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水貴の日記 2008.07


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水の心

DATE: 07/18/2008 23:56:48
  
今夜は満月。
坂の上に浮かぶ満月が、大きく見えるのは何故だろうか。
このブログを始めるのにはいい夜空だ。
坂道が好きなので、わざわざ遠回りして坂を登って帰る。
登り切って振り返ると、金曜日の町並みは普段より陽気に感じられる。
明日から夏休みの大学生の身には、それが余計に楽しげに見える。
感情が見えにくいと言われる僕でも、もちろん豊かな感情を持っている。
心は水のようなものだ。
いつでも動いていてとどまることがない。
もしも止まった心があるとすれば、それほど恐ろしいものはない。
幽霊がいるとすれば、そのようなものかもしれない
そんなことを思いながらもう一度振り返ると、月は驚くほど高い位置にあった。
いつでも天体の動きには驚かされる。
心の動きに驚かされるのと同じだ。
 
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重い荷物

DATE: 07/19/2008 22:58:48
 
右手に重い荷物を持って夕暮れの道を歩いた。
首筋に汗が絡まって、何度ぬぐっても不快感が消えないことが憂鬱さに拍車をかけていた。
憂鬱なのには理由がある。
右手に持った荷物が、時々動くからだ。
安心していると不意に動いて、心臓が鷲づかみにされたような気分になる。
父がやっている不動産屋は、道が二手に分かれる分岐点にある。
夏休みのアルバイトを兼ねて、僕は今日から父の不動産屋で働いている。
最初に仕事が、こんなに憂鬱な仕事になるとは思いもよらなかった。
右手に持った荷物を持ったまま店に入ると、父は接客中だったが、荷物を掲げるとあからさまに嫌な顔をした。
僕は少し意地悪な心を出して、父に右手で「4」と示した。
父の顔に驚きに表情が浮かんだ。
その時、また荷物が動いた。
僕は慌てて店を出て、裏のゴミ置き場に向かった。
触れていないのに、ポリ袋を伝わって不快なものが体の中に入ってくるかのようだ。
急いで袋をゴミ容器の中に入れる。
落とした瞬間、袋が「キーッ!」と叫んだ。
その後、いつまで経っても、夕方の不快感が手の中に残っている。
何度手を洗っても、消えることはなかった。
 
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いやな夢

DATE: 07/20/2008 23:28:24
 
目が覚めた時、まだ感触が残っているかのようだった。昨日捕まえたネズミのことだ。
父に言われて古い一軒家のネズミ捕りを回収に行った。簡単な仕事かと思っていたらそうではなかった。
粘着タイプのネズミ捕りに4匹のネズミが捕まっていたが、その中の一匹は見たこともないくらい大きかった。一瞬たじろいだが、間をおくと躊躇するような気がしてすっと手を出したのがまずかった。
ネズミはまだ生きていて、「キーッ!」と鋭い声を挙げると、僕の手を引っ掻いてきた。痛みより驚きの方が大きかった。
思わず手をひっこめた。ネズミの口から血が流れていた。
それが昨日運んでいた荷物だ。
そんな出来事のせいか、いやな夢にうなされた。どんな夢かはよく覚えていないが、夢から覚めても、激しく動いたネズミの感触が手の先に残っていた。
今日、改めて店の裏を覗いてみたら、ポリ袋に入った荷物はそのままだった。
誰か処理してくれてはいないかという淡い期待があったか、もちろんそんな人がいるわけがない。
結局、今日は荷物に触れることができなかった。
今夜もいやな夢を見るかもしれない。
 
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他人の部屋

DATE: 07/21/2008 11:58:31
 
 
今日は3組のお客様を物件の内見に案内した。
最近はマンションを希望するお客様がほとんどで、一戸建てはあまり人気がないそうだ。
今日もすべてマンションの内見だった。
リフォーム前の物件に案内する時は、少し胸が騒ぐ。見も知らぬ他人の生活の痕跡が残っているからだ。
もう家具はすべて運び出された後にもかかわらず、日に焼けた畳に残るカーペットの痕や壁に残った家具の痕など、住人の残り香のようなものが部屋全体に満ちている。残り香と言ったが、実際にその住人が醸し出していた匂いを嗅ぐことも多い。
他人の生活を覗き見るのは決していい趣味とは言えない。趣味の善し悪しとは別に、気持ちの方はワクワクしてしまう。
それはみんな同じで、お客様も少し高揚している。
何故、他人の部屋を見るのは楽しいのだろうか。
 
店に戻って物件チラシの整理をする。
右上にアルファベットA〜Eの文字が書かれている。その意味は何なのだろうか?
 
→次の夜
 


 

軽い荷物

DATE: 07/22/2008 23:23:38
 
 
大学の女友達T子の誘いでショッピングにでかける。
いつものことながら、最後はただの荷物持ちにされてしまう。が、それも悪くない。
T子は、言動に育ちの良さがそのまま出ていて、全く屈託がない。
荷物を僕に持たせても、そのお礼としてランチをおごってくれても、僕の気持ちの負担には全くならない。それが心地よくて、僕はこうしてたびたび彼女につき合っている。
ただそれ以上に、彼女が僕の性格を面白がってくれていることが何よりも僕の気持ちを楽にしているのかもしれない。
彼女は大声で笑い、怒り、泣き、まるで子供のように感情表現が豊かだ。それがそのまま、好奇心の豊かさにも繋がっている。
一方僕には、悲しみという感情を忌み嫌っているところがある、というのが、心理学科の学生であるT子の分析だ。
その傾向が強いために、他の感情も押し殺す癖ができてしまっている。悲しみの場面に出会うと、それを冷酷さや残酷さで乗り越えようとするというのだ。
僕は、いつだって彼女しか見せない種類の笑顔で、その分析を相手にしない。
それが、時に彼女は不服らしい。
今日も、熱気の中を彼女のワンピースを探して何軒もの店を歩き回った挙げ句、靴とTシャツと何故か姪っ子のためにぬいぐるみを買って、ようやくたどり着いたカフェで一息ついて話したおしゃべりも、まずはその話題からだった。
そんな話題の繰り返しも悪くはない。
彼女が僕より3つ年上で、ちょっとした事情で右足の小指がなくて、興味のある話題からは気が済むまで離れなくても、その屈託のない笑顔を見ていると、すべては大したことに思えなくなってしまう。
 
それにしても、この数日は荷物を持って歩く日が続く。
土曜日の荷物に比べると、今日の荷物は随分と軽い。
そんなことを考えていると、店の裏に置いたままの荷物のことが思い出されて、また憂鬱な気分になる
ネズミに引っかかれた手の甲がこの暑させいか、いくぶん腫れている。
 
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蓋をされた川

DATE: 07/23/2008 23:26:38
 
 
実は、今日僕にはやっておかなくてはならないことがあった。
店の裏に置いたままにしてあるあの荷物を処分しなくてはならないのだ。
できることなら、まだいくぶん明るさが残るうちにやっておきたかった。
昨日から、僕は処分の方法を思いついていた。
今はもう蓋をされた川、あの暗渠に流そう。
僕は店の裏手に回って荷物を確認した。
数日前と同じように、荷物はそこにあった。
持ち上げると、水気が手に伝わってきた。白いポリ袋ごしに、赤紫の液体が見える。
放置していた数日間は、毎日30度を越える猛暑だ。そんな中、放置されていたポリ袋の中身がどのようになっているかは、想像に難くない。
できるだけそのことを考えないようにするものの、歩くたびにポリ袋からいやな水気が伝わってくる。
辺りは次第に夕闇に近づいている。都合のいい時間だ。
暗渠の点検のための蓋が花壇の奥のほうにあり、その鍵が壊れていることを知っている。
僕は辺りに人影がないことを確認すると、花壇に入って蓋の鍵を確認した。
やはり壊れたままだ。
鍵をはずし、重い蓋を持ち上げる。
蓋の下は暗い空間で、その下を誰にも見られることなく水が流れている。
闇の中を進む川。憐れでもあり恐ろしくもあり、僕は以前よくその中を覗き込んでいた。
けれど、今日は目的があった。
その水の中にネズミの死体を流すのだ。
僕はしばらく暗い水の流れをみつめた後、ポリ袋の結び目を解いた。
強烈な腐臭が一気に広がって、思わず吐き気を催したが、何とかそれを堪えた。
ポリ袋の底をつまんで中身を川に流しいれた。
闇の中に流れていくものの姿は確認することはできなかった。
けれど、いつまでたっても強烈な匂いだけは消えなかった。
そのあまりに強烈な匂いはネズミが残した自分の存在の証明のように、僕の意識の中にしっかりと刻み込まれていった。
 
僕はすっかり疲れてしまい、大学の友人からの飲み会の誘いも、結局断ることにした。
けれど、この数日間引っかかっていたことからこれで解放される。
 
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お見舞い

DATE: 07/24/2008 22:41:54
 
 
もう3年近く入院している祖父の見舞いに、電車に乗って病院に行く。
今日は土用の丑の日だ。祖父のお気に入りの店で鰻の白焼きを買って、頼まれていた江戸の地図の本を小脇に抱え、駅からの長い道を歩く。
祖父は、持っていった本がずいぶん気に入った様子だった。
少しめくっては装丁を眺める。
お礼を言ってくれたが、僕のことを父と間違えていた。
最近、時々そういうことが起こる。
そのすぐ後に間違えていたことに気づいて、ひどく恥ずかしそうな表情を見せる。
僕は気づかないふりをして、窓の外に広がる風景を見ていた。
 
その後、好物の白焼きをつつきながら、祖父は昔の話をいろいろ話してくれた。
今の店を起こしたのは祖父で、昔からあの町を見ている。
昔あった家々や店、今はもう見ることのできない川やその川にかかる橋、今はもうない雑木林やその林に住んでいた動物のことなど、思い出すままに話す祖父との時間は居心地がいい。
 
あの町は、すべて坂の下にある。
坂の上で吹いていた風も、坂の下までは吹いてこない。坂の上で進んでいく時間と、坂の下で進んでいく時間は違う流れ方をしている。
僕はぼんやりそんなことを思いながら、祖父の話を聞いていた。
「坂の下には川が流れ、葦が生え、ところどころ水が溜まり…」
祖父はそんな風に話しながら、そこで一息ついて、
「沼があった…」
と続けると、そこで箸を置いた。
それきりしばらく、窓の外を見たまま口をきかなかった。
 
つい長居をしてしまい、気がつくと病院は夕飯の時間になっていた。
看護士に叱られる、と笑いながら残りの白焼きを頬張るのを確認して、僕は病院を出た。
 
あの街に戻り、坂道を上る帰り道、振り返るとあの町はすべて崖のような坂の下にあった。
 
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T子の内見

DATE: 07/25/2008 22:41:13
 
 
午後から父の店に出た。
すると店にT子がいて、父と楽しそうに話している。
妹が一人暮らしを始めたいので物件を探している、という話を父にしたようだ。
T子に妹などいない。彼女はすぐ嘘をつく。
嘘をついて、相手の反応を見るのが好きなのだ。
父は彼女の嘘に気づかず、いろいろ物件を紹介していたようだった。
そのうちのいくつかの物件を内見したいと彼女が言い出したので、当然僕が案内することになった。
それは、最初からT子が目論んでいた通りの展開だ。だから今日の午後は、二人で物件巡りとなった。
彼女は住むつもりなど毛頭ないので、おかしな物件ばかり選んでいた。
共同トイレ共同風呂のアパート、メゾネットタイプの高級マンション、キャバレーの上にある部屋、ビルの屋上に建てられたプレハブの部屋。長いこと借り手の見つからない物件ばかりだった。
そんな物件を、2台の自転車で巡っていった。
今年最高の猛暑の中を走っていると、たちまち汗が流れ落ち、コンビニに駆け込んでは飲み物やアイスクリームを買い、暑さをしのいだ。
二人して馬鹿げた午後を過ごして夕暮れになった。
T子が選んだ最後の物件は、古い一軒家だった。緑色の壁面が長い時間で変色し、その上に蔦がはっていた
玄関に鍵を差し込もうとしたときに、T子が言った。
「あれ? 誰か住んでる…?」
僕は一瞬ドキッとしたが、そんなわけはなかった。
けれど、そう言われてしまうと玄関を開けるのが憚られた。
その言葉に続けて、彼女が歯が痛いと言い出した。
そこで、僕らは何となく自転車にまたがって店に戻ることにした。
帰り道、T子はあまり口をきかなかった。きっと歯痛がひどくなっていたためだろう。
店に着いて自転車を置くと、T子はそのまま帰って行った。
 
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開かない鍵

DATE: 07/26/2008 22:55:15
 
 
昨日の家のことが気になって、頭から離れない。
何故、誰か住んでるとT子は言ったのだろう?
今にも降り出しそうな空の下を歩いて、もう一度あの家に行ってみた。
昨日は夕暮れだったので薄い闇が包んでいたが、3時くらいの光の下では特別に違和感を抱くようなものではなかった。
玄関のドアを開けて確認してみよう、と僕は思っていた。
何故違和感を抱いたのか、その原因を知りたかった。
店から持ってきた家の鍵を、ゆっくりと鍵穴に差し込む。
指先に力を加えて回してみる。
が、回らない。
何度か試してみたが、鍵が回ることはなかった。
父が鍵を変えたのだろうか?
 
昨日内見にT子を案内したところ、鍵が開かなかった、と言って、鍵のことを父に尋ねてみた。
鍵を変えたことはないというのが父の返事だった。
その後、「鍵が古くなっているから、シリンダーが壊れかけているのかもしれない」と続けた。
鍵屋を頼んで見てもらおうという話になったが、いつも使っている鍵屋に電話してみると、今日は土曜日で休みだった。
やりかけた仕事をそのまま先延ばしにするのは、どうにも気持ちが落ち着かない。
そこで、電話帳をめくって、土日でも営業している鍵屋に連絡してみた。
今日すぐにでも来てくれるという話だったが、時間も遅くなったので、明日にしてもらうことにした。
 
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鈴を拾う

DATE: 07/27/2008 22:35:25
 
 
朝から雲が低く垂れ込んで、いつ降り出すかと思っていたら、午後になって雨粒が落ちてきた。
例の家の鍵交換のために頼んだ鍵屋と、家の前で待ち合わせたのがよくなかったのかもしれない。
雨が降ってきたため、途中で少し手間取り家の前に着いたのは、約束の時間を10分ほど過ぎていた。
そこに人影はなかった。
やはり遅れたのがまずかった。家の玄関の庇は短く、雨をよけるには心細い。そんな事情もあって、待てなかったのだろう。
そう思いながらも20分だけ待つことにした。
玄関の扉の前に座って20分間待ってみたが、予想したとおり鍵屋は現れなかった。
腕時計で時間を確かめて、この辺にしようと立ち上がろうとした時、右後ろに子供の黄色い長靴が見えた。
気がつかないうちに子供が後ろに立っていたのかと思って振り返ったが、そこには誰もいなかった。一瞬、確かにいたように思ったが、錯覚だったのだろうか。待っている間、子供の頃のことをぼんやり考えていたためかもしれない。
もう一度立ち上がろうとして腰の脇に手を置いたら、何かが指先に触れた。
拾い上げると、古びた鈴だった。
 
帰り道は夕焼けに包まれていた。
西の空全体が、最初は見たこともないような黄色に染まっていた。時々、その空に閃光が光った。遠くで雷が鳴っていた。
時間が経つと、黄色が次第に赤く変わっていったが、それは穏やかさと言うより不気味さを感じさせる空だった。
そして、その不気味な美しさから目を離せない自分がいた。
指先に持った鈴を時々振りながら、僕は赤く染まった空気の中を歩いた。
 
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鍵屋の電話

DATE: 07/28/2008 23:41:42
 
 
昨夜は一晩中、部屋の外を誰かが歩き回り、熟睡することができなかった。
もちろん、夢にはちがいない。
ただ、その足音と一緒に鈴の音も聞こえてきたことが気になった。
昨日、鈴を拾ったことが、この夢と結びついたのだろうか。
目が覚めて机の上に置いた鈴を見てみると、一本の髪の毛が絡みついていた。
昨日は夕闇だったので気づかなかったのかもしれない。
複雑に絡んでいたので、取り去るのに苦労した。
 
眠い目で店のカウンターに座っていると、鍵屋から電話があった。
改めて明日あの家の鍵を交換に伺いたいと言う。
もちろん、異存があるはずがない。
昨日は、僕が遅れたせいで行き違いになってしまったのだから。
僕がそのことを謝ると、逆に電話の向こうでも謝ってくる。
どういういうことかよくわからないが、どうも鍵屋は自分に非があると考えているらしい。
ただ、女性にしてはくぐもったしゃべり方のため、言っている内容がよくわからない。
そういえば、一昨日電話したときも、うまく話が通じないところがあった。
いずれにしても、明日あの家の鍵の交換にやってくることになった。
 
父は外出して時間もあったので、店先のガラスを曇り一つないように磨き上げる。
ガラスや鏡を磨いていると、次第に自分がなくなっていくような気持ちになる。その状態が一種の快楽だ。
僕は、時々そういう状態に自分を置きたくなるのだ。
 
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鱗粉を吸う

DATE: 07/29/2008 22:50:52
 
 
鍵屋は、約束の時間に現れた。
しかし…。
女性の鍵屋というだけで珍しいのに、それ以上に彼女は独特の風貌をしていた。
僕と同じくらい、あるいは僕以上の長身を、猫背で丸めて歩いている。
肩まである髪の毛は乱れ、その陰から何年も日に当たっていないような肌が見えている。
年齢はよくわからない。30歳代だろうか。
何故か彼女は「すいません、すいません」と言いながら、そのくせ一切僕と目を合わせない。そのまま、早速鍵の交換に取りかかった。
異様ではあるが、鍵さえ交換してくれれば問題はない。
交換を行っている間、彼女が使っている工具箱が開いていたので、何の気なしに眺めていた。
その中に、奇妙なものが見えた。
黒いビロードの布に包まれた白いもの。
何かの骨だろうか?
僕の視線に気づいた彼女は、慌ててその物体を隠すと、初めて僕の顔を見た。
よどんだ目に、怯えと敵意の表情が浮かび、すぐに消えた。
その後は、淡々と作業が続いた。あまり長い時間もかからずに、鍵の交換は終わった。
試しに僕は鍵を鍵穴に入れてみた。今度は鍵が回った。
そのまま扉を開けてみた。
その瞬間、何かが僕の目の前を横切った。
蛾だ。
家の中から大きな蛾が飛びだしてきたのだ。蛾は、そのまま鍵屋の方に飛んでいき、彼女の右肩にとまった。
彼女は悲鳴を挙げて身をよじって振り払おうとした。彼女が首を振るたびに、肩に掛かった髪の毛が蛾に当たったが、それでも蛾は動かなかった。彼女の声は妙に甲高く不愉快な感じが耳底に残った。
仕方なく、僕が手助けして振り払ってやった。
蛾は地面に落ちて、そこでとまった。
それを見た彼女は、驚いたことにその蛾を思い切り踏みつけた。
彼女の靴の下で、何かがはじけるようないやな音がした。
そのまま彼女は僕にお礼を言ったが、髪の毛についた蛾の鱗粉のせいか、何度も咳き込んだ。
靴底についた蛾のことは、あまり気になっていないかのようだった。
興奮しているのかすぐに立ち去ろうとしたので、僕が「支払いは?」と聞くと、右耳をこちらに向けて「え?」と大きな声で聞き返してきた。左の耳が聞こえないようだ。
彼女の動作で、僕も鱗粉を吸い込んだのか、咳き込んでしまった。
咳き込みながら僕がもう一度繰り返すと、「あとで請求書を送ります」と言って立ち去っていった。
 
彼女が立ち去ると、急に空が暗くなってきた。
時々雷鳴が響く。
僕は玄関を入ったが、中まで立ち入るのは憚られた。
誰か住んでいる、という感じは、扉を開ける前よりも強まっていた。
けれど、そんな感覚はくだらないものだ。
くだらない、と考えながら、僕は玄関先に腰を下ろして激しく降り始めた雨を見ていた。
雨は、暗くなってから小雨に変わった。
 
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咳が止まらない

DATE: 07/30/2008 22:42:53
 
 
昨日、鍵屋と別れてから咳が止まらない。
鍵屋の肩に止まった蛾の鱗粉が、喉に絡みついているのだろうか。
しばらく激しく咳き込んで、それで収まるかと思うと、また喉に違和感が生まれて咳き込んでしまう。
蛾の鱗粉だけでなく、何か別のものまで吸い込んでしまったような気がする。
一体、なにを吸い込んでしまったのか?
 
予兆もなく不意に咳が出て止まらないので、今日は店のアルバイトを休むことにする。
父に電話すると、「わかった」という返事ひとつで終わった。
いつものことだ。
けれど、父は僕に興味がないわけではない。
僕とどのように接してよいのかがわからないのだ。
その理由は明白だ。
僕が感情を表に出さないので、うまくコミュニケーションをとることができないのだ。
僕の中にも感情は流れている。
けれど、それが表に出ないだけだ。
僕は時々思う。
表に出ない感情に、何の意味があるのだろうか?
 
薬局に行って咳止めの薬を買う。
しばらくは効いているが、その効果も1時間と保たない。
一日じゅう、そんな状態で、喉だけではなく胸の奥まで痛くなってきてしまった。
 
→次の夜
 


 

あの家の掃除

DATE: 07/31/2008 22:37:23
 
 
昨夜は、夜中に咳き込んで、なかなか寝付けなかった。
咳き込むたびに、耳元で鈴の鳴るような音が聞こえた。
咳き込みすぎて、鼓膜がおかしくなっているのかもしれない。
起きてからも、咳が止まらない。
薬のせいで、頭が朦朧としているが、2日続けて休むのは嫌なので、無理をして店に出た。
けれど、接客は難しい。
そこで、父が物件の掃除を命じてくれた。
しかも、例の一軒家だ。
 
途中でマスクを買って、あの家に向かった。
家に近づくと、空気が淀んでいるのが感じられた。
窪地に建っているためだろうか。風が流れない。
一昨日交換した鍵を差し込むと、今度は抵抗なく回った。
家の中は、外よりも気温が3度くらい高く感じられた。
ブレーカーを上げると、裸電球が点いた。電気は通じているようだ。
心許ない灯りに照らし出された室内には、前に住んでいた住人のものと思われる荷物が、生活していた時のままに散らかっていた。
夜逃げをしたのだろうか?
まるで、ある日突然、何の準備もないままいなくなってしまったかのような状態だ。
脱いだままの衣服、流し台に置かれたままの食器、水を張ったまま風呂場。
僕は、マスクをつけると、住人の荷物を片付けていった。
夜逃げは珍しいことではない。
ただ、生活の痕跡は、他人の皮膚に寄り添うようで、あまり気分のよいものではない。
マスクをしているうえに、空気が淀んでいて息苦しい。雨戸を開けようと思ったが、立て付けが悪くて開くことができない。
空気の入れ換えもできないのか。
ため息をついて、掃除を続けた。
奥へ奥へと掃除を続けていくと、奇妙な扉が現れた。
御札が貼られている。
しかもそれが尋常の量ではない。
まるで、その隙間から何かが染み出てくるのを防ごうとするかのように、びっしりと貼られている。
ドアノブに手をかけてみる。
回したが開かない。
急に咳が出て止まらなくなった。何かを吸い込んでしまったのか。
しばらくその場で咳が止まるのを待ったが、激しくなるばかりで治まる気配がない。
呼吸さえもできなくなりそうで、玄関まで引き返し、表に飛び出した。
真夏の炎天下なのに、外は爽快に感じられた。
しばらく玄関先で咳き込んでいたら、やがて治まってきた。
咳を止めて、青い空を見上げた。
夏の空だ。
また、僕は何かを吸い込んでしまったのだろうか?
 


 
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