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水貴の日記 2008.11


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死んでいる

DATE: 11/01/2008 23:16:50
 
Yは、立ちつくしたまま、僕と宵子を交互に見た。
宵子が何か言おうとするより先に、Yが僕の方を向いて口を開いた。
「さっき、電話したのは僕だったんだよ。水貴くんと宵子の話は全部聞こえていた」
それから、宵子の方を真っ直ぐに見ると、ゆっくりと含めるように言葉を繋いだ。
「鍵屋の男は、もう死んでいるよ」
荒れ狂っていた風が、不意に止まったような気がした。
「お前が呪い殺したいと思っている男は、去年の夏死んでいる。もういないんだ」
「去年…」
「そう、去年だ。殺そうと思っても、もういないんだよ」
宵子は、呆然としているように見えた。
20年近くもそのことだけを思っていた、その相手がもういない。しかも、たった1年前に死んでいたとは…。
宵子の思っていることが、自分のことのように想像できた。
けれど、それは違っていた。
何か、耳鳴りのようなものが聞こえていたが、気のせいかと思っていた。
その耳鳴りが、次第に大きくなってきた。
僕は辺りを窺った。見ると、YもFも周囲を見回している。どうも耳鳴りではないようだ。
誰かが、風のようにこの部屋に向かってきている。それも一人ではない。何人もの人間が、奥の部屋からこの部屋に向かってきているのだ。
しかも、低い声で何かを喋っている。深い悲しみと怨みを抱えた声。その暗い声に気づいたとき、僕は戦慄を覚えた。
やがて、この部屋の中は、やってきた者たちによって満たされた。
もちろん、その者たちは誰一人として生きてはいなかった。
どのくらいの人数がいるのかもわからない。その姿さえも認識できなかった。一つの黒い塊のようなものが、闇の中を満たしているのだ。
その声の中に、僕は懐かしい声を聞いた。
この家で死んだDやT子の声が聞こえていた。
そうだ、これは宵子に殺された亡者の群れだ。
宵子が最も殺したいと思っていた人間がもういない。
そのことを知ったとき、宵子だけではなく、彼らの中にも悲しみと怨みの感情が噴き出してきたにちがいない。
「なんで死んだ…?」
そんな声が僕の耳元に聞こえた。
宵子の声だったようにも思えるし、他の者の声のようにも思えた。
怨みが強く、声は似たように聞こえてくる。
その声は、僕にだけではなくYにも聞こえたようだった。
「去年の夏…」
Yの声は、干からびて聞こえた。
恐怖で喉が締め付けられているのだろう。
「殺された…」
宵子が驚愕の表情を浮かべた。
闇の中の死者たちが、激しく動き、強い風が巻き上がったように感じられた。
「誰が殺した…?」
再び、誰かが言った。
激しい憎悪を感じさせる声だった。
Yはためらった。
「誰が殺した…?」
さらに誰かが言った。
その強い口調には、誰も刃向かえない恐ろしさが宿っていた。
「桐夫という、僕の友人だ」
 
→別の日の夜
 


 

長い悲鳴

DATE: 11/03/2008 23:16:09
 
 
僕は驚いてYを見た。
Yは表情を動かさなかった。
「うう…」
宵子は言葉にならない声を挙げていた。
その声には、ありとあらゆる暗い感情が籠もっていた。
自分が呪い殺そうとした者がもういない…。
それが自然死ならまだしも、自分より先に誰かに殺されているとは。
やり場のない感情が、宵子の中に渦巻いているのがよくわかる。
その感情が、いつ憤りに変わるかわからない。
それを先制するつもりで、Yが声を出した。
「だから…」
固唾を一度飲み込むと言葉を継いだ。
「もうこんなことは終わりにした方がいい…」
宵子の暗い目が一回光った。
「そんなことで、終わりになるわけがないだろう…!」
強い口調だった。その後、少し柔らかい口調で続けた。
「もう一度、その男の名前を教えてくれ」
Yは少し言い澱んだ。
「何という名前だ…?」
「桐夫…」
「その桐夫を殺せば、終わりになるかもしれない。桐夫を呪い殺してやる」
「でも…」
Yはなおも言葉を繋いだ。
「桐夫も、もう死んでいる…」
闇がざわめく気配がした。
「鍵屋も、桐夫も、去年死んでいるんだ…」
Yの声が、部屋の中に一つの塊となって残った。
しばらくは何もなかった。
やがて、聞こえないくらい高い声で悲鳴が聞こえ始め、それが耳をつんざくような声に変わった。
宵子が、真っ直ぐ立ったまま微動だにせず、信じられないくらい長い悲鳴を挙げていた。
僕とYは思わず耳を塞いだ。
鼓膜に突き刺さるその音から身を守ろうとしただけではない。
今までどこでも聞いたことのない底知れぬ悲嘆と強い怨恨、そして渦巻くような憤怒から、自分の心を守ろうとしたのだ。
宵子の悲鳴は、信じられないくらい長く長く響き続けた。
 
→別の日の夜
 


 

何かが垂れる

DATE: 11/05/2008 23:07:31
 
 
宵子の長い悲鳴に、僕たちは為す術もなくただ耳を塞いでいた。その悲鳴の途切れる時をひたすら待ちながら。
不意に、Yが振り返った。
先ほどまで衰弱して足腰も立たないようだったFが、Yの背後に立っていた。
Yは右手を耳に当てたまま、左手を背中に回した。背中に何か違和感を覚えているようだった。
その左手を顔の前に翳した。闇の中で、手についた何かがヌメリと光った。
色はわからなかったが、それが血だということはすぐにわかった。
思わず振り返ると、Fが闇の中で右手を払った。
Yは呻き声を上げた。
その手の中に、カミソリの刃が見えた。
Yの背中が切られたのだ。
僕たちは思わず床にしゃがみこんだ。
宵子の悲鳴がまだ続いていたため、耳を塞いだままの不自由な姿勢でFから逃れなくてはならなかった。
Fは立ってはいるものの、体が衰弱していることに変わりはなかった。
Yを狙っているカミソリは安定せず、無闇に空を切った。
それでも、Fはカミソリを振り続けた。乱暴に振り回されるカミソリは、壁を
叩き、柱を切り、闇の中で狂ったように獲物を探していた。
気がつくと、宵子の悲鳴が止んでいた。
僕たちはFから逃れて後ずさりながら、いつのまにか宵子の足元に近づいていた。
振り仰ぐと、宵子の首が前に倒れ、髪の毛が僕たちの顔に掛かりそうなくらい垂れ下がっていた。
その髪の毛を避けようとした時、何かが顔に滴り落ちた。
髪の毛の間から、何かが垂れて、振り仰いだ僕の顔に降りかかったのだ。
宵子から出ている何かの液だ。
涙なのか、涎なのか…。それが頬に落ちてきた。
液体は頬に落ちると、スッと流れ落ちるようなことはなく、粘り気を持ってへばりついていた。
何が垂れてきているのだ?
よけようとしたところに、また降りかかってきた。今度は鼻のすぐ脇に落ちた。
強烈な腐臭。
僕は思わず咳き込んだ。
宵子から、腐敗した水が垂れてきているのだ。
気がつくと、幾筋も幾筋も髪の毛を伝って垂れてきている。それが、頬だけではなく僕の髪の毛にも滴り落ちていた。
隣のYの顔にも落ちてきているらしく、僕たちは慌てて宵子の足元から逃れた。
けれど、顔に落ちた液の匂いは消えず、手で拭えば一層匂いは拡がった。
耐えきれぬ腐臭に、僕たちは猛烈な吐き気に襲われた。
 
→別の日の夜
 


 

腐敗した体液

DATE: 11/10/2008 21:42:58
 
 
宵子は、腐敗し始めていた。
体の表面は人間の姿を保っているものの、その内側では腐った体液が澱んだ沼と同じ匂いを発していた。
宵子の目も口も鼻も、黒い大きな虚になっていた。
そこから、何かの塊を含んだ腐った体液がぼたぼたと垂れ、畳にシミを作った。
それと同時に、宵子から垂れてきた腐水は、僕とYの顔や体に落ちて、強烈な匂いを発した。
宵子の悲鳴は、耳を塞いだ手の間から鼓膜に達し、耳の奥の粘膜から僕たちの体の中に入り込んでいた。そして、宵子が吐き出した体液は、僕たちの顔や体に付着して、その匂いと共に鼻の粘膜から僕たちの体の中に入り込んできた。
宵子が20年近くに渡って抱えてきた強い感情は、瞬く間に僕たちを侵し、その感情を狂わせた。
まずは、強烈な罪悪感が沸き上がってきた。娘のみすずを見殺しにしてしまった、という罪悪感だ。
その次に、孤独感が訪れた。たった一人でこの家の中で、もう帰ってこないみすずを待ち続ける孤独感。
その後に、悲しみがやってきた。自分を閉じこめた夫との隔離に対する悲しみだ。
そして、それはやがて強い憎しみになり、憎しみは怨みになり、その二つが絡み合いながら、何度も何度も波のように押し寄せた。
次から次へと訪れる暗い感情の渦。
罪悪感、孤独感、悲しみ、憎しみ、怨み…。
それが大きな感情の塊となって、解決のつかない怪物に成長していた。
その怪物は、かつては愛し合った夫を殺し、夫の指示に従って鍵を取り替えた鍵屋を殺そうとさまよい歩いた。
さまよい歩くうちに、触れる者すべてに憎悪と怨念が向けられるようになった。
この家に関係する者に、厄災をもたらすようになったのだ。
僕はそのことをはっきりと理解した。
というより、もはやその感情は僕の感情そのものだった。
僕の体から心の中へ、宵子の感情が入り込み、自分の感情が暗い濁流へと変わっていくのがわかった。
夫への憎しみ、鍵屋への憎しみ、この家に住んで自分の領域に踏み込んでくるすべての者への憎しみ。
やがて、そういう者たちが自分と同じように苦しめばいい、と考えるようになってきた。
自分と同じように苦しんで、その末に死んでしまえばいいのに、と思うようになってきた。
これは僕の感情ではない。
僕は自分で自分に言い聞かせた。
けれど、その感情を制御することはできなかった。
 
自分と同じように苦しんで、その末に死んでしまえばいいのに…。
 
→次の夜
 


 

き…り…お…

DATE: 11/11/2008 23:00:31
 
 
自分と同じように苦しんで、その末に死んでしまえばいいのに…。
 
僕の意志とは関係なく、やり場のない憎しみ、怒りの感情が生まれ、その感情のはけ口を求めて、壁を何度も叩いたりした。その後に、不意に悲しみの感情が沸き起こり、涙が溢れた。
惑わされるな、と自分で自分に言い聞かせた。
けれど、心は悲しみや憎悪に支配され、そこから逃れることができなくなっていた。
暗い感情が自分を支配して、どんな方法を使ってもその重い霧を晴らすことができなかった。
 
自分と同じように苦しんで、その末に死んでしまえばいいのに…。
 
Fが、瀕死の状態にもかかわらず、僕たちに向かってカミソリを振り回す理由がよくわかった。
それより他に、この重い霧の出口が見えないのだ。
自分のものでありながら、自分で制御できない感情。
とめどなく沸き上がってくる悲しみや憎悪や怨みは、枯渇することがないように思われた。
 
「き…り…お……」
僕の隣で、Yが震える声で呟いた。
その声に、思わず戦慄が走った。
その声には、かつての親友に対する愛情はなかった。深い憎しみの感情だけが剥き出しになっていた。
けれど、僕が戦慄したのはそのことでなかった。
Yは、その声を出しながら、同時に嗚咽していたのだ。
桐夫という親友に対する憎悪など、Yの中には存在しなかった。にもかかわらず、宵子の感情に支配されることによって、彼の中に激しい憎しみが芽生えている。
Yはそのことをすべて理解しながら、その感情を制御することができない激しいジレンマに、もはや涙を流すしか術はなかったのだ。
「こ…ろ…す……」
Yは、とめどなく涙を流しながらそう言った。
怪物のように成長した感情に、Yは支配されていた。
一方に明晰な理性がある分だけ、一層残酷に見えた。
いっそのこと理性までも支配されていれば、まだ救いはあっただろう。
Yは身悶えながら、全く本心にないことを荒い息で口走り続けた。
「き…り…お……。こ…ろ…す……」
さらに、女鍵屋の名前も口走った。
鍵屋が殺されてしまったため、20年近く抱いていた宵子の怨恨の解決は、もはやその関係者に及ぶしかなかった。
 
→次の夜
 


 

懐かしいあの匂い

DATE: 11/12/2008 22:40:08
 
 
Yは、僕よりも強く宵子の感情に支配されているようだった。
その苦悶の表情を見るうちに、僕は怪物のように育った感情をわずかながら制御できることに気がついた。
感情に溺れている他人の表情は、それを見る者に冷静さを与える。
Yの顔つきは、逆に僕に冷静さを与えてくれた。
あるいは、感情に蓋をしていた習慣が、宵子の完全な支配から免れる役割を果たしていたのかもしれない。
一方、Yの中の感情は強さを増しているようだった。
「こ…ろ…す…!」
語気が強さを増していた。
もしかしたら、と僕は思った。
Yが涙を流している自分自身の姿を見たら、理性が一瞬、感情を制御するかもしれない。
僕は、部屋の中に目を走らせた。
闇に目が慣れ始めていた。
宵子が立っている背後の壁に、時計が見えた。3時50分。もう夜明けが近づいていた。
時計の隣に、何か光るものがあった。小さい鏡がかかっていた。
宵子はもはや身動き一つしていなかった。その体からは、澱んだ液体が流れ出していた。
いくら動かなくなっているとはいえ、その鏡を取ることは勇気が必要だった。
いつ、宵子が顔を上げ、僕に襲いかかってくるかもしれない。
けれど、逡巡している時間はなかった。
Yの口調は強さを増していたし、僕の蓋をした感情が、いつ暴れ出すとも限らなかった。
僕はゆっくりと宵子に近づいた。
踏み出すごとに、足が畳の中に沈み込んでいく。
宵子の体液を含んだ畳が、体重をかけるたびに、ずぶずぶと沈んでいくのだ。
宵子に近づくと、僕の中に彼女の感情が再び強く浮上してくるのがわかった。
 
自分と同じように苦しんで、その末に死んでしまえばいいのに…。
 
その感情が強くなると、鏡を取ろうという意欲は消え失せた。
反対に、宵子に対する恐怖が薄れ、むしろ非常に強い同情心が生まれた。
同情は危険だった。同情すると、彼女の感情が鋭く自分の心に入ってくるからだ。
恐怖と同情、理性と感情が、交互に繰り返す合間を縫って、僕は鏡に近づいた。
鏡を外すには、宵子に正面から向き合って、その肩越しに腕を伸ばさなければならなかった。
自然と、僕の顔は宵子の顔のすぐ脇に近づいた。
宵子からは、腐った体液の強烈な匂いが漂っていた。
僕は息を止めて鏡に手を伸ばした。けれど、それは思ったようには外れなかった。
鏡の裏の紐が、壁のフックに絡んでいるのだろうか。
何度か持ち上げたが、紐は外れない。
僕は次第に、止めた息が苦しくなってきた。
その時、宵子が僕に向かって傾いてきた。
そして、まるで恋人に寄りかかる女性のように、僕の肩に首をもたせかけた。
宵子の冷たい感触が、僕の首筋に伝わってきた。
僕の背筋に恐怖が走った。
その恐怖に、思わず息を呑んでしまった。
ところが、
予想に反して、激しい腐臭はしなかった。
むしろ、逆だった。
非常に懐かしいある匂いを嗅いだのだ。
柔らかく心地よいある匂い…。
それは、T子の髪の毛の匂いだ。
僕が目を走らせると、僕の肩に首をもたせかけているのはT子だった。
すべてが反転するような感覚に襲われた。
今までのことがすべて嘘で、この夏は何事もなく、T子は生きていて、僕たちはいつものように馬鹿話をしては笑い合っている。
いつまでも、この平和で他愛もない日常が続いていくような感覚。
暗い感情がすべて消えて、僕は果てしない幸福感に満たされた。
 
→次の夜
 


 

幸福感

DATE: 11/13/2008 23:06:04
 
 
「Yを殺して…」
僕の耳元で、T子が囁いた。
それをやったら、すべてが元に戻るような気がした。この夏より前の、僕たちのあの生活に。
「Yを殺して…」
T子がもう一度囁いた。
懐かしいあの声だ。
僕は、あまりの幸福感に涙が出そうになった。
けれど、僕はすべてを知っていた。これはすべてまやかしだと。
でも、まやかしで何が悪いだろうか。
あの暗い感情から解放されて、T子が喜ぶ表情を見せてくれるのなら、そちらを選んだ方がどれほどいいだろう。
僕は、ゆっくりと呼吸をして、T子の髪の毛の匂いを三回吸い込んだ。
そのまま息を止めて目を閉じた。
 
→次の夜
 


 

三回だけ

DATE: 11/14/2008 23:09:50
 
 
三回だけ。
僕は心の中で呟いた。
三回吸い込んだらそれで終わりにしよう。
この心地よい幻想が良い悪い、という問題ではない。僕は現実に生きているし、ここより他に場所がない、というだけのことだ。
三回ゆっくり息を吸い込んだ後、僕は目を開けた。
T子の首の感触が肩の上にあったが、それを無視したまま、僕は右手でもう一度鏡を持ち上げた。
今度は外れた。
僕の肩に乗っている気配が変わり、耳元に気味の悪い声が聞こえた。
体を離して目を開けると、目の前に不自然に首を傾げた宵子が立っていた。
もはや、そこにT子の姿はなかった。
宵子は、目と鼻と口の位置が黒い穴となって、そこから体液を垂らしながら、僕に向かって腕を伸ばしてきた。
緩慢な動きをする宵子を避けながら、僕は振り返り、そのままの姿勢でYに鏡を見せた。
僕は振り返り、Yに鏡を見せた。
Yはその鏡の中に映る自分の姿をしばらく眺めていた。
涙を流す顔が、様々な表情に歪んだ。
次の瞬間、Yはその鏡を手で払いのけた。
壁に当たった鏡が鋭い音を立てて割れた。
その後のYの行動は素早かった。
彼はしゃがみ込むと、割れた鏡の破片を拾い上げた。
右手で持つと、それを自分の手首に当てて引いた。
刃物ほどは鋭くないが、鏡の破片は彼の皮膚を切り裂くには十分だった。
見る見る血がにじみ出してきた。
彼のその行動は、宵子のもう一つの結論だった。
鍵屋を殺した桐夫は死んでしまった。そうなったときに、宵子がその怒りの矛先を向けるのは、桐夫の親友だったY自身だったのだ。
しかも、その結論はYの考え方とも一致していた。
もうこの世にいないとはいえ、桐夫のことを憎悪するくらいなら、自分自身を傷つけた方がいい。
その二つの感情がひとつになり、Yは自分を殺そうとしていたのだ。
もはや、宵子の感情だけではなかった。Yの感情も加わって、より強いものになっていた。
それが僕の中に入ってきたとき、僕はその感情の強さに押し潰されそうになった。
もうその感情に逆らうことはできない。
次に支配されるのは、僕だった。
 
→別の次の夜
 


 

どこかで見ている

DATE: 11/16/2008 21:11:53
 
 
その時、この差し迫った事態のどこかに、出口があることに気がついた。
どこかに出口がある…。
なぜ、そう確信するのか?
何かに僕は気づいているはずだった。どこか手を伸ばせば掴めるものがあるはずだ。
そう考えている間も、僕の感情が急激に支配されていくのがわかった。
それは、押し寄せる波のようだった。
悲しみや憎しみや怨みや怒りが、何度も何度も僕に押し寄せてきて、僕は自分を保っていることが次第に難しくなってきた。
感情の強い波は、押し寄せてくるたびに大きくなっていた。
僕は、自分の感情が侵されていくのを感じた。
自分で気づかないうちに涙が流れ出て、激しい憎しみの感情に歯ぎしりした。
けれど、僕は必死で考えていた。
一体、何を見たんだ?
僕は何かを見たはずだった。
ここから逃れるための何かを見たんだ。
それは何だ?
恐ろしく濁った感情が押し寄せ、僕は止めどなく涙が溢れてきた。
焦ると理性の働きが鈍る。時間はないが、きちんと思い出すんだ。
きっとこの脳のどこかに、その記憶があるはずだ。
けれど、あと何度、この感情の波にさらわれずにいられるだろうか?
もう、自分で立っている自信はなかった。
あと、一度か二度…。
一度か二度の波で、僕は完全に宵子にさらわれてしまうことだろう。
そして波が来た。
 
→別の次の夜
 


 

明けの4時

DATE: 11/19/2008 21:38:35
 
 
その波に飲み込まれそうになる直前に、僕は気がついた。
鏡を取ろうとした時に目に入った壁の時計。
それは、4時を指していた。
もちろん、夕方の4時ではない。明け方の4時だ。
それを見たとき、祖父の話を思い出した。
宵子のこの荒れ狂う感情を、一瞬でも止めることができるとすれば、それは祖父の話していたあのことを聞かせる方法でしかないのかもしれない。
壁の時計が、4時を指していたのも偶然ではない。
夕方の4時が宵子の時間だとすれば、明け方の4時は…。
もう、考えているような時間はなかった。
僕の感情は、もはやそのほとんどを宵子に侵されて、激しく荒れ狂っていた。
その感情にとって、祖父の話など邪魔なものでしかない。
僕が掴みかけていた微かな希望は、たちまち感情の波の間に飲まれてしまうようなものだ。
僕には、少しの時間も残されてはいなかった。
最後の一言。
それが声になるかどうか自信はなかった。
が、僕は息を吸い込んで声を出した。
 
→別の日の夜
 


 

暁子

DATE: 11/20/2008 22:34:25
 
 
「暁子…」
 
→次の夜
 


 

もう一度

DATE: 11/21/2008 23:40:42
 
 
それはかすれた微かな声だった。
けれど、少し僕を支配していた感情の色が変わったような気がした。
僕は、もう一度息を吸い込んだ。
今度は、最初よりはっきりと声が出て、その声が宵子の耳に届くのがわかった。
「暁子」
 
→別の日の夜
 


 

崩落する

DATE: 11/24/2008 23:15:11
 
 
僕の発したその言葉で、宵子の怒濤のような感情の波は止まった。
「暁子」
僕はさらに呼びかけた。
声が前に出始めていた。
波が引く。
僕は、自分を取り戻し始めていることがわかった。
けれど、それは僕だけではなかった。
気がつくと、僕の隣でYも自分を傷つけるのを止めていた。
彼の右手には鏡の破片が握られ、左の手首からは血が幾筋も流れ出していた。
その時、Yが思いがけない行動に出た。
右手に持っていた鏡の血を自分の服の裾で拭い始めた。血が拭い去られた後、さらに磨かれた鏡は輝きを取り戻し、美しく反射した。
その鏡を手に、Yは立ちつくしている宵子の前に歩み寄った。その後を、僕も続いた。
もはや、宵子から恐ろしい感情の波動は感じられなかった。
宵子の前までたどり着くと、Yはゆっくりと鏡の破片をかざした。
もはや眼孔だけになってしまったただの二つの穴に向かって鏡をかざしたところで、果たしてそれを見られるのかどうかもわからない。
Yが脇に立つ僕の顔を振り向いた。
促されるままに、僕はもう一度呼びかけた。
「暁子」
さらに、Yが僕を促した。
「暁子」
「暁子」
「暁子」
「暁子」
 
僕は、ただの不気味な立像のような宵子に呼びかけた。
呼びかけるうちに、僕の意識が変わり始めた。
最初はただの音のつながりだった「暁子」という名前が、次第に意味を帯びてきたのだ。
目の前に立っているこの不気味な存在は、最初のうちはまだ呼び慣れた「宵子」であった。
けれど、「暁子」と何度も呼びかけるうちに、それは次第に「暁子」の色を帯び、やがて、それは「暁子」でなくてはならなくなってきた。
「暁子」
「暁子」
「暁子」
「暁子」
 
Yが鏡をかざす脇で、僕は呼びかけ続けた。
Yもいつしかその声に自分の声を合わせていた。
その声が強くなるに従って、かつて宵子と呼ばれていた彼女が、ゆっくりと崩れ始めた。
顔に開いた四つの暗い洞の周囲が崩れ、顔全体が大きな穴になった頃、いきなり膝が折れて体が沈み込んだ。
その衝撃で、体を形作っていた様々な部位が次々と折れた。
足首、腰、背骨、肘、そして首…。
何故か、僕は崩れていく彼女を抱き留めようと腕を伸ばしていた。
けれど、伸ばした腕の中で、彼女はたちまち崩れ落ち、僕の手の中には濡れた彼女の寝間着だけが残った。
僕は、その寝間着を握りしめたまま、Yを振り返った。
Yは呆然としたまま、先ほどまで彼女が立っていた場所をみつめていた。
Yが目の前にかざした鏡が目に入った。
すると、そこに一瞬影が映った。
その影は、小さい女の子だった。
女の子が泣きながら、鏡の奥へと吸い込まれていく姿。
僕は、その姿を見えなくなるまで凝視し続けた。
 
→別の日の夜
 


 

彼女のノート

DATE: 11/27/2008 22:57:21
 
 
そんな風にして彼女は消えていった。
僕の手には、濡れた寝間着が残された。
家の中は荒廃し、この長い夜の凄まじさを思い起こさせた。
空が白み始める頃、僕らは病院にいた。
Fの傷は深かったが、命に別状はなかった。
Yの傷はたいしたことはなかった。
そして、僕は日常を取り戻した。
 
彼女が昇華しきれずにこの世に残していた感情は暗く重いものばかりだった。そのために、払い除けることが難しいものだったのだ。
それらの感情は幾重にも重なり、懸命に一枚剥がしてみても、すぐその下にさらに湿った感情が現れる。
そのようにして感情の層を丹念に剥がしていった末に現れたものは、祖父が僕に語ってくれたあの話に深くかかわるものだった。
 
いま、僕は、寝室に置かれたノートを開いている。
それは沼の湿気で湿り、ページは貼り付き、ところどころが読めなくなっていた。
けれど、僕はそこで初めて、本当の彼女に出会った。
 
→次の夜
 


 

取り替えっこ

DATE: 11/28/2008 22:28:12
 
 
ノートには、次のような文章が、力弱い文字で綴られていた。
 
わたしの名前は、暁子と言います。
明け方に生まれたので、暁子と言うそうです。
わたしが生まれてから12時間後に、双子の妹が生まれました。
夕方に生まれたので、宵子と名づけられたそうです。
わたしたちは時々、取り替えっこをして遊ぶような仲の良い姉妹でした。
わたしが宵子に、宵子がわたしになるのです。
けれど、ある雨の降る下校時に、わたしの代わりに忘れ物を取りに戻った宵子は事故に遭い、死んでしまいました。
小学生だったわたしは、その時ある決心をしました。
宵子と入れ替わろう。
宵子と入れ替わることで、宵子をこの世に生き延びさせよう。
わたしのこの決心は、驚くほどうまくいきました。
誰もがわたしを宵子だと思い、疑う人は誰もいませんでした。
その日から、わたしは宵子になりました。
最初は、どうということはありませんでした。
わたしがそのことを、胸の裡に秘めていればいいだけの話です。
けれど、次第に不思議な意識が芽生えてきました。
「ここに、みんなが宵子と呼ぶ女の子がいる。とすれば、暁子という女の子はどこに行ったのだろう?」
この疑問はいつまでたっても解決がつかず、次第に自分が二つに分裂するような兆しが生まれてきました。
幼いわたしにも、それが危険なことだとはわかりました。
思い悩む夜が続いた後、わたしはこの分裂を食い止める方法を見つけました。
「宵子」がここにいるのなら、「暁子」は幽霊としてこの世に存在させよう。
それがわたしの解決方法だったのです。
いつでも、わたしの近くには幽霊の暁子が存在していました。
幽霊が近くにいることが、わたしが生きていられる保証になっていたのです。
 
→次の夜
 


 

誰かわたしの名前を呼んで

DATE: 11/29/2008 22:25:38
 
 
けれど、それはただのごまかしに過ぎませんでした。
生きている間であれば、わたしが自分の口で暁子だと白状することもできたでしょう。
うまくすれば、そのことを信じてくれる人も現れたかもしれません。
ただ、死んでしまったら、もう取り返しがつきません。
わたしが死んでその墓石に「宵子」と書かれた瞬間、わたしはもう「宵子」以外にはなれなくなってしまうのです。
そのことに気づいたのは、つい数日前のことです。
けれど、わたしは衰弱し、もう起きあがる力も残ってはいません。
息をすることさえ辛くなっています。
何とかして、わたしは真実を伝えたい。
このまま死んだら、もうわたしは永遠に宵子なのだ。
誰がこの恐怖をわかってくれるでしょうか?
怖くて怖くて、布団の中で動かない体で身もだえしています。
わたしは、自分の命がもう長くないことを知っています。
わたしは、このような絶望の淵で息を引き取るしかないのでしょうか。
わたしはわたしになることができず
幽霊として
宙に浮いたまま
 
永遠に
 
えいえん
 

 
だれか、
わたしの名前を呼んで。
誰か一人でも、
わたしの本当の名前を呼んでくれたなら、
わたしは宙に浮いた自分を取り戻すことが
できるはずです。
だれか、
わたしの名前を呼んで。
だれか、
 
→次の夜
 


 

夜明け

DATE: 11/30/2008 22:45:00
 
 
そして、その先は、あの手紙に続いていた。
僕らがあの家に住むようになってから、ポストに届くようになった「宵子様」と書かれた手紙。
何故、その宛名が「宵子」になっていたのか、その時ようやく理解することができた。
それは、宵子が本当の宵子に宛てた手紙だったからだ。
 
ごめんね、宵子ちゃん。
死んでから、わたしは宵子ちゃんに「宵子」という本当の名前を返せばいいと思っていました。
でも、わたしが「宵子」として死んだ以上、もうあなたは暁子のまま、わたしは宵子のままです。
いつまで経っても取り替えっこができません。
わたしが誰にも言わずに死んでしまった以上は…。
 
ごめんね、宵子ちゃん。
 
だから、
今からでも
誰か
わたしの名前を呼んで。
だれか、
わたしの名前を呼んで。
名前を
呼んで。
だれか、
わたしたちの
なまえを
よんで
 




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