三夜子の日記 2009.09
目の下のほくろ
DATE: 09/01/2009 23:46:41
昨夜、鍵を替えたばかりなのに、明け方に祖母の書き込みがありました。しかも、とても嫌な内容の書き込みでした。
鍵を替えたのに、どこから入って来たのだろうといろいろ調べてみたら、脱衣場の窓の鍵が開いていました。広い家なので、なかなかすべての鍵を閉めることができません。
朝から、本当に憂鬱な気分です。
しかも、今日は診察日です。いったい、どんなことを聞いてやろうかしら、と思いながら病院に向かいました。
あの人は、先週と同じで、土曜日のことを一切口にしませんでした。今度は確かに約束をしたはずです。なのにしらばっくれているのか、それともすっかり忘れているかの、どちらかです。
わざとゆっくりした口調で、土曜日のことを聞いてみました。結婚式の準備で式場へ打ち合わせに行っていたと、先週と同じようにあの人は答えました。その後は、婚約者が結婚式の内容にこだわるので、なかなか決められない、とぼやく始末です。
まったくあの人の無神経さには腹が立ちます。以前なら、そういう無頓着なところもかえって好ましかったのですが、今では許すことができないことに感じられてしまいます。右目の下の小さなほくろも、以前は優しい気質を表しているように思えたのですが、今日は優柔不断な性格を表しているように感じ取れてしまいます。
さらに、あの人は、明日婚約者が美容院に行くのだと、嬉しそうに続けました。
そこで、私も明日一緒に美容院に行くことに決めました。その美容院は、私の行きつけで、そもそも婚約者がそこに行くようになったのも、私の紹介だったからです。
あの人は笑いながら、予約時間が合えばそれもいいんじゃないかと言いました。
帰りに、般若の面の風呂敷に包んだサンドウィッチを渡して、診察室を出ました。その風呂敷は、土曜日に能楽堂で買ってきたものです。
明日の美容院の予約は、婚約者より少し早い時間で取れました。
夜になりました。
「鉄輪」を観てから、誰かが一緒にいてくれるような安心感があったのに、祖母の書き込みを読んだら、また不安な夜に逆戻りです。心細くてお面をかぶってみたら、頭痛と吐き気を催して、たちまち外してしまいました。
→次の夜
行きつけの美容院
DATE: 09/02/2009 23:19:25
J子さんが来たので鍵を渡して留守番を頼み、美容院にでかけました。
その美容院は、祖母の代から続いていて、私はここ以外で髪を触らせたことはありません。
そんなに大きくないのですが、腕がいいので贔屓にしている人が多く、テレビで見かけるような人も通っているようです。
私は最も古くからの客の一人なので、行くたびに特別に丁寧に髪を整えてもらいます。あの人の婚約者にも紹介し、彼女はすっかりこの店が気に入ったようです。
私は彼女がやってくる二時間前くらいに店に入り、古くから馴染みの美容師に髪を整えてもらって彼女を待ちました。
自分の結婚式の準備のために、二回も私との約束を破るなんて、少し懲らしめてあげた方がいいはずです。それに、これはちょっとした冗談です。
時間ちょうどに彼女は現れ、私の隣に座りました。私は、もうほとんど終わっていたのですが、彼女と他愛ない話を交わしながら、いつになったら約束を破ったことを謝るのだろうと考えていました。けれど、彼女の口から一切そんな話は出ませんでした。
そんなおしゃべりをしながら、彼女の髪は美容師に切られていきます。その長さは、彼女の希望した髪型よりもはるかに短いものです。
なぜなら、彼女の婚約者からその髪型にしてほしいという伝言を聞いている、と私が美容師に伝えていたからです。
彼女が、結婚式の白無垢について、結婚式の三三九度について、披露宴の会場について、料理について、食器について、音楽について、キャンドルサービスについて、おしゃべりに夢中になっている間に、彼女の髪の毛は手入れの行き届いた鋏によって、ざくり、ざくりと切られていきます。彼女は目が悪いので鏡を確認できません。私は、夢中になってしゃべる彼女の口に意識を集中しながら、髪の毛に視線が行かないように気をつけました。
本当にかわいい子です。
私は適当な時間で席を立ちました。
帰りしな、床に散った彼女のつややかな髪の毛を惜しいような気がして、切られた彼女の髪の毛を一房拾い上げてポケットに入れました。美容師は驚いたような顔をしましたが、何も言いませんでした。
家に帰って、J子さんとお茶を飲んでいると、家の電話が何度か繰り返し鳴りました。きっと、あの人が婚約者の悲嘆の声を聞いてかけてきているのでしょう。私はJ子さんに出なくていいわよ、と言って、縁側に出した籐の椅子でおいしいケーキを食べ続けました。
涼しい風が吹いてきました。
もうすっかり秋の風情です。
→次の夜
あの女
DATE: 09/03/2009 23:46:24
昨夜、また祖母が家に入り込んだようです。明け方に、謎めいた書き込みがありました。
今度はどこから忍び込んだのでしょうか。かけ忘れたところはどこなのか、家じゅうの窓や戸を調べて回りましたが、どうにもみつかりません。
今日も何度か電話が鳴りました。私に電話してくる人は限られていますから、それはきっとあの人か婚約者に違いありません。
鳴り続ける電話の音を聞きながら、涼しい縁側で庭を眺めていました。何本もの緑の茎が、真っ直ぐに地面から伸びていました。
夕方になって、呼び鈴が鳴ったので玄関に出てみると、あの人が立っていました。明らかに、いつものあの人とは様子が違っていました。私が上がるように勧めても、ここで、と言ったきり動こうとしません。
あの人は、怒ったような、困ったような複雑な口調で、婚約者の髪の毛を短く切らせたことを咎めてきました。きっと、彼女があの人をけしかけて、間接的に私に文句を言おうとしているに違いありません。なんて、面倒くさい女なのでしょう。あの人も困惑しているはずです。
あの人が私を咎める言葉を聞きながら、あの人のことが哀れに思えて仕方ありませんでした。
髪の毛を少し短くされても、彼女は十分可愛いのだし、普通ならただの軽い冗談くらいで受け流せる範囲です。約束を二度も破られた私に比べたら、怒るようなことではありません。この程度のことで、仲良さそうに腕を絡ませてきた親密な感情が崩れてしまうとは、彼女は所詮、上っ面だけの人間だったのです。
むしろ、あの人をわざわざ私の家まで出向かせて文句を言わせることが、憎らしくてなりません。
あの人はひと通り喋ると、任務を終えたかのような顔になって帰っていきました。帰りしなに見せた顔は、普段の顔と変わりありませんでした。
夜、また大量の食事を作ってしまいました。
廊下を走るような足音がたびたび聞こえ、出てみると誰もいないのですが、足の跡だけは残っています。気味が悪くてたまりません。
あのお面を取り出して、もう一度つけてみました。
最初は、激しい吐き気と頭痛がありましたが、つけているうちに恐怖もなくなり、別の感情が芽生えてきました。
夕方、あの人の話を聞いている最中はそれほど大きくなかった憎しみの感情が、お面をつけているとどんどん大きく膨らんでくるのです。あまりに大きくなってしまうので、途中で思わず外してしまいました。
お面を外して、しばらく激しく肩で息をしていました。
→次の日
秋の施餓鬼
DATE: 09/04/2009 23:35:09
今日は、体調がすぐれないからと言ってJ子さんはお休みです。今まで、そんなことは一度もなかった上に、電話の声があまりにかぼそかったので、とても心配になりました。
祖父の遺品整理を始めると、今度は五徳の箱に行き着きました。やはり、祖父は五徳のことも調べていたようです。その箱の中には、面白い資料がいくつもありました。中でも、「橋姫」というお話はとても興味深いものでした。「橋姫」は、この間観た能舞台の「鉄輪」と同じ話です。
五徳にろうそくを差して、丑三つ時に呪いをかけるという儀式。つまり、丑の刻参りの原型が「橋姫」であり「鉄輪」なのです。
「鉄輪」に使われていた能面は、前半は泥眼ですが、後半は橋姫という面に変わります。妬みや怨みが強くなった時、橋姫に変わるのです。
うちの家紋である五徳は、なんと恐ろしい儀式に使われていたのでしょう。でも、そのことは私を怖がらせるよりも、むしろ、何だか誇らしいような気分にさせてくれました。
夜になって、あの泥眼のお面を取り出して顔につけました。何だか、私の顔に合わせたようにしっくりと馴染みます。
あの人の婚約者に対する憎しみが、どんどん大きくなっていくのですが、今日はそれも爽快な気分です。
そんな風にしてしばらく能面の部屋に座っていると、誰かがすぐ隣に座ってきました。横を見ると、餓鬼が座っています。
けれど、その気味の悪い姿に、不思議と恐ろしいという感情が浮かびません。何というのでしょう、この感情は。むしろ、愛おしいという表現の方が近いような気がします。
そんなことを考えているうちに、背中の後ろに騒がしいような気配を感じて振り返ると、そこには十人くらいの餓鬼が彷徨いていました。
ようやく、私は多くの料理を作っている理由がわかりました。
私は、日々、施餓鬼をしていたのです。
→次の夜
あの女の仕業
DATE: 09/05/2009 23:35:43
また、明け方に祖母の書き込みがありました。惨めな内容に腹が立って、すぐに削除しました。
けれど、あんなに家じゅうの鍵を確認したのに、どこから入ってきたのでしょうか。
夕方になって、買い物に出かけようと思い、もう一度家じゅうの鍵が閉まっているかどうかを確かめました。昨日と同じように全部閉まっています。
その時、ふと頭に思いつくことがあって、予備の鍵を入れていた引き出しを開けてみました。そこに入れておいたはずの鍵は入っていませんでした。もしや、という勘が的中してしまいました。
J子さんの仕業です。
J子さんが、引き出しの鍵を祖母に渡したのです。
以前から、J子さんは私のことを少し馬鹿にしているようなきらいがありました。祖母に鍵を渡して、私をからかってやろうとしていたのかもしれません。
そういえば、急に体調を崩したなんていうのも信用できません。今まで、一度としてそんなことはなかったからです。
あんなに信用していたJ子さんにまで裏切られるとは、いよいよ私も独りぼっちです。
夜になって家の広さが私の孤独感を強めると、あのお面を無性につけたくてたまらなくなります。それは、もはや日々の儀式になっていると言ってもいいかもしれません。
お面をつけると、J子さんをどうやって懲らしめてやろうか、という別の気持ちに変わります。
独りぼっちだと思っていたのに、急に家の中が親しい人でいっぱいになっているように感じます。
もう、お面を外すのが惜しくてたまりません。
→次の夜
川ざらい
DATE: 09/06/2009 23:00:27
今日は川ざらいの日です。
一年に一度、川を堰き止めて掃除をします。
川の通っている家々の男の人が総出で行いますが、うちはもう何年も前から参加を免れています。老人と女しかいない家は、参加しなくてもよい決まりになっているからです。
けれど、その日は誰かが必ず家にいなくてはなりません。その家の前の川から上がったものは、まずはその家の者に確認することになっているからです。
私は、小さい頃からこの川ざらいの日を、楽しみなような怖いような、そんな二つの感情が混じり合った奇妙な気持ちでわくわくしながら待っていました。その気持ちは、今もあまり変わりません。
水が堰き止められて少なくなってくると、男たちは長靴を履いて川底に入り、スコップで泥を掬い上げます。掬い上げられた泥は道路側に盛られ、今度は道路にいる者がそれを長靴の先で広げます。すると、泥の中から様々なものが現れます。当然ながら、当然ながらほとんどは空き缶や何かの壊れた部品などのがらくたばかりです。そんなものは、拾い上げられてゴミ袋に入れられます。
けれど、時々捨てていいものかどうかの判断に迷うものが出てくることがあります。
そんなものは、玄関先に並べられて家人に確かめてもらうことになっています。
その時間は、まるで宝箱を開ける瞬間のようです。期待を込めて玄関に出てみると、立派な食器や硬貨が並んでいることもあります。一方、誰かの遊んでいた日本人形や子供の靴、動物の骨などが並んでいることもあります。
一番怖かったのは、人間の下顎が並んでいたときです。よく見ると、それは誰かの入れ歯でしたが、その時は、本当に恐ろしくなって何日も夢に出たほどでした。
そんな川ざらいの日なので、今日は終わるまで家にいなくてはなりません。ある程度の顔見知りだとは言え、男の人が汗をかいて家の前で力仕事をしていると思うと、玄関の鍵をしっかり掛けておかないと心細くて仕方ありません。
一時半くらいに、うちの前の川ざらいは終わりました。今日は暑かったので、男の人たちはTシャツ姿で汗をかいていました。その姿をできるだけ見ないようにして、川底から上がったものを確かめました。
目を走らせて、今年も全部捨ててください、と言おうとしたとき、なにか気にかかるおかしな形のものに目がいきました。丸い形をした黒いものに三つの突起がついています。しゃがみ込んでよく見てもわかりません。念のために、指先でつまみ上げてみました。その時、それが何かを理解しました。
五徳です。
川の底に、五徳があったのです。
→次の日
長い長い掃除
DATE: 09/07/2009 11:28:20
また、今日も明け方に書き込みがありました。その内容は、読むとたちまち憂鬱な気分になってしまいます。慌てて消しましたが、その気分だけはいつまでたっても晴れません。
祖母が家に忍び込んでいることは、もはやどうしようもないのかもしれません。もう一度、鍵を付け替えようとも思ったのですが、J子さんがまた祖母に鍵を渡すようなことになれば、同じことの繰り返しです。
むしろ、J子さんをどうにかしないといけません。
J子さんに電話をしてみたのですが、何回かけても繋がりません。きっと、私に気づかれたことを察知したにちがいありません。
あんなに信頼していた人がこんなに簡単に裏切るなんて、本当に人間というものは信用なりません。その点で言えば、死者の方がよほど信用できます。怨みを持った者は、ずっと怨みを持ったままです。
そんなことを考えながら、今日は一日かけて、丹念に掃除機をかけました。普段はかけないような隅の隅まで念入りにごみを吸い取りました。三時間くらいかけ続けたので、体の節々がギシギシと痛くなってしまいました。
縁側に座って、午後のお茶を飲みながら、体をほぐしました。庭に、真っ直ぐな緑の茎が何本も生えてきています。
三十分くらいそんな風にぼんやりしてから、今度は掃除機のゴミパックの中身の仕分けです。
交換しながら掃除をしていたので、ゴミパックは五袋も貯まっていました。マスクと手袋をつけ、割り箸とピンセットで仕分けていきます。目的は、短い髪の毛をみつけることです。まずは、埃のかたまりを割り箸でほぐしながら髪の毛を一本ずつ取り出していきます。取り出した髪の毛には埃が絡んでいるので、それを取り除きながら用意した障子紙の上に並べていきます。集中力と根気が必要な気の長い作業です。手元が暗くて見えづらいと思ったら、もう宵の口で暗くなってきていました。
それでもまだ終わらず、すべてを取り出し終わったのは八時くらいでした。肩や腰は固まってしまって、もう動きません。けれど、最後の仕事です。障子紙の上の髪の毛の中から、短い髪の毛を選び出すのです。長い髪の毛を取り除き、ゴミ袋に入れていくと、やがて短い髪の毛だけが残りました。丹念に掃除したためでしょう。軽く持って一房くらいはありました。
私の髪の毛は長いので、その短い髪の毛は私のものではありません。
J子さんのものなのです。
長く根気の要る単純作業の繰り返しは、私の気持ちを一つの方向へ深く深く掘り下げていきました。
あの女が怨めしい…。
→次の夜
甘いケーキ
DATE: 09/08/2009 23:22:48
今日は、診察の日です。
以前はあんなに楽しみにしていたのに、今では億劫な気さえします。
先週の木曜日に家にやってきたあの人の憤ったような表情が目に浮かびます。あの人のあんな表情は初めて見ました。いつでも自信に溢れ、寛容に私の話を聞いていてくれていたはずなのに、あおいというあの婚約者との結婚話が進むにつれて、少しずつ以前とは違ってきました。
私が婚約者の髪の毛を切らせた後、家にやってきたあの人は、優柔不断で頼りない男になっていました。
ほんのちょっとした私の悪戯は、以前のあの人だったら笑って済ませていたはずです。結婚式のストレスを私に対して吐き出しているとしか考えられません。なんて心の狭い男でしょう。
昨夜は、あのお面をつけて、暗い部屋の真ん中に置いた座布団に座りながらそのことを考え続けていました。そうやっていると、友だちが私の周りに集まってきてくれます。私が何も喋らなくても、友だちは私の気持ちを理解してくれて、あの人の本当の姿を教えてくれます。
だから、今日は診察に行くことにしました。
朝、庭を見ていると、クロアゲハがやってきました。そこで今日は、曼珠沙華にクロアゲハが舞っている着物を着ていくことにしました。
診察室に入ると、あの人は私の姿に驚いたようです。着物だと簡単に前をはだけたりすることができないですから、病院に着物でやってくる人などいません。けれど、私の診察は別段着物を脱いだりするものではないので、時々着物で行くことはありました。ただ、着物の柄があまりに派手だった様子です。
私はそんなことはお構いなしに椅子に座ると、私がしてしまったことをひたすら謝りました。診察室の中が凍りついたのがわかりました。あの人が何か言おうとするのを遮って、さらに謝りの言葉を重ねました。自然と涙が溢れ出てきました。私は椅子から崩れるように落ちて、床に座り込んだまま、それでも謝り続けました。目の前の床に涙がぽたぽた落ちていくのを見ていると、思わず愉快な気持ちになりそうだったので、慌てて気持ちを集中しました。看護士が私を助け上げようとしましたが、私はあの人の足首を掴んで涙を流しました。きっと、私の頭の上であの人は困惑しきった顔を見せていることでしょう。私に掛ける言葉も見つからず、同じ言葉を繰り返すばかりです。もう少し頭のいい人かと思っていましたが、思ったよりつまらない人だったようです。
私はあの人に十分なことを喋らせず、今日もまた用意していったサンドウィッチを置いて、謝り続けたまま診察室を出ました。
待合室の雰囲気も凍りついていました。
私は長い髪の毛で自分の表情を隠したまま、その場を立ち去りました。
帰りに生クリームのたっぷりのった載ったケーキを三つ買いました。
家に帰って着物を脱ぐと、襦袢は汗でびっしょりでした。
着替えて玄関を開けて、家の前の橋を見ながら、ケーキをすべてたちまち食べてしまいました。
甘い味はご褒美の味です。
→次の夜
慰めの電話
DATE: 09/09/2009 20:18:32
あの人の婚約者のあおいさんから電話がありました。
昨日、あの人から診察室での出来事を聞いたようです。髪の毛のことは気にしていない。むしろ、三夜子さんの様子が心配。そう言って電話をかけてきました。
心配かどうかは知れたものではありません。結婚前に私に首でも吊られたら、二人の新しい生活が汚れてしまうから、様子窺いにかけてきたといったところでしょう。
私は思いっきり震えるか細い声を出して、彼女に謝りの言葉を何度も告げました。それが、彼女を一層不安にしたようです。近いうちに顔を見に行く、と言って電話を切る頃には、本気で心配している様子に変わっていました。
隣で、餓鬼の笑い声が聞こえたような気がします。
さて、これからは今夜の準備をするだけです。
丑と三つ
DATE: 09/10/2009 03:39:57
赤い着物は、四年前に祖父が買ってくれた振り袖を出しました。
蝋燭は、祖父のお葬式の時に買って結局使わなかった三本が仏壇の中にしまってありました。
J子さんの髪の毛は、揃えて束にして、その両端を赤い糸で幾重にも巻きました。これで、多少のことではばらけないはずです。
うちの庭は、高い木の塀に囲まれていて、外から覗くことができません。隣の家の二階の窓からも庭木が邪魔をしてはっきりとは見えません。
私は、暗い灯りを消した家の中で赤い着物に着替え、丑寅の時間を待ちました。丑寅の時間といえば、丑三つ時ですから午前二時三十分から四十分です。少し仮眠を取ろうかと思ったのですが、変に神経が昂ぶって眠ることもできません。
なぜ、鉄輪が家の前の川から上がったのでしょうか。これも、きっと何かの導きによるものにちがいありません。そんなことを考えているうちに、夜も深くなってきて、家の中が一層騒がしくなってきました。餓鬼たちが興奮しているのがよくわかります。
まだ二時過ぎくらいでしたが、私は立ち上がって準備を始めることにしました。
あのお面を顔につけ、鉄輪を頭にかぶりました。蝋燭に火を点けようと思ったのですが、これが結構大変でした。祖父は晩年たばこをやめていたので、家の中にライターやマッチながなかったのです。仕方ないので台所に行って、ガスレンジで蝋燭に火を点けました。
火の点いた和蝋燭を手探りで頭の鉄輪に差し、右手にJ子さんの髪の毛を握り、ゆっくりと縁側に移動しました。途中で柱時計を見ると、二時十分でした。柱時計の下の鏡に自分の姿が映ってどきっとしました。それは自分が思っている以上にすさまじい姿だったからです。
まだ少し時間は早かったのですが、火の点いた蝋燭を長い時間頭につけているわけにもいきません。
縁側から草履を履いて庭に降り、木の枝に髪の束を吊しました。
それからもう一度縁側に戻ると、屋根裏にあった日本刀を掴みました。白い鞘を払うと、中から妖しい輝きをする刃がぞろりと現れました。握っていることだけで恐ろしい、強い気配を持った刀です。
私は踵を返すと、もう一度髪の毛の束の前に立ち、日本刀の刃を返すとその
峰で髪の毛を一度打ち据えました。髪の毛は軽くぶらんと揺れるだけです。頭を振った衝撃で、蝋燭の溶けた蝋が髪の毛に垂れてきました。その蝋が髪の毛を通って地肌に当たり、熱くてたまりません。
けれど、その熱さで気持ちが削がれてはいけません。二度目は気持ちを入れて打ち据えてみました。またぶらんと揺れるだけです。
私は、そこにJ子さんがいるようなつもりになって、もう一度刀を振るってみました。今度は、何か手応えのようなものを感じました。
それからは、夢中になって何度も何度も刀を振るっていました。自分では気づかないうちに、呪詛の言葉を吐いていたようです。
気がつくと、髪の束はすっかり解け、すべてが庭木の下に散らばっていました。私は、大きく息をつきました。
振り返ると、縁側に餓鬼たちが座って、にやにやしながら見ていました。
足元に髪の毛を縛っていた赤い糸が落ちていたので拾おうとしたら、庭に生え始めた緑の茎の植物に赤い花が咲きかけていました。
鉄輪を脱ぐと、蝋燭は一本しか点いていませんでした。残りはすぐに消えてしまったようです。
お風呂に入って髪の毛を洗ったのですが、髪の毛に絡んだ蝋はどうやっても落とすことができません。夜も更け、すっかり疲れてしまったので、それ以上蝋を落とすことは諦めることにしました。
→次の夜
いいことが二つ
DATE: 09/10/2009 23:17:29
今日は、嫌なことが一つといいことが二つ。
嫌なことは、昨日髪の毛に垂れた蝋がいつまで経っても取れないこと。
昨夜、お風呂に入って、何回も何回もシャンプーを使ったのですが、そんなことでは少しも取れませんでした。結局、爪でしごいて取っていくしかありません。それだけでも大変なのに、もっと厄介なのは頭の地肌についた蝋です。爪で引っ掻くと細かくなってふけのように落ちてくるのです。今でも少し頭を振るだけで、細かい蝋がこぼれ落ちてきます。しかも、頭が痒くてたまりません。まだ二十代半ばの女の髪の毛としては、おそらく最もひどいものでしょう。
でも、反対にいいことが二つ。
昨日、あの人の婚約者からの電話で思い切り生気のない声を出したおかげで、あの人がますます心配になったのでしょう。気分転換に私をどこかに連れて行ってくれると言うのです。婚約者も一緒で、三人の関係性を元に戻そうという目的だということは明らかです。でも、おいしいものを食べて、温泉に入って、きれいな風景を見られるのなら、出かけていくのもいいと思いました。そんなことで、私の気持ちが変わることはありませんが、その時だけ明るく振る舞って、密やかに怨みを募らせていくのもいいかもしれません。
出かけるのは、明日です。一晩泊まって明後日には帰ってきます。
知り合いが温泉に行く予定だったのが、急な仕事で行けなくなったから、という理由をつけていましたが、そんなわけがありません。本当は、私がおかしな行動を採るのではないかと気が気でなく、週末まで待てなかったといったところでしょう。
そうして、いいことがもうひとつ。
J子さんが入院しました。
→次の夜
なにか…
DATE: 09/13/2009 00:25:24
あの人との旅行から帰ってきたら、家の中が変です。
なにか、おかしなことが起こっています。
携帯電話が
DATE: 09/13/2009 00:27:38
家の中に見たこともない携帯電話が置いてあります。
誰の携帯電話なんでしょう?
気味が悪い。
知らない人から
DATE: 09/13/2009 00:36:53
知らない人から私宛てにメールが届いてきます。
なぜ、こんなことが起こっているのでしょう?
これは、誰かが仕組んだことなのでしょうか?
仕組んでいる
DATE: 09/13/2009 00:39:15
私を応援している?
私は一人じゃない?
どういうことでしょう?
私をからかっているのでしょうか?
仕組んでいないなんていうメールも来ましたが、そんなこと信用できるでしょうか。
呪いの儀式
DATE: 09/13/2009 00:54:52
やってくるメールの多くが、呪いの儀式のことを止めようとしています。
なぜ、みんなそんな風に考えるのでしょう?
私の味方なんて言っているけど、嘘なのでしょうか?
なぜ
DATE: 09/13/2009 01:08:04
呪いの儀式をすると、私が壊れてしまう?
そんなことはあるはずはありません。
私が不幸になるわけがないではないですか。
不幸になるのは相手に決まっています。
なぜ、そんなことを言うのでしょう。
憎い相手
DATE: 09/13/2009 01:10:52
憎い相手がいる、と共感してくれたメールをもらいました。
誰だってそういう人間はいるものです。
みんなは勝手なことを書いている幸せな人たちなのです。
私のことを理解してくれているなんて言いながら、なにもわかってはいないのです。
醜悪
DATE: 09/13/2009 01:15:09
人を呪うのが醜悪とは、なんて失礼なメールでしょうか。
私にしてみれば、こんなに崇高なことはありません。
そんな人の言うことを聞くつもりはありません。
不幸
DATE: 09/13/2009 01:35:15
呪えばその分、私が不幸になることはわかりきっています。
それは覚悟の上です。
そんな理由で、私の今夜の儀式が止まるわけがありません。
あと四十分くらいで丑三つ刻です。
>わかっていない
DATE: 09/13/2009 01:49:07
私のブログを読んで応援してくれていることは嬉しいのですが、みんな本当の私の気持ちをわかってはいません。
私が一人だというのは、私の気持ちを理解してくれる人がいないと言うことなのです。
こんなにも馬鹿にされて、こんなにも嘲られて、期待して裏切られて。
みんなはそんな目に遭ったことがないからです。
>教えてあげましょう
DATE: 09/13/2009 01:53:51
そんなにみんなが応援してくれているのなら、旅行のことを教えてあげましょう。
私は、旅行の間じゅう、ずっとにこにこ笑っていました。
今日は雨が降って、あの人の計画は台無しでした。
でも、私はにこにこ笑っていました。
だって、私の心は決まっていましたから。
だんだん
DATE: 09/13/2009 02:03:36
だんだんメールが少なくなってきています。
みんな応援していると言いながら、所詮はそんなものです。
やはり私は一人です。
もう二時になりました。
あと少し
DATE: 09/13/2009 02:05:32
たぶん、あと少しで呪いが成就するはずです。
今夜の呪いの儀式は、きっと成功させなくてはなりません。
どうしよう
DATE: 09/13/2009 02:14:40
確かに、あと一晩考えてみるのもいいかもしれません。
意見はどうであれ、私を見ている人たちがいることは確かです。
少し考えてみよう。
ああ
DATE: 09/13/2009 02:16:39
ああ、沢山メールが来ます。
>困った
DATE: 09/13/2009 02:23:03
どうしましょう?
メールが沢山届いてしまって、呪いの儀式ができません。
沢山の応援
DATE: 09/13/2009 02:25:09
沢山の応援、ありがとう。
でも、どうしても憎い。
もう丑三つ刻。
どうしよう。
憎い
DATE: 09/13/2009 02:26:44
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
憎い。
もう少しで
DATE: 09/13/2009 02:27:47
もう少しで丑三つ刻が終わる。
ああ駄目だ
DATE: 09/13/2009 02:28:37
もう少しで丑三つ刻が終わる。
我慢できなかった
DATE: 09/13/2009 02:48:58
結局、私の憎しみが勝ってしまいました。
でも
DATE: 09/13/2009 02:56:59
みんながメールで応援してくれたのに、それに応えることができなくてごめんなさい。
みんなを裏切った私を、みんなも憎んでくれて結構ですから。
まだ
DATE: 09/13/2009 03:12:46
あんなひどいことをしたのに、まだ私を見捨てない人たちがいることを嬉しく思います。
でも、私はひどい女です。
地獄に堕ちることを知っています。
でも、やらずにはいられないのです。
疲れました
DATE: 09/13/2009 03:20:24
今夜はすっかり疲れてしまいました。
もう休みます。
みなさん、ありがとう。
ゆっくりお休み下さい。
おやすみなさい
DATE: 09/13/2009 03:31:51
応援してくれたみなさんに良い夢を。
私に戒めの悪い夢を。
おやすみなさい。
→次の夜
J子さんが
DATE: 09/13/2009 20:17:09
J子さんが亡くなりました。
DATE: 09/13/2009 23:18:11
ふふふ……。
→次の夜
さて
DATE: 09/14/2009 23:27:28
次はどうしましょうか。
→次の夜
J子さんの形代
DATE: 09/16/2009 23:22:38
儀式の形代に使ったJ子さんの髪の毛は、あの部屋に散らかったままです。
仕方なしに、今日掃除をすることにしました。
思いのほか広い範囲に飛び散っていて、掃除機をかけるのもなかなか苦労でした。
ようやくかけ終わりましたが、J子さんの髪の毛が掃除機に入っていると思うと、あまり良い気がしません。かといって、ゴミ箱に捨てるのももっと憂鬱です。
ゴミパックを紙袋に入れて、庭に埋めることにしました。
庭に降りると、気がつかないうちに曼珠沙華が咲いていました。ああ、あの緑色の真っ直ぐ空に向かって伸びていたのは曼珠沙華だったんだ。
そう思った瞬間、急に何かを思い出しそうになりました。
それは、黒い急流のようにとても強烈な記憶のようです。
悪寒を感じて胸の奥が冷たくなったと思ったら、猛烈な吐き気に襲われて庭木の下に吐いていました。
思い出そうとするのですが思い出してはならないある記憶。
それは、この一年ずっと私につきまとっている黒い影のような感覚です。
けれど、今日は曼珠沙華をきっかけに思い出しそうになりました。それを吐き気という形で、体が拒否をしたのかもしれません。
私はJ子さんの髪の毛を庭に埋め、その記憶も同じように葬れればいいのに、と思っていました。
お通夜
DATE: 09/16/2009 23:34:49
今日はJ子さんのお通夜です。
初めてJ子さんの旦那様に会いました。顔色の悪い痩せた男の人でした。
J子さんの顔を見てあげてほしいと言うので、顔にかけられている白布を取って顔を見ました。
眠っているような表情でした。
私は旦那様に、話しかけてもいいですか、と聞いてから、彼女の耳元に口を寄せて囁きました。
J子さん、
どうしてこんなことになったか教えてほしい?
それはね、
私があなたに呪いをかけたからよ。
私、試しておきたかったの。
呪いの力を。
だって、
あなた、
何でもお手伝いするって言ったじゃない。
私は耳元から口を離し、そのままの距離からJ子さんの顔を見ました。
そんなことを囁いても、彼女は目を開きませんでした。
可哀想なJ子さん。
私は思わず、彼女に唇を寄せました。
驚いている旦那様を残して、私は早々にその場を立ち去りました。
→次の夜
私の名前、祖母の名前
DATE: 09/17/2009 23:01:15
また、祖母からの書き込みがありました。
その中で、私の名前と祖母の名前を問いかけています。
私の名前は三夜子に決まっています。
祖母の名前などすぐに言える、と思っていたのですが、どうしても思い出すことができません。
思い出しそうになると、激しい頭痛と吐き気を催します。
なぜ、そんな簡単なことに答えられないのでしょう? それが悔しくてなりません。
→次の夜
書き込み
DATE: 09/18/2009 23:04:03
また、祖母が忍び込んで書き込みをしています。
その書き込みの内容を思い出すだけで、激しい頭痛に襲われます。まったく気味が悪くてなりません。
J子さんが死んでしまったので、鍵を替えてももう誰も祖母に鍵を渡す人はいません。
なのに、怖い気がしてなかなか鍵屋に連絡ができません。
でも、なぜ怖いのでしょう?
どうやら私は、鍵を替えた後、もしまた書き込みがあったらどうしようと考えているようです。
何を馬鹿げたことを考えているのでしょうか。
あの人から、21日に婚約者と一緒に家に来たいと電話がありました。21日が敬老の日だからと言うことでした。
どうやら、この間の旅行で私の憎しみの気持ちが消えたと思い込んでいるようです。
頭は良いけれど洞察力のない人は、医者には向かないのではないでしょうか。
夜、多くの食事を作って餓鬼たちと一緒に食べました。
大勢で食べる食事は楽しいものです。
→次の夜
鍵屋の袋
DATE: 09/19/2009 23:14:16
昨夜もまた祖母の書き込みがありました。
それと、何かを思い出しそうになり、そのたびにひどい頭痛が襲ってきます。
私はその何かを思い出したいと思っているのでしょうか? それとも思い出したくないと思っているのでしょうか? 思い出したときに、何かが起こりそうで、それがまた恐ろしいような気がします。
そんなことなら、いっそ思い出さなければいいのですが、祖母がそうさせてはくれません。
ひと晩考えて、やはり鍵を交換することにしました。
この間の鍵屋は陰気な男でしたが、無口なところが気に入っていたので、新しい鍵屋に頼むよりはこの男の方がいいと思い、連絡を取りました。
鍵屋は夜になってやってきて、鍵を替えたばかりなのにどうしてまた替えるのか、というようなことをひと言も口にしないで作業を終えました。
代金の支払いの時になって、気になることがあったので、私は男に聞いてみました。
どうして鍵を交換するときに、ドアノブに巾着袋をかけているのですか?
すると、鍵屋は「お守りですよ」と言って、私の方にその巾着袋を差し出しました。
私はその途端、急に恥ずかしい気持ちになりました。
私の着物は赤い振り袖のままだし、頭にはあの夜五徳から垂れてきた蝋が固まったまま絡みついているし、部屋の中は荒れ放題です。それまでは、鍵屋に対して恥ずかしいなどと思ってもみませんでしたし、J子さんのお通夜にもそんな髪の毛のまま出かけていました。
明らかに私はおかしくなっていました。
鍵屋がお守りをかざしたことで、そのことに気づかされたのです。
でも、なぜお守りがそんな影響を与えるのでしょう。まるで、私がおかしくなったのは霊的なものの仕業のようではないですか。
鍵屋は、なにかまたご用があれば、と言って帰って行きました。
私は、家の中が散らかっていることに耐えきれず、すぐに掃除を始めました。
その掃除が、ようやく今終わったところです。
→次の夜
掃除の続き
DATE: 09/20/2009 23:36:02
昨夜あまりに根を詰めて掃除をしたものだから、今朝は少し遅めに目が覚めました。
少し動くと汗ばむような日射しの強い晴天の日です。
貯まっていた洗濯物を洗い、昨日掃除できなかった風呂場を掃除するまでは、今までにないくらい晴れ晴れとした良い気分でした。
遅めのお昼ご飯を食べて、さて二度目の洗濯をしようとしたら、何となく億劫な気がしてきました。それでも、少し疲れたのだろうと思い、洗濯を始めましたが、布団を干そうと思ったらもうやる気が失せてしまいました。
急に体を動かしたからいけなかったのかもしれません。
そう思い直して、縁側に座り、髪の毛についていた蝋を落とし始めました。
今回は、前回に比べてはるかに蝋の量が多いので、いくらこそぎ落としても一向にきれいになった気がしません。
それでも、蝋を落とす方法はこれしかありません。
苛立ちが次第に増してきました。何度も嫌になり、それでももう一度と思い直して、またすぐに嫌になり、思い直して作業を進める、というようなことをしばらく繰り返しました。
でも、もう馬鹿馬鹿しくて堪らなくなりました。
さっきまで丁寧にこそぎ落としていた手を止めて、蝋のついた髪の毛を両手でわしづかみにすると、そのまま思いっきり引き抜きました。
ブチブチブチという音が聞こえたような気がします。
頭全体が猛烈な痛みに襲われ、私は縁側に額をつけて痛みに堪えました。
両手には、引き抜いた髪の毛が握られていました。
しばらくは声も出ずに、その姿勢のまま息もできませんでした。
ようやく痛みが治まり、頭に手をやっても、私の髪の毛はほとんど抜けることはなく、依然として蝋を張り付かせたままです。
もうどうでもかまわない。
そんな気分がいつの間にか私を支配していました。
また逆戻りです。
今、洗濯物は出しっぱなしで、取り込む気にもなりません。
洗濯機の中には二度目の洗濯物がそのままになっています。
明日、あの人の婚約者が来るから、彼女にやらせれば済むことです。
それにしても、苛立ちが治まりません。
あのお面をかぶったら、治まるかもしれません。
香辛料の強い料理
DATE: 09/21/2009 23:12:36
夕方、あの人と婚約者のあおいさんがやってきました。
私は大はしゃぎで二人を迎え、いつにも増して腕をふるった料理を用意しました。
今日の料理は、香辛料の多い味付けにしてあります。
二人はおいしいと言って料理を食べ、お酒を飲んで、三人でたわいもない話をしては大笑いしました。
その後、酔っぱらった三人で能面の部屋へ行き、能の真似事をすることになりました。
三人で部屋の真ん中に立って、その場で三回まわって、自分の正面に来た面を付けなくてはならないという規則にしました。
あおいさんは姥の面、あの人は弱法師の面、私は泥眼の面になりました。とはいえ、私は二回まわったところで止まり、泥眼の面に向き合って立ちましたから、当然といえば当然のことです。
そんな風なことをして、私たちは面を付けたまま、子供のように笑い合いました。
でも、それもそんなに長い時間ではありませんでした。
あおいさんが姥の面を付けたまま、胸が苦しいと言い始めたからです。
そのまま、大事を取って彼女には休んでもらうことにしました。
私の料理のせいかしら、と聞くと首を横に振ってとんでもない、と二人して声を揃えます。
でも、私のせいでしょう。
昼間、曼珠沙華を切ってその根を煎じておいたのです。それを香辛料の多い料理にふりかけてあおいさんに出していたからです。
→次の夜
お彼岸
DATE: 09/23/2009 22:22:48
あおいさんの形代には、美容院からもらってきた髪の毛を使いました。
J子さんの時に試したように、午前一時くらいから準備を始め、二時過ぎには日本刀を脇に置いて時間が来るのを待ちました。
蝋燭三本に火を点けて五徳に差し、それを頭にかぶって暗い部屋の中に正座しながら、あおいさんが私にしてきた欺瞞に満ちた行いの数々を思い浮かべていました。
彼女の見せる明るい笑顔の分だけ、その裏にある悪意は暗く陰湿なものに感じられます。
時間になって、私はあおいさんの髪の毛を日本刀で打ち据えました。床にたたきつけて、何度も何度も突き刺しました。思いが強くなると日本刀の先は畳に深く突き刺さり、抜くのに苦労しました。
十五分くらいあおいさんの髪の毛を斬りつけ、突き刺し、打ち据えていると、J子さんの時と同じように、部屋じゅうに髪の毛が散らばって、それ以上儀式はできなくなってしまいました。
私は部屋の真ん中に腰を下ろして、荒い息を整えました。
五徳を脱ぐと、今回は蝋燭の火が二本点いたままでした。
起きると、今日はお彼岸です。
祖父のお墓参りに行こうと思ったのですが、墓地の入り口が近づくにつれてひどい頭痛がしてきます。それでもお彼岸だからと無理をしてお墓参りをしようとするのですが、お墓に近づけば近づくほど、頭痛はひどくなり頭が割れそうです。
同時に、昨夜の儀式に対して何故だか後悔の念が沸き上がってきます。この思いが吐き気を伴って襲ってくるので、慌てて墓地のトイレに駆け込みましたが、吐き出すものなどありません。
ただ、以前もこんな気持ちになったことがある、という確かな記憶の感覚だけが浮かび上がってきました。
それは、今まで封印してきた記憶です。それがどんな記憶だったのかはわかりません。
私は、どうやら思い出すことを自分で拒み続けているようです。
思い出そうとすると、頭痛と吐き気というブレーキがかかって、それ以上そこに足を踏み入れることを拒みます。
けれど、今日、それが祖父と結びついている記憶だということがわかりました。また、あの儀式とも結びついているらしいということも。
ただ、それ以上はもう無理です。
墓地には曼珠沙華が咲き乱れていました。
私の庭には一本の曼珠沙華も咲いていません。全部切って、家の中に飾っています。
あおいさんはどうなったのでしょう?
頭の痛みが治まらず、そのことを考えることも億劫です。
→次の夜
痛みの晴れ間
DATE: 09/24/2009 22:43:33
あまりに頭痛がひどくて、昨夜は夜半過ぎまで寝付けませんでした。
奥の部屋が騒がしいので頭痛をこらえて行ってみると、一昨日の儀式のままお面が置かれていました。
そのお面に触れてはいけない、という気持ちが胸のどこかで強く働きました。そんな気持ちは、最近あまり感じたことがありません。
けれど、それと反対の衝動も同時に胸に沸き上がってきました。
このお面をつけると、苦痛から逃れることができる。
以前も、同じようなことがありましたから、きっとそれは正しいのでしょう。
私はしばらくお面を目の前にしながら、迷い続けていました。
結局、私はお面をつけませんでした。
朝になれば、頭痛もいくらか治まるかもしれないという希望は、叶えられませんでした。
今でも割れるように頭が痛く、吐き気が激しいために食事もできません。
けれど、何か大切なことを思い出しそうになっています。
周期的に頭痛が弱まる瞬間があり、その時に思い出しそうになるのです。
でも、思い出せないうちに次の激しい痛みが襲ってきます。
痛みと痛みの晴れ間に見えてくる、あれは一体どんな記憶なのでしょうか。
→次の夜
祖母の名前
DATE: 09/25/2009 23:01:58
もう我慢ができず、お面をつけようと思って儀式の部屋に行ったら、どこにもありません。
祖母が隠したのです。
まったく苛々する。
もう少し我慢してみましょう。
何か思い出すかもしれません。
でも、
もう二晩もろくに寝ていません。
吐き気がして食欲もありません。
疲れて朦朧として、気がつくとしゃがみ込んで畳の目を指でなぞっています。
ああ、でも少し思い出しました。
祖母の名前は、みやこです。
みやこという名前です。
そうだ、私と同じ名前だったのです。
少し胸のつかえが取れたような気がします。
でも、少しだけ。
ああ、頭が痛い。
吐き気がする。
眠れない。
食べられない。
疲れました。
→次の夜
お見舞い
DATE: 09/26/2009 23:10:49
あおいさんのおうちに電話をすると、お母様が出て、まだあまり芳しくないということを伝えてくれました。
私は、自分のやったことを少し後悔し始めていました。
やはり、お見舞いに行った方がいいのかもしれません。
でも、鏡で見てみると、髪の毛に蝋がついたままで、とても外に出られるような姿ではありません。
髪の毛や地肌についた蝋はどうやっても落ちないので、櫛で丹念にこそぎ落としていくよりほかに方法がありません。
けれど、それは容易なことではありません。普段どおりに櫛を入れていったのでは、どんなに力を入れてもまったく通らないからです。手櫛である程度髪の毛を解いてから、少しずつ手に取って丁寧に梳かしていくという作業で、ようやく蝋が落ちていきます。
それは気の長くなるような作業です。梳かしても梳かしても、一向にきれいになっていかないからです。苛立って少し多めに手に取って、力まかせに梳かそうとすると、ブチブチと音を立てて髪の毛が抜けてしまいます。ただでさえ頭が痛いというのに、一層ひどくなる有様です。
それでも我慢して梳かし続け、何とかひと通り終わりました。
座っていた私の周りには、抜けた髪の毛が足の踏み場もないくらい落ちていました。
それを箒で集めて、ゴミ箱に捨てようとしたのですが、誰かに拾われて形代にされたら大変です。庭に出て髪の毛の山に火を点けて燃やしました。
人を焼くときのような嫌な匂いが辺りに立ちこめました。
林檎と梨を包んでもらって、あおいさんの家にお見舞いに行きました。
あおいさんは、私が来るとは予想していなかったようです。あまりに突然なことだったので、取り繕う間もなかったのでしょう、私の顔を見るなりあからさまに嫌な表情を浮かべました。その瞳の奥には、憎しみの感情が見えました。
そのすぐ後に、いつもどおりの表情になりましたが、一瞬垣間見えたその表情から、私に対して抱いている感情を知ることができました。
私は彼女以上に感情を隠して穏やかに話をしましたが、胸の奥は悲しみに溢れていました。
家に帰って、あのお面を探しました。
一時間くらい探して、ようやくみつかりました。
お面をつけると、やはりすべてが変わりました。
頭痛は消え去り、吐き気は治まり、あおいさんに対する怨念が立ち上ってきました。
せっかくお見舞いと謝罪に行ったというのに、なんというひどい女でしょう。
彼女も体調が悪いかもしれませんが、私だって頭痛と吐き気に苛まれて歩くのもやっとだったのです。それなのに、三時間もかけて髪の毛を梳かして、彼女の家まででかけて行ったきたのです。
そんな私のことなど気に掛ける様子もなく、ただ自分の苦しさだけを訴えかけてくるとは、身勝手にもほどがあります。
あの女を苦しめてやりたい。
その思いが前より一層強くなって、私の中に蘇ってきました。
私は五徳と日本刀を並べました。
→次の夜
繰り返す電話
DATE: 09/27/2009 18:31:34
久しぶりに頭痛と吐き気から解放され、昨夜は思う存分食事をしました。
お腹に食べ物が入っていくにしたがって、体じゅうに活力がみなぎってきました。
もう何かに思い悩むようなこともありません。
もっと早く、あのお面をつけれいればよかった、と思いました。
体が軽くなるにつれて気持ちが落ち着かなくなって、丑の刻を待つこともできず、私は儀式に入りました。
昨日のあおいさんの態度が頭に浮かび、何度、彼女の髪の毛を打ち据えても、突き刺しても、すぐに激しい憎悪が沸き上がってきます。
気がついたら、一時間以上が経っていました。
その後は、急激な睡魔に襲われて、そのままその部屋の中で眠り込んでしまいました。
夢の中の遠いところで電話の音が鳴っている、と思ったら、それは家の電話でした。
体が動かず、なかなか起き上がることができません。
電話は一度切れて、また鳴り始めました。私が電話機までたどり着かないうちにまた切れて、すぐにまた鳴り始めました。
どうやら、私が寝ている間に、何度も電話が鳴っていたようです。
そんな電話は、あまり良い知らせとは思えません。
けれど、私にとっては良い知らせでした。
その二
DATE: 09/28/2009 02:33:10
あおいさんが亡くなりました。
いま必要なこと
DATE: 09/28/2009 22:47:26
あおいさんが亡くなったことを知ってから、頭痛は耐え難いほど激しくなり、ますます何か大切なことを思い出しそうになります。
この数日間、何度も見舞われている既視感と、何か関係があるかもしれません。
思い出した祖母の名前が、私の名前の三夜子と同じだということも、きっと深い関わりがあるにちがいありません。
いま必要なことは、きちんと考えて思い出すことです。
自分の食べる分だけの食事を作ること。
吐き気がしてもそれを食べること。
家じゅうに飾った曼珠沙華を捨てること。
そして、もうお面をつけないこと。
そのために、私はまず頭痛薬を通常の倍の量飲みました。この頭痛から逃れることが、この状況から逃れることに繋がるからです。
けれど、頭痛は治まりませんでした。
仕方なしにもう一錠、さらにもう一錠、と飲むのですが、意識はぼうっとしながらも頭痛は消えません。
苦しみはますます深まるばかりです。
夜も更けた頃、私はお面を手に取ってしまいました。
それを顔に当てると、それまでの苦しみや痛みがすべて消えていきました。それは、もう何度も経験した感覚です。
代わりに、憎悪と悦楽が浮かび上がってきます。
その時、私の中に、まだ憎悪が消えずに残っていることに気がつきました。
誰が
DATE: 09/29/2009 23:48:55
あの人からの連絡がありません。
一日じゅう、電話の鳴る音を待って、落ち着きなく家の中を歩き回っていましたが、結局この時間になっても電話は来ませんでした。
あの人は淋しくてたまらないはずです。
結婚を間近に控えた婚約者が死んでしまったのです。
誰かにすがりつきたいはずです。
なのに、電話がありません。
絶対に私に連絡してくるはずなのに。
真っ先に私に会いたくなるはずなのに。
おか
し
いい
。。
。
そういえば、
あの男もそうでした。
相手の女が死んだのに、
なぜか
私のもとに
帰ってこなかったのです。
浮気をしたのは
自分のせいなのに、
私の存在すら
忘れてしまったかのようでした。
何というひどい
仕打ちでしょう。
なん
て
い
う
、
、
私は何を書いているのでしょう?
いま書いた文章の意味がわかりません。
あの男とは一体誰のことでしょうか?
大量に飲んだ頭痛薬のために、頭がはっきりしません。
ときどき、意識が遠のくときがあります。
その間に、よくわからない文章が打たれていたのかもしれません。
意識のない間に、祖母が来たのでしょうか。
でも、私はずっとこのキーボードの前にいたはずです。
誰が。
蝋燭の能舞台
DATE: 09/30/2009 23:22:29
今日もあの人から連絡がありません。
昨日は、気が動転していてそれどころではないのかもしれないと思っていましたが、今日も連絡がないということになると少し様子が違ってきます。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
もしかしたら、電話が繋がっていないのではないでしょうか。
受話器を取って確かめてみましたが、故障している様子もありません。
どうしたことでしょう。
あの人が電話を掛けてこないはずはありません。
頭が痛みます。
頭が
痛みます。
あたま
が、
あの男はすまないと思ったのか、
ある時わたしに
どこか行きたいところはないか
と聞きました。
私は能に連れて行ってほしい
と言いました。
観に行ったのは
「鉄輪」という舞台です。
あの男が
私の隣で体を硬直させるのが
わかりました。
だって、
その演目は
浮気した夫と
密通した女と
夫も奪われた橋姫のお話ですから。
蝋燭の灯りだけ演じられる
恐ろしいお話を、
私は嬉しくて
嬉しくて、
思わず浮かんでしまう笑みを
押し殺しながら
見続けました。
誰の書き込みでしょう?
また祖母でしょうか?
でも、興味深い話です。
蝋燭の灯りだけで観た「鉄輪」とは、私にも記憶にある舞台だったからです。
ああ、でもそのことを考えたら、また頭痛がひどくなってきました。
頭が痛い。
あの人は、なぜ連絡してこないのでしょう。
