り込められて、死んだ人間のことばかり考えていても仕方ない。
この頃、家の中に出てきている蟻を何とかしよう。
台所に食べ物や生ゴミを出したままにしないようにしていたのだが、一向に減る様子がない。
蟻の動きを追いかけて、ようやくその原因がわかった。
開かずの間の子供部屋にある学習机の引き出しの中だ。
そこに、腐ったショートケーキが入っていた。生クリームが腐敗して溶け出していたが、そこに無数の蟻が群がり、黒い塊となってうごめいていた。
数日前に、T子がやってきてFと一緒に食べていたショートケーキを同じものだ。
FかT子が、もう1個のケーキを学習机の中に入れていたのだ。
でも、何故そんなことをしたのだろう。
しかも、FやT子が持っているとはとても思えない、子供用のキャラクター入りのプレートにのせてある。
明らかに子供のために用意したものだ。
かつてこの机を使っていた「みすず」という少女のために置かれたケーキだろう。
僕は、そのケーキを群がる蟻ごとポリ袋に入れ、口をきつく縛った。
プレートを台所に持って行く途中、その上に群がっていた蟻がプレートを持つ指を伝って、僕の体に何匹も何匹も這い上がってきた。
プレートを流して洗い、水を拭き取ってから子供部屋に戻した。
その後、ケーキを暗渠に捨てにいこうと思ったが、玄関を開けたところで激しい雨が降り始めた。
それでも傘を差して出かけようとしたとき、靴がぬかるみにはまってしまった。
ようやく足を引き抜いたが、靴はぬかるみに残ったままだ。
手を入れて引き抜き、ようやく取り戻したが、これから靴や体の汚れを落とさなくてはならない。
とても、暗渠まで行く気にはなれなかった。
夜になって、家の中に人の気配が増してきている。
僕と寝ているFしかいないのに。
→次の夜
僕たちの夏休み
DATE: 08/31/2008 23:26:28
久しぶりに晴れ間が見えた。
気温も上昇して、気持ちも少し浮き立ってくる。
雨に降り込められていた間に、家の中がすっかり湿気ってしまった。
風の通らない家だが、窓を開けて少しでも空気を入れ換える。
そういう当たり前のことが、ひどく新鮮に感じられる。
Fも同じ気分らしく、久しぶりに布団から起き上がってくる。
その布団を持ち上げると、変形菌の胞子が舞い上がり、たちまち鼻がむず痒くなる。
二枚重ねた敷き布団の間に、宵子が飲んでいたあの薬が大量に隠されていた。
僕は、それをすべて集めてゴミ箱に捨てた。
敷き布団を上げると、Fの寝ていた畳はその場所だけじっとりと湿っている。
日は差さないが、窓に布団を干す。
Fは風呂に入りたいと言って、湯を沸かし、いつのまにか湯上がりのすっきりした表情で麦茶を飲んでいる。
まるで、この数週間のことが、すべて嘘のような気がする。
久しぶりに食欲の出てきたFのために、夏野菜を使ったパスタを作ってやった。
あまり料理などはやらない僕だが、この料理だけは毎年数回作る。
今から10数年前、僕がまだ小学生の頃の夏休みに叔母から教えてもらったものだ。
Fはパスタをびっくりするくらいの速さで平らげた。
風呂に入って食事をしたFの皮膚には、艶が戻り赤みが差してきた。
僕たちは、久しぶりに話をして、久しぶりに笑い合った。
この家に笑い声が響いたのは、いつぶりだろう。
Fはあの薬を飲むこともしなかったし、僕が布団を上げたことも責めなかった。
そんな風にして、僕たちは午後を過ごした。
悪い予感など、どこにもなかった。
このまま、夏休みが永遠に続くような気がしていた。
宵闇が濃くなった頃、雨が降り始めた。
携帯電話が鳴った。
T子が死んだ、という連絡だった。
