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三夜子の日記 2009.08


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祖母の湯呑み

DATE: 08/01/2009 23:00:35
 
洗い物をしていて、誤って祖母の湯呑みを割ってしまいました。祖母が気に入っていた薄い群青の湯呑みです。
床に散った湯呑みを拾おうとして後ずさった時、かけらを踏んでしまい、左足の裏から床に血が流れ出しました。
慌てて傷口を押さえ、風呂場で洗いました。
薬箱を持って縁側に座り、傷口をよく見てみると、まだ5ミリほどの破片がその中に埋もれていました。
なぜだか、祖母に復讐されているような気持ちになりました。
恐る恐るその破片を取り除いて庭に放ろうとすると、視界の隅に朝顔のような薄紫が見えた気がしました。もう一度、その場所を見てみたのですが、風に灌木や他の花を揺れるばかりです。
今年の朝顔市には行かなかったので、朝顔があるはずがありません。
そんなものは、あるはずはないのです。
一昨日から続いていた陽気な気分に、水を差されたような気がして、それ以来気分が優れません。
 
→次の夜
 


 

家のなかの井戸

DATE: 08/02/2009 23:33:40
 
庭の木に黒い大きな鳥がやってきて、明け方から気味の悪い声を挙げています。
昨日は気づかなかったのですが、井戸の付近に血の足跡が沢山残っていました。
すべて拭いてきれいにしたつもりだったのですが、気が動転していたのでしょうか、自分の歩いてきた経路の中から、井戸周辺が抜け落ちていました。
そういえば、風呂場ですっかり洗い流したつもりが、途中でまた血が溢れてきて、井戸のあたりでもう一度足を洗ったような気もします。
うちは古い作りで、木で作られた井戸が家の中にあります。私はこの井戸が怖くて、普段はあまり近づくことができません。井戸の中をのぞき込んでしばらく経つと、目が井戸の闇に慣れてきます。天井に吊られた電球の光が深い深いところにようやく届いて、仄かに水面らしきものが揺らめくのが見えます。その黒い水面をみつめていると、そこに何かがいるのではないかという気がしてくるのです。
だから、桶で水を汲み上げるとき、その中に一緒に何かを連れてきてしまうのではないかといつも心配でなりませんでした。もちろん、いつ汲み上げても、井戸からは清冽な水しか出てきませんでした。
そんな記憶からでしょうか、私は滅多なことでは井戸には向かいません。むしろ、近づくことを嫌っていたというべきでしょうか。それに、井戸に近づくと頭が痛くてたまらなくなるのです。
当然、うちには水道も通っていますから、井戸を使わなくても生活に支障を来すことはありません。
昨日、なぜ井戸に近づいたのか、よく思い出せません。ただ、井戸の周囲の血の足跡を見た瞬間、私の体が震え出しました。早く、この血の足跡を洗い流さなくては……。
そんな思いに駆られて、私は井戸水を汲み上げると、雑巾で土間を拭き始めました。
頭が、割れるように痛い……!
足跡を拭きながら、頭の痛みはどんどん増していきました。
早く、ここをきれいにして、
早く、ここを離れなければ……!
血の足跡は、水拭きすると土間と同化して、その時は消えたかのように見えます。ところが本当は拭き切れておらず、乾いてくるとまた現れます。
それが、私を嘲笑うように感じられます。徒労感が疲労を増して、這いつくばった格好のまま、何度も深いため息を漏らしてしまいました。
 
もう、ここには来たくない……。
 
→次の夜
 


 

チョウセンアサガオ

DATE: 08/03/2009 23:05:45
 
私はいつでも、何かを忘れているような気がしています。
何かとても大切なことをどこかに置き忘れて、20代半ばの夏を過ごしているような気がしています。
出先で、玄関の鍵をかけ忘れたような気がしただけでも、人は落ち着きがなくなってしまいます。ましてや、何を忘れたのかさえ思い出せなくなっていると、その不安は大きく、私はいつでも自分の頭の上に暗い雲が覆っているような気分です。
午前中にお手伝いのJ子さんが来ました。久しぶりに天気がよかったので、布団を干したり、洗濯をしたりして、一段落した11時頃、縁側に座って二人で冷やした水菓子を食べていると、J子さんが小さく「あっ」と声を挙げました。思わず彼女の顔を見ると、続けて「朝顔…」と言葉を繋ぎました。
驚いたのは私の方です。
そういえば、この数日、この庭で何かを見たような気がしていたのですが、その気がかりの正体が朝顔だったのだ、と、その声を聞いた瞬間、いきなりはっきりしました。
J子さんの視線の先を探して目を凝らすと、灌木の葉の陰に隠れるように薄紫の花が見えたような気がしました。J子さんの座っている場所にずれていくと、次第にその姿がはっきりしてきます。
ああ、確かにあの花びらは朝顔です。
J子さんは、ついと立ち上がると何も言わずに玄関の方へ行って、戻ってきたときには右手につっかけをぶら下げていました。そのまま、そのつっかけを縁側の下に置き、私は何か言おうとする前に、もうその朝顔の近くまで行っていました。
そして、その花をしばらく眺めた後、私に笑顔を向けて「ああ、これはチョウセンアサガオですよ」と言いました。
その時、私はまた大切な何かを思い出しかけたような気がしました。喉元まで出かかっているような感じ。
チョウセンアサガオ……。
ああ、もう少しで思い出す……。
けれど、その次には激しい頭痛がやってきました。いつでもそうです。そして、その頭痛に耐えているうちに、思い出しかけていた記憶が、指からこぼれ落ちる砂のように遠ざかってしまうのです。
でも、今日は、もう少しで思い出しそうになったのに。記憶の尻尾を掴みかけたのに。
残念な気持ちと頭痛に伴う嘔吐感で、午後は布団に横になっていました。
夜、J子さんが用意してくれていた肉じゃがを食べました。
おいしいけれども、少し濃い味です。
 
→次の夜
 


 

不躾な質問

DATE: 08/04/2009 23:31:36
 
あの人が、あまりに不躾な質問をするものだから、楽しみにしていた今日の診察は何だか台無しです。
先日、一緒に観に行った「葵の上」の舞台の最中に、私がなぜ急に気分が悪くなって席を立ってしまったのか、あの舞台を観たときに何かを思い出したのではないかと、根掘り葉掘り聞いてくるのですが、最初のうちはあの人の真剣さに巻き込まれて懸命に答えていたものの、そのうちいくら思い出そうとしても思い出せないことに気がついて、そうなってしまうともういけません。あの人の聞いてくる事柄が、ひとつひとつ私を責め立てているように思えてきてしまうのです。
私が思い出せるのは、子供の頃に祖父に連れられていって観た、蝋燭で演じられた能舞台だけです。それが、吐き気を催すほどに恐ろしい記憶となっているのですが、ではその内容は、というと実のところ茫漠としていてはっきりしません。
どんな質問をしても次第に無反応になっていく私の様子に、あの人は業を煮やしたようで、不意に祖母について聞いてきました。
祖母について聞かれるのは数ヶ月ぶりです。以前、祖母について何度も聞かれた時に、そのしつこさに辟易してつい声を荒げたことがあります。それ以来、あの人はその質問をしませんでした。けれど、今日は不意打ちのようにその質問をしてきました。
祖母は施設で元気にやっています。
私は、迷いの気配も見せずに答えることができました。
祖母は、施設で元気に暮らしているのです。
今度は、自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返しました。
でも、今日のあの人はそれ以上聞いてきませんでした。ただ、来週も必ず来るように、と念を押されました。
頭痛の薬と安眠剤をもらって帰る頃には、もうお昼はとうに過ぎていて、慌てて入った初めてのお蕎麦屋さんで頼んだお蕎麦もおいしくなくて、お店を出た後、午後の強い日差しの中で少し目眩がしました。
 
→次の夜
 


 

埋葬

DATE: 08/05/2009 23:50:04
 
夜中に、庭に出て、花の開いていない隙にチョウセンアサガオを切りました。
切った花を、土を掘って死体のように埋めました。
 
→次の日
 


 

オオミズアオ

DATE: 08/06/2009 10:04:05
 
昨日は頭痛がひどく一日家の中で過ごしたのですが、今日もそれが治まりません。朝から庭で鳴いている蝉の声がうるさくて、余計に痛みを強くしています。
一昨日、病院でもらった頭痛薬を飲んでみることにしました。今まで処方されたことのない薬で、頭痛の特にひどいときにだけ飲むようにと言われたものです。
いつもより眠気を強く感じる薬でしたが、頭痛には効果があって、しばらくすると痛みがずいぶんと軽くなりました。これは、私の頭痛に合った薬なのかもしれません。
日差しが弱いので今日のうちに買い物を済ませておこうと思い、でかけることにしました。頭痛が治まったせいか、いつもより気持ちが軽く、いきつけの魚屋でおいしそうな甘海老を買ってから、思いの外いろいろな店に立ち寄って、たくさん買い物をしてしまいました。
夕方、家に帰って居間で麦茶を飲んでいると、家の奥の方でなにか音がするような気がします。あまり気にも留めずに、そのまま夕飯の用意などをしていたのですが、ときどきカサカサと聞こえることがあります。どこかの障子が破れて、それが風に揺られているのかもしれません。
夕飯の支度も整える頃には、この古い家の部屋はすっかり暗くなっています。
食卓に夕飯を運んで、食べようとしたときに、カサカサという音がまた聞こえてきました。どうにも気になってしまったので、持ち上げかけた箸をおいてその音の方へと行ってみることにしました。
居間からもう部屋を抜けて襖を開けると、そこは暗い廊下です。どうやら、音はその奥から聞こえてくるようです。廊下の灯りをつけて、見渡してみるのですが、何も変わったものはありません。風も流れている様子はなく、でもその奥からはまだ断続的に音は聞こえてきます。
不思議な気持ちがして、廊下の奥の鴨居を潜ろうとしたとき、不意に頭の上でその音が聞こえ、思わず首をすくめました。
振り返って見上げると、その音の正体がわかりました。
そこには私の両方の掌くらいの白い大きな蛾が、生きたまま虫ピンで留められていたのです。私の気配に気づいた蛾は、一層激しく羽を動かしました。逆光のなか、辺りに鱗粉が舞うのが見えます。
私は、思わず腰が崩れそうになってしまいました。けれど、蛾も虫ピンから逃れようと必死に羽を動かします。私の顔に鱗粉が落ちてくるのがわかり、私は慌てて顔を下げました。廊下を這うように戻り、襖を閉めてもなお、あの音は聞こえてきました。
 
→次の日
 


 

あんな仕業は

DATE: 08/07/2009 02:39:02
 
こんな時間でも、廊下の奥からあの音が聞こえてきます。
 
あたりが寝静まったからこそ、一層はっきりと聞こえてきます。
 
その音を聞くたびに、宵の廊下で見たあの光景を思い出します。
 
私一人しかいないこの家で、一体誰があんなことをしたのでしょうか。
 
でも、私にはわかっています。
 
祖母です。
 
私のいない間にやってきた祖母の仕業です。
 
→次の日
 


 

虫ピン

DATE: 08/07/2009 15:23:11
 
昨夜は明け方まで、廊下の奥からカサカサという音が断続的に聞こえてきました。そのたびに、眠りの淵に降りかけていたのが呼び覚まされ、しばらくは布団の暑さに身悶えして、なかなか再び眠りに就けなくなってしまいます。ようやくそこから意識が離れ、眠りに誘われると、再びカサカサいう音が聞こえてきます。
 
そんなことを繰り返すうちに、結局、窓の外は明るくなってきてしまいました。
 
少しまどろむともう九時半で、窓を開けるといきなり真夏の青空になっています。
 
ここまで明るくなってしまえば、外から入ってくる蝉の声がうるさいくらいで、もうあまりあの蛾のことも気になりません。
 
その気持ちのまま廊下に足を踏み入れ、鴨居を潜って蛾の様子を見てみました。
 
微動だにしません。
 
虫ピンを刺されて一日経っているわけですから、さすがにもう死んでしまっているのでしょう。
 
けれど、そのままにしておくわけにもいきません。
 
処分しようと、恐る恐る手を伸ばしましたが、蛾に動く様子は見られません。
 
勇気を奮い起こして、蛾の太い体に刺さっている虫ピンを指先でつまみました。蛾はまったく動きません。
 
ただ、ピンを抜こうとしますが、しっかり打ち込まれているのか簡単に引き抜くことができません。
 
ピンの頭をつまんで、左右に揺らしてみます。次第に、そのことに夢中になって、蛾に対する恐怖が少なくなってきます。
 
だんだん大胆に虫ピンを動かすうちに、ようやくピンが緩くなってきました。
 
その時、蛾のお腹が動いたような気がしました。
 
そっちに意識が動いた瞬間、ピンが抜けました。と同時に、蛾が虫ピンを持っている私の指先で、突然激しく羽を動かしました。その尋常ではない激しさに驚いて思わずピンから指を離すと、蛾はピンをつけたまま激しく羽ばたいて、廊下の左右の壁に何度も何度も体をぶつけ続けました。そしてその挙げ句、いきなり私に向かって飛んできて、私の額に留まりました。
 
私はあまりのことに混乱して、反射的に蛾を手で払いました。蛾は、一度床にぶつかってから、床を這うように羽ばたいて進み、そのまま開いていた障子の奥に消えてしまいました。
 
私はしばらく呆然として、その場に立ちすくんでいました。
 
蛾がぶつかった額が不愉快で、洗面所で顔を洗って鏡を見ると、額に小さな傷がついています、蛾が額に留まったとき、虫ピンが少しだけ刺さったのかもしれません。
 
顔を洗っているうちに、少し冷静さを取り戻しました。
 
きっと蛾もどこかで死んでしまっているにちがいありません。
 
茶の間に行くと、昨夜の食事が出しっぱなしになっていました。昨日、食べようとしたまま、結局ひと口も手をつけなかったご飯に味噌汁に煮物に甘海老の刺身。
 
甘海老の半透明の肉が、一晩置かれて変色し、それが虫ピンを刺された蛾のぼってりとした腹とよく似ていました。
 
思わず、吐き気を催して、トイレに駆け込みました。
 


 

やもり

DATE: 08/07/2009 20:47:02
 
夕方になって涼しい風が入ってくると思っていたら、急に激しいにわか雨が降り出しました。
 
七時頃には上がって、玄関に出てみると、地面には大きな水たまりができていました。
 
家に戻ろうと思って、引き戸に手を掛けたとき、違和感を覚えました。
 
視線をずらすと、引き戸の脇にやもりが一匹、生きたまま釘で打ちつけられていました。やもりは逃れようと、懸命に手足や尻尾を動かしていました。
 
きっと、まだ打ちつけられて間もないのでしょう。
 
この激しい雨の間に、行われたことにちがいありません。
 
祖母が、またやってきたのです。
 
→次の夜
 


 

痒み

DATE: 08/08/2009 22:15:18
 
額の真ん中が痒くて仕方ありません。
 
昨日、蛾の虫ピンが額に触れたせいにちがいありません。きっと、ピンが触れたときに、蛾の鱗粉かなにかが入ったのでしょう。
 
かゆみ止めの軟膏を塗ってみたのですが、一向に効果が現れず、かえって痒みが増したような気さえします。
 
痒くて何をやっても集中できず、祖父の遺品整理をするつもりが、まったく進まないうちに、苛々した気持ちとともに一日が暮れてしまいました。
 
あの人に相談したら、きっと良いかゆみ止めを処方してくれるに違いありません。でも、今日は土曜日で診察日まで三日もあります。その時間も歯痒くて、一層苛立ちが増してしまいます。
 
だから、あまり考えないようにしよう。
 
そう思っていると、その時に限って廊下の奥の部屋から、またあのカサカサいう音が聞こえてきます。きっと、虫ピンを刺されたままの蛾が、箪笥の裏あたりで埃にまみれてもがいているのでしょう。それを想像すると、また痒みがぶり返してきます。
 
玄関に出ると、やはりやもりがもがいています。ただ、蛾に比べると随分弱ってきているようです。
 
それにしても、額が痒くてたまりません。
 


 

夜中の音

DATE: 08/09/2009 02:33:14
 
二時半です。
 
さっきから、家のどこかで誰かが釘を打っている音が聞こえます。
 
また、祖母が帰ってきたのです。
 
今度は、何を打ちつけているのでしょうか。
 
恐ろしくて、見に行くこともできません。
 
暑いのに、夏がけの布団を頭までかぶって、音が絶えるのを待っていました。
 
→次の夜
 


 

ため息の範囲

DATE: 08/09/2009 22:25:10
 
真夜中に聞こえていた何かを打ちつけるような音は、結局三時過ぎまで続いていました。あれは、いったい何の音だったのでしょうか。
 
あまり眠れないまま、でも気になって起き出して、家の中を探してみたのですが、まったくみつかりません。祖母がやってきて何かを打ちつけていたことは間違いありません。でも、一体なにを打ちつけていったのでしょうか。
 
玄関先で釘に打たれたやもりは、今朝見ると死んでいました。やもりは家を守ると言われています。祖母が生まれた年に建てられた築九十年の家に、なにか良くないことが起こりそうで悪い想像ばかりが働きます。
 
祖母も、あんな真夜中にホームを抜け出してこの家にやってくるとは、一体どういうつもりなのでしょうか。
 
祖父が亡くなったときから、祖母はホームに預かってもらっています。たまに、この家にやってきていることは知っています。祖母は祖母なりに、私にばれると怒られる、と思っているのでしょう。私がいない時を見計らって、この家に入っては何かをして帰って行きます。冷蔵庫の中の物で煮物を作ったり、納戸の中からコートを出したり、祖父のワイシャツにアイロンをかけたり、たぶんこの家で日常的に行っていたことをやっては、それで心が満たされるのでしょう。ひとしきりやると、自分でホームに戻っていきます。帰ってきた私は、その様子を見て、煮物やコートやワイシャツを片付けてため息をついていました。
 
時には、私に意地悪かいたずらをするつもりなのか、テレビをつけっぱなしにしたり、電話の子機を隠したり、冷凍庫のアイスクリームを出しっぱなしにしたりもしていましたが、これも仕方がないとため息で片付けられる範囲でした。
 
でも、今回は少し事情が違います。まるで、何かを予告するかのような、何かを知らせようとするかのような、そんな奇妙な行動です。しかも、老女がホームを抜け出して夜中にやってくるなど、尋常ではありません。
 
なにか、いやな予感です。
 
額も痒みばかりではなく、少し腫れてきているようです。かゆみ止めの軟膏をつけても一向に治まりません。
 
はっきりしない天候もあって、苛々した気分の晴れない一日です。
 
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大雨

DATE: 08/10/2009 22:54:41
 
朝の大雨で、家の前の川は増水して、今にも玄関に溢れてきそうです。
 
一度、玄関の引き戸を開けて川の様子を見たきり、恐ろしくなって玄関を閉めて、雨の音がなるべく聞こえない奥の方の部屋に引きこもっていました。
 
雨が小降りになった頃、J子さんがやってきたのですが、私が「雨は大丈夫だった」と声をかけるより先に、玄関のやもりのことをしゃべり始めました。
 
確かに異常なことなので、J子さんが興奮するのもわからないではありません。
 
昨日の夜から、どんな風に答えようかと考えていたのですが、何を言ったところで彼女の心配がなくなるわけではありません。
 
そこで、正直に祖母がやってきたらしい、という話をすることにしました。
 
J子さんは顔を曇らせたものの、祖母の話は彼女もよく知っていたので、ようやく納得したらしく、濡れた上着を乾かし始めました。
 
家の前の橋のことが心配だったのですが、J子さんは私の額の腫れ物の方が気になった様子です。確かに、昨日よりも随分腫れてきて、いつのまにか小指の先ほどにもなっています。明日病院に行くことを伝えると、これも納得した様子で、お昼ご飯の準備を始めてくれました。
 
午後は、もっぱら祖父の遺品整理です。今日開けた箱には、鬼瓦の資料や機関車の車輪の資料などが入っていました。
 
私は、一生懸命J子さんと無駄話をしながら作業を続けました。この間から、遺品整理をしていると、祖父の生活が自分の生活のように感じられてしまう奇妙な感覚に襲われてしまうからです。その感覚にとらわれ始めると、何故か不安になってしまいます。そのため、J子さんとおしゃべりを続けて、なるべくそのような状態に陥らないようにしなくてはなりません。
 
知らず知らずのうちに汚れた手で触っていたのかもしれません。額の腫れ物が熱を帯びてきたような気がします。
 
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診察日

DATE: 08/11/2009 22:25:15
 
明け方に大きな地震があって、布団から飛び起きました。かなり長い地震だったので、部屋の隅に身をかがめて家全体がぎしぎし鳴るのを聞いていました。女ひとりきりだと、ただもう恐ろしいことが過ぎ去っていくのを待つほかありません。長い揺れの最中に、奥の部屋で何かが落ちる音が聞こえましたが、どうすることもできません。
 
ようやく揺れが治まって、時計を見ると朝の五時過ぎでした。まだ早いのでもう一度寝ようかと思いましたが、不安と興奮で、もう寝つけるわけもありません。
 
仕方なしに起き上がって顔を洗っていると、その水がぬめっているので何だろうと思ったら、額の腫れ物が破れて膿が溢れてきていました。いつの間にこんなにも膿んでいたの知れません。
 
寝不足のうえに、額に腫れ物ができてしまって、まったく見られたものではありませんが、それでも今日は診察の日です。嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な思いです。顔が明るく見えるように、檸檬色のワンピースを着て出かけました。
 
あの人は、やはり額の腫れ物について尋ねてきました。J子さんと同じように、私は祖母がやってきたことなどを話しました。あの人は、随分興味深そうに聞いた後、これから先、祖母がやってきたら詳しく話してくれるように、と言われました。確かに、祖母の行動は少し常軌を逸しています。決して特別な意味ではなく、あの人が心配してくれるのももっともです。特別な意味などあろうはずもありません。あの人には、とても可愛い婚約者がいるのですから。
 
皮膚科で額の腫れ物を診てもらった後、薬をもらって帰りました。
 
祖母の話をしている時に、あの人が心配そうに私のことを見てくれる表情が忘れられません。
 
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井戸の草履

DATE: 08/13/2009 23:02:31
 
もうじき祖父の一周忌になります。
 
一周忌が近づいてくると、おばあさまがやってくる頻度も高くなるかもしれませんよ、というあの人の言葉を思い出しながら朝の掃除をしていると、あまり近寄りたくない井戸の脇に、何か見慣れぬものをみつけました。よく見ると、それは祖母がよく履いていた利休ねずみの草履です。
 
昨夜も祖母がやってきたようです。
 
ただ、井戸の脇にこんな風に揃えて置かれると、胸騒ぎがして落ち着きません。他の部屋の掃除をして忘れようと思うのですが、不安ばかりは正体がわかるまで消えるものではありません。仕方なしに懐中電灯を持ってきて、井戸の中を覗いてみることにしました。
 
お腹を井戸の縁に乗せて、上半身を井戸の中に入れると、中は湿っていて首筋にから涼しい空気が当たってきます。その姿勢のまま、懐中電灯をつけて井戸の底を覗いてみるのですが、ずっと深いところに暗い水面が見えるだけです。それでも、見える範囲を隈なく調べていると、不意に誰かに後ろから押されたような感じがして、思わずつま先が浮きそうになってしまいました。足が浮いてしまうと、重心が上半身に移って真っ逆さまに井戸の中へ落ちてしまいます。慌てて、足を踏ん張り直して、体を井戸から抜きました。もちろん、誰かに押されたのは錯覚でしょう。
 
井戸の中に祖母はいなかったようです。こんな風に、私を混乱させて翻弄して、
 
それを楽しんでいるつもりでしょうか。
 
ただ、次の診察の時にあの人に話す話題ができました。
 
久しぶりの青空に、家の中に風を入れました。
 


 

腫れ物と剃刀

DATE: 08/13/2009 23:35:56
 
額の腫れ物が痒くて仕方ありません。
 
一昨日膿が出て、それがかさぶたになっていたのですが、処方された塗り薬では痒みは取れず、難渋するばかりです。
 
額という場所のせいなのでしょうか、痒さばかりが気にかかってまったく何も手につきません。
 
かさぶたはずいぶん膨らんでいて、今にも取れそうです。
 
裁縫箱から太めの針を取り出して、かさぶたを突いてみましたが、別段痛みもありません。もう少し大丈夫かと思い、かさぶたに刺すようにしましたが、これも取り立てて痛みを感じるわけではありません。
 
そこで、引き出しから長いこと使っていなかった剃刀を取り出し、刃の部分に巻いてあった布を外しました。刃は少し錆びていましたが、十分に使えそうです。
 
毛抜きでかさぶたをつまみ、剃刀の刃をその根本に当てて、その姿勢のままちょっと躊躇いました。けれど、そんなことをしているとますます痒みが増してきてしまいます。かさぶたを取ってしまえば痒みが消えるかもしれない。そう思うと、あとは剃刀の刃を引くだけです。
 
ゆっくりやるより素早くやった方が怖くはないだろう。
 
そう思ったら、その気持ちのまま、息を止めて剃刀を一気に引きました。
 
一瞬、何も感じませんでした。が、次の瞬間、激しい痛みが走りました。私は思わず声にならない声を挙げました。その時、奥の部屋で、女の悲鳴が聞こえたような気がしました。
 
痛みの次に、噴水のように額から血が噴き出しました。目の前の鏡台がたちまち血に染まり、畳に血が飛び散りました。レースが可愛らしい白いワンピースも胸から下が血に染まっていきます。
 
血のあまりの勢いに、私は気が動転して、失神しそうになってしまいましたが、すぐに手で押さえて洗面所に駆け込み、カット綿などで傷口を押さえました。
 
しばらくは、カット綿が赤く染まって血がしたたり落ちるほどの勢いでしたが、何度も交換するうちにやがてその勢いも止まりました。
 
傷口を治療して包帯を巻くうちに、激しい痛みと熱が出てきてしまいました。
 
夕方から横になり、いま解熱剤で熱はいくらか下がっています。
 
額は痛みが走りますが、痒みよりも耐えられます。
 
私は時々、こんな思い切った行動を採ってしまうことがあります。曖昧なことが続くとその状態に耐えられなくなって、事態が悪くなろうとも関係なしに、その状況を打破するような行動を採ってしまうのです。
 
今回もその行動が出てしまったのでしょう。
 
痛みが波のように訪れる合間に、そんなことを思いながら、でも痒みがなくなったことに安堵を覚えていました。
 
→次の夜
 


 

幻肢痛

DATE: 08/14/2009 23:41:08
 
深夜に、家のどこかでまた、一定の間隔で何かを打ち込む音が聞こえてきて目が覚めました。その音の一回一回が、熱を持った額の傷に響いて、そのたびに激しい痛みが走ります。まるで、私の額に何かを打ち込まれているような感覚です。
 
けれど、あれは夢だったのでしょうか。近頃は、目を覚ました後、そうした出来事が夢だったのか現だったのか、わからなくなることがしばしばあります。夢が真に迫っているからでしょうか。それとも、起きている時間に現実味がなくなっているのでしょうか。
 
夢を引きずっているのか、今でも額の真ん中が痛くてたまりません。
 
そこに何かあるかのような違和感が消えず、それが痛みを生み出しているかのようです。
 
包帯を取って確認してみると、傷は深くて腫れ物があったところはまるく穴が空いたように窪んでいます。もちろん、そこに穴以外になにかあるはずもありません。じっくり見て納得したつもりでも、やはり何かあるような感覚は消えません。まるで、手や足を切断された人がないはずの手足に痛みを感じる幻肢痛のように、あるはずもない何かの感覚を感じています。それを取り除きたくてたまらないのですが、存在しない幽霊のようなものを取り除くことなどできるはずがありません。
 
けれど、額の真ん中が痛くて痛くてたまりません。それを取り除けば、きっとこの痛みから逃れることができるはずです。
 
何の根拠もなく、そんなことを思いながら、一日うめいて過ごしました。
 
→次の夜
 


 

薄笑いの女

DATE: 08/15/2009 23:01:04
 
私の家の玄関には、男物の靴が置かれています。
 
若い女性の一人暮らしは危ないので、亡くなった祖父の靴をそのまま残してあるのです。
 
けれど、それも相手が女性だとあまり効果がありません。
 
その女は、まるで私の心を見透かすように玄関先に現れました。暑く湿った空気の間から出てきたようなぬめりとした薄笑いを湛えた気味の悪い女で、手に果物の籠を持っていました。
 
相変わらずの額の痛みに苦しんでいた私は、挨拶代わりにと差し出してきた果物籠を断ろうと思ったほど、話をするのさえ辛い状態でした。
 
けれど、彼女の話は非常に興味深いものでした。
 
家の奥にある能面を買いたいという申し入れです。
 
さらに、そのお面が災いをもたらしているので、すぐにでも手放した方が良いと言うのです。その上、三和土から私の方を見上げて、その痛みもなくなります、と言うのです。
 
なぜ、能面のことを、私の額の痛みのことを、知っているのでしょうか。その時は気になりませんでしたが、今になってみると不思議です。
 
いきなりのことで、私はすぐに答えることができませんでした。
 
その気持ちを察知したかのように、また明日来ます、と言って、その女は去っていきました。
 
その間、ずっと薄い笑顔を浮かべたままで、表情ひとつ変えませんでした。
 
私は引き戸を閉めて、しばらくの間、その前でじっと気配を伺っていました。女の足音が聞こえないので、ずっと引き戸の向こうに立っているのではないかという気がしたからです。五分くらいして思い切って引き戸を開けてみると、そこには誰もいませんでした。
 
果物籠を台所まで持っていって開けてみると、すべての果物の隠れていた部分が腐っていました。
 
それにしても額が痛くてたまりません。
 
あの女の提案を受け入れた方が良かったのではないかと、後悔しています。
 
→次の夜
 


 

地獄の責め苦

DATE: 08/16/2009 23:47:58
 
額の傷は、まるで地獄絵で見た鬼の責め苦のように休むことなく続いています。痛みの苦痛に加えて、眠れない苦痛が加わって、次第に体も気持ちも衰弱していくのがわかります。
 
数えてみるとまだ三日しか経っていないのに、もう一月以上苦しんでいるような心持ちです。地獄で餓鬼は、このような苦しみを終わりなく受け続けるのでしょうか。
 
なに一つまともに手がつかず、洗濯や掃除はもちろん、食事さえもろくに作れません。とはいえ、作れたところで食欲もなく、大して食べることもできないのですが。
 
心のどこかで、あの女が早く来ないかと待ち望んでいました。
 
夕闇が濃くなってきた頃、玄関に人の気配を感じて出てみると、あの女が立っていました。
 
引き戸を開けると、不貞不貞しい飼い猫のように私の脇をすり抜けて入ってきました。まるで、私が招き入れるのは当然だというような態度です。
 
けれど、それを拒むことはできませんでした。
 
女が上がり框に足をかけたとき、一瞬断ろうかと思いましたが、それも額の痛みに打ち消されました。
 
能面を見せるだけだ、と自分に言い聞かせながら、私は黙って女を家の奥へと案内しました。
 
そこは、祖父の葬儀の日以来、恐ろしくて開けたことのない部屋です。
 
その襖の前で、私は開けるのを躊躇いました。けれど、女はかまうことなく襖を開けて、その部屋の中に入っていきました。まるで、よく知っている部屋に入る時のように、真ん中まで進むと灯りの紐を引いて部屋を明るくしました。
 
戸口に立ったまま、私は部屋をのぞき込みました。鴨居にいくつもの能面が飾られています。その一番奥に、ひとつだけ異様な能面が飾ってあるのがわかります。
 
それがなぜ異様なのか。その能面の額には五寸釘が打ち込まれていたからです。
 
決して外さないように、ずっと昔から、その能面には釘が打たれていたのです。
 
けれど、私は何となく感じていました。その釘を外したら、私の額の痛みもなくなるかもしれない。しかも、女が買い取ってくれるというのなら、何かよからぬ事が起こるとしても、私の身に降りかかることはないかもしれません。
 
女はその面の下に立って、私を振り返りました。顔には相変わらず、薄笑いを浮かべたままです。
 
女は、どこに持っていたのか知れない釘抜きとペンチを私に差し出しました。
 
餌に誘われるように、私はそれに手を伸ばしかけて止めました。何かが気にかかっていました。それが、どうしても気にかかって、私は低い声で呟いていました。
 
帰って…。
 
女はよくわかっていないようでした。そこで、私はさらに繰り返しました。
 
帰って…。帰って…。
 
さらに、さらに。
 
帰って…。帰って…。帰って…。
 
気がつくと、女は玄関を出て行くところでした。相変わらず、薄笑いを浮かべながら、また改めて、と言って女は闇に消えていきました。
 
薄暮の中に薄笑いが浮かんで、その時、ああ、なぜ気味が悪く思ったのかがわかりました。
 
女の薄笑いの口の中に微かに見えていた歯が、全部くすんだ色の金歯だったからです。
 
→次の夜
 


 

御札

DATE: 08/17/2009 22:53:22
 
額が痛くて、もう気が狂いそうです。
 
これはきっと幻肢痛という痛みの幽霊みたいなものにちがいない。
 
本当は痛くも何ともないのだ。
 
何度も、自分に言い聞かせるのですが、そんなことで痛みがなくなるわけではありません。
 
痛みを押して、近くの神社まででかけ、御札を頂いてきました。
 
その御札を胸に忍ばせながら、でも痛くて痛くて、涙が溢れ出てきてしまいます。
 
もう、この痛みから逃れるためなら、どんなことでもやってしまいそうな気分です。
 
→次の夜
 


 

昨夜、抜きました…

DATE: 08/18/2009 22:56:36
 
薄笑いの女が持ってきた釘抜きとペンチが、気になって仕方ありませんでした。
 
御札をもらってきたのも、昨夜のその目的のためだったのかもしれません。
 
私は昨夜、額の痛みに耐えかねて、ついにあのお面の額の釘を抜いてしまったのです。
 
その後、額の痛みは、嘘のように引いていきました。その急激な変化が、かえって私には恐ろしいものに感じられました。
 
釘を抜いた能面を手で掴むと、ぐにゃりとして体温のようなものが感じられました。私は驚いて、お面を取り落としそうになりました。
 
少しの間でも持っているのが恐ろしくて、私は仏壇の下にしまっていた骨壺のの箱に入れると、昨日もらってきた御札で封印しました。
 
そのまま、押し入れの天井の羽目板を外して、そこに置きました。
 
羽目板を戻すときに倒してしまったのかもしれません。ゴトリという音がして、私の背筋は凍りつきました。
 
 
恐ろしいことをしてしまった……。
 
 
けれど、
 
今日は、なんと清々しい日でしょう。心が晴れ晴れとして、体も軽く、久しぶりに洗濯と掃除をしました。
 
病院でも、いつになく健康な様子にあの人も驚いていました。
 
額の傷もなくなり、痛みも残っていません。そのことも、あの人は安堵した様子でした。
 
夕飯には、鰯の丸煮、なすの煮浸し、茗荷の酢漬け、海老の湯葉巻き、がんもの大葉かけなど、多すぎるくらいの料理を作ってしまいましたが、久しぶりの食欲でいつの間にかすべて食べ切ってしまいました。
 
→次の夜
 


 

天井裏

DATE: 08/19/2009 23:25:53
 
朝起きたら、今日も体は軽く、何でもできそうな気分でした。額の痛みが、どれほど私を縛りつけていたのかが改めてわかります。
 
ただ、心の奥の方で何か引っかかっているものがありました。額の痛みを消すことと引き替えに、非常に重要な取り引きをしてしまったような気がしてならないのです。
 
夕方から台所に入って、海老と貝柱のかき揚げ、なすのはさみ焼き、おくらとツナのサラダ、カジキマグロのソテー、冬瓜の煮物など、十品目もの料理を作ってしまいました。一人なのに、なぜこんなにも多くの料理を作っているのでしょうか。たぶん、痛みの束縛から逃れた喜びのためなのでしょう。
 
それを食べきってしまった午後八時くらい、奥の能面の部屋でカタッという物音が聞こえました。
 
耳を澄ませてみたのですが、それきり静まりかえっているので、あまり気にも留めませんでした。
 
午後九時半くらいにトイレに行こうと廊下を歩いていると、また能面の部屋から同じ音が何度か続けて聞こえてきました。しかも、意志があるかのように断続的に聞こえてくるのです。廊下の途中で立ち止まって聞いているうちに、やがて終わりましたが、その音が空耳でないことははっきりしました。
 
十二時くらいに布団に入ろうとすると、天井裏で何かが動き回っている音が聞こえてきました。鼠でしょうか。だとすれば、カタッという音も鼠だったのかも知れません。
 
先ほどから、ずっと天井裏を動き回っているようです。
 
→次の夜
 


 

家紋

DATE: 08/20/2009 23:02:39
 
お手伝いのJ子さんは、やってくるなり私の顔を見て驚きの声を挙げました。まさか、額の腫れ物が跡形もなくなっているとは思いも寄らなかったようです。
 
そんな彼女の様子を見て、思わず大きな声で笑ってしまいました。その笑い声に、彼女はまた驚いたようです。
 
なかなか進まないことで、半分諦めかけていた祖父の遺品整理も、今日は効率よくできそうな気がしました。必要のない物は捨ててしまえばいいのだ。そう考えると、今まで悩んでいたのが愚かしく思えてきます。
 
J子さんと二人で、おしゃべりをするような余裕もなく、祖父の残した段ボールの山を一つずつ切り崩していきました。
 
お昼ご飯も手早く済ませ、結局気がつくと、J子さんの帰る時間になっていました。
 
さすがに働き者のJ子さんも疲れた様子でした。けれど、そのお陰で段ボールの山は随分と減りました。
 
彼女が帰った後も、続きの作業をしていると、妙に気にかかる箱にぶつかってしまいました。それは家紋の資料の箱でした。
 
祖父が集めた様々な家紋とその歴史の資料が、膨大な量になって箱に詰め込まれていました。上の方から順々に見ていくと、当然ながら自分の家の家紋に興味がわいてきます。私の家の家紋は、菱形の中に鎌のような形のものが三本突き出しているものでした。探してみると、その家紋の意味がわかりました。
 
五徳をかたどった家紋だったのです。
 
五徳とは、火鉢などで煮炊きをするときにやかんや鍋を置く三本足の鉄製の道具です。なぜ、そんなものがうちの家紋になったのでしょうか。もしかしたら料理などを作ることを生業にしていたのかもしれません。
 
夜になると、天井裏でまた物音がし始めます。明日、殺鼠剤でも買ってこようかと思います。
 
→次の夜
 


 

天井裏の女

DATE: 08/21/2009 22:58:52
 
天井裏の鼠を退治するために、薬局で強力な殺鼠剤を買ってきました。
 
殺鼠剤を買ったのも、実は天井裏の物音の正体が鼠だったらいいのに、という願いからきていたのかもしれません。
 
能面の部屋に入って部屋の真ん中に立ち、手に持った懐中電灯を何度か点けたり消したりしながら、押し入れをしばらく見つめていました。
 
その押し入れの天井裏に、祖父の骨壺の箱に入れて、あの能面を葬ったはずです。でも、天井裏から音がする…。
 
その襖を開けるのを、何度か躊躇いました。
 
夕方になる前にやった方がいい…。
 
意を決して襖を開けました。部屋の中とはまた違った空気の匂いがして、不安な気持ちが強くなってきました。踏み台を使って押し入れの中段に上り、天井板を外して、点灯させた懐中電灯を持った右手を天井裏に突っ込みかけて、ふと考えました。
 
両手が自由でないと、いざという時に対応できなくなるのではないかしら…。
 
押し入れの中に手拭いがたたんであったので、それを頭に巻いて、そこに懐中電灯を差すことにしました。おかしな格好をしていることはわかっています。けれど、誰が見ているわけでもありません。それよりも、不安感を消すことの方が大切でした。
 
懐中電灯の明かりが自分の正面を照らすことを確認してから、ゆっくりと頭を天井裏に入れていきました。
 
闇の中を懐中電灯の明かりが照らし出します。けれど、何がいるわけもありません。体ごと回転させるようにして反対側を向いてみると、目の前にあのお面を入れていた箱が置いてありました。でも、少し様子が変です。置いたときには立ててあったのが、倒れているのです
 
両手を伸ばして箱を掴み、持ち上げかけたところで、視線を感じました。
 
あたりをゆっくりと見回しましたが、何もありません。もう一度、箱を持ち上げて少し横にずらしたところで、思わず息を呑みました。
 
そこに、あの薄笑いの女がいたのです。女は微動だにせず、私の方をじっと見つめて薄笑いを浮かべています。懐中電灯の明かりの中に浮かび上がったその目は、何を考えているのかわからない気味の悪い光を放っていました。あまりのことに、私は声も出ませんでした。
 
けれど、すぐにそれがあの女ではないことに気づきました。それは、箱にしまい込んだ能面だったのです。
 
ようやく落ち着きを取り戻しかけたとき、自分の足が震えていることに気づきました。
 
でも、明らかに不自然です。
 
よく見てみると、箱に貼ってあった御札は破られ、蓋は開けられて、能面は天井裏の梁に立てかけるように置いてあります。誰かが作為的にやったことに間違いありません。
 
祖母です。
 
また、祖母がやってきたのです。
 
箱を下に下ろして、能面も下ろそうと手に取ったとき、顔に当ててみたいという強い思いに駆られました。
 
つけるわけではない。一瞬だけ、顔に当てるだけだ。
 
そう言い聞かせる自分がいました。
 
その思いがあまりに強くて、どうしても抗うができなかったからです。
 
私は、一秒だけ、自分に言い含めて、面を顔に当てました。
 
それはあまりにしっくりと自分の顔にはまりました。罪悪感が消えて、悩みが消えて、何かが晴れ渡っていくような幸福感が訪れる気配がしました。その時、私の方の後ろで誰かが何かを言ったように思いました。
 
急に怖くなって面を外しました。
 
心臓が毀れそうなくらいどきどきしていました。
 
振り返ると、そこに鞘から抜かれたむき身の日本刀が二本、置かれていました。
 
→次の夜
 


 

ひどすぎる

DATE: 08/22/2009 23:45:23
 
あの人はひどすぎます。
 
この間の診察の時に、もう一度能を観に行きたいと言ったのは確かに私の方です。けれど、笑顔で応じてくれたにもかかわらず、約束の日の今日、結局姿を現さないとは信じられません。
 
私は、蒸し暑さが残る夕方の能楽堂前でずっと待っていました。夕暮れが宵に変わり、観客たちが笑いながら入場していくのをじっと見ていました。
 
最初は、何か急用ができて遅れているのではないかと思い、時間を過ぎたら、来る途中で事故にでも遭ったのではないかと心配になり、開演して狂言が終わる頃には、さすがに少し苛立ち始めていました。
 
あの人が約束を破るはずはない。
 
何度も繰り返しそう思っていましたが、実はそう信じたかっただけなのかもしれません。
 
結局、舞台が終わってもやってきませんでした。
 
観客たちが帰った後、まだひとり残っている私の方へ、係員の女性が歩いてくるのがわかりました。私は声を掛けられるのが嫌で、ベンチから立ち上がって、能楽堂の門を出ました。
 
ひどい仕打ちです。
 
来たくないのなら断ればいいのに。
 
帰り道、いろいろなことを考えているうちに、初めて憎悪の感情が一瞬顔を覗かせましたが、すぐに消えました。
 
家に帰って、真っ先に能面の部屋に行きました。あの泥眼の面を一秒間だけつけよう。
 
なぜそう思ったのかわかりません。
 
でも、面を手にとって顔に当ててみると、夕方からずっと続いていた苛立ちが、波が引くように消えていくのがわかりました。その気持ちのいいこと。一秒間だけのつもりが、もっと長い時間つけていたかもしれません。
 
また耳の後ろで誰かの声が聞こえました。
 
急に恐ろしくなって、顔から面を外しました。
 
もう二度とこの面をつけてはいけません。
 
もう二度と。
 
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誰かが見ている

DATE: 08/23/2009 23:44:35
 
昨日、裏切られた衝撃があまりに大きくて、結局ほとんど眠ることもできずに朝を迎えました。
 
明るくなってみると、いくらかいろいろなことを考えられるようになってきます。
 
昨日、あの人が来なかったのは何かの間違いかもしれない。私が日にちを勘違いしていただけなのかもしれない。
 
もし私の勘違いだったとしたら、いつが約束の日なのだろう。
 
そう思って、病院に行った火曜日の日記を読み返してみました。
 
ところが、そこに能を観に行く約束をしたという記述は一つもありませんでした。念のために、別の日の日記も読み返してみましたが、どこにもそんなことは書いてありません。
 
そんなわけはありません。確かに約束はしたし、確かに日記には書いたはずです。日にちを間違えたとしても、日記に書いたことまで私が忘れるわけがありません。
 
だとすれば、考えられるのはひとつです。
 
以前からうすうす感じていたのですが、誰かが、この日記に手を加えているのではないでしょうか。
 
そう考えると、背筋が冷たくなってきました。
 
→次の夜
 


 

面がない

DATE: 08/24/2009 22:00:07
 
あのお面をつけてみようなんてつもりは、毛頭ありませんでした。
 
ただ、昨日一日我慢したのだから、見るだけならいいだろうと、お面をしまっておいた能面の部屋の押し入れを開けてみたのです。
 
ところが、その場所にあのお面はありませんでした。
 
そんなわけがありません。確かに私は一昨日そこに置いたのです。
 
私は、押し入れの中を隈なく探してみました。けれど、やはりありません。
 
ないとなると、気持ちが落ち着かなくなってしまいます。
 
能面の部屋の中を探し、やはりないとわかると、廊下から次の部屋へと探す範囲を広げていきました。
 
けれど、どこにも見当たりません。
 
次第に、苛立ちが募ってきました。
 
あのお面を見たくて仕方ありません。できれば、一秒間だけ顔につけてみたくてたまりません。そうすれば、この苛々した気持ちがすべて消え去ってくれるのに…。
 
結局、夜になってもお面はみつかりませんでした。
 
ここまで来ると、私が忘れているのではありません。明らかに、誰かが隠しているのです。
 
決まり切っています。
 
そんなことをするのは、祖母以外にいません。
 
でも、なぜそんなことをするのでしょう。
 
怨めしくてたまりません。
 
→次の夜
 


 

白無垢

DATE: 08/25/2009 23:12:51
 
土曜日の一件があった後も、あの人から連絡はありません。
 
一体、どういうつもりなのかわからないまま、診察の日になってしまいました。
 
行こうかどうしようかと昨夜は迷っていたのですが、起きてみるとそんな迷いもなくなって、いつものように鏡の前で化粧をしている始末です。
 
いつもは持って行かないのですが、今日はサンドウィッチを少し作って持って行くことにしました。普段なら考えるだけで結局持って行かないのですが、今日はなぜかそんなことはお構いなしで、迷惑だろうがなんだろうが、渡してきてやるつもりで家を出ました。
 
なんて言ってやろうかしら、と考えながら向かう道すがら、ちょっと心が浮き立っていることが怨めしくてなりませんでした。
 
診察室に入っていくと、あの人はいつもと全く変わらない笑顔で迎えてくれました。土曜日のことはもちろん、詫びの言葉ひとつありません。それが憎たらしいような、でも仕方のないような、少し情けなくて安心した気分になりました。
 
私は、さりげなく土曜日のことを聞いてみました。すると、あの人は笑いながら、婚約者と結婚式の衣裳を選びに行っていたと言いました。
 
それを聞いた途端、今までの気持ちが大きく変わりました。急に、目の前にいる人に、憎しみの気持ちが生まれたのです。今までも、会っていない時にそんな気持ちになることはありました。でも、本人を目の前にしてそんな気持ちになったことは一度もありません。
 
あの人は、聞いてもいないのに、いろいろ迷った挙げ句、白無垢にすることにした、というような話までしました。
 
先ほどまで、私が微笑ましく思っていた屈託のない笑顔までが、無神経な笑いに見えてきてしまいます。私との約束を破ったうえに、白無垢を見ていたなんて、許すことができるでしょうか。
 
作ってきたサンドウィッチをお昼ご飯に食べてください、と言って手渡して、診察室を出ました。
 
今でも思い出すと、動悸がしてきます。
 
あのときの興奮が蘇るからでしょうか。それとも、憎しみの感情に怯えるからでしょうか。それとも、その両方からでしょうか。
 
驚いたようなあの人の顔が、目の前に浮かんで消えません。
 
落ち着くためにお面を探しましたが、今日もみつけることができませんでした。
 
→次の夜
 


 

祖母の仕業

DATE: 08/26/2009 23:49:47
 
この日記を更新しようとして気がつきました。
 
今朝、このブログにおかしな書き込みがありました。
 
あれは、私が書いたものではありません。祖母の仕業です。やはり、祖母がこのブログに手を加えているのです
 
まったく意味のない馬鹿げた内容ですが、見つけたときはとても不愉快な思いでした。でも、明け方にここにやってきて、このブログを開いているかと思うと、気味が悪くてたまりません。
 
 
気持ちを落ち着けるために、これからあのお面を少しだけつけたいと思います。
 
実は、今日の夕方、ようやく祖母の隠した場所からみつけたのです。お面は納戸の茶箱の中に隠されていました。
 
見つけたときは、何だか行方不明になった愛猫に再会したかのように嬉しかったです。
 
一秒間だけと言い聞かせて顔に当てると、しっくりと顔全体に馴染んで心地よく、しばらくははずすことができませんでした。もう一秒経った、早くはずさなくてはと自分に言い聞かせ、やっとはずしてみると、まるで自分が丸裸にされたように心許ない気持ちになってしまいました。
 
今日は、もうつけるのはよそうと思っていましたが、祖母の書き込みをみつけてこのままでは眠ることもできません。
 
もう一度だけつけてから床に入ります。
 
→次の夜
 


 

客間のざわめき

DATE: 08/27/2009 23:52:01
 
今朝も祖母の書き込みがあったので消しておきました。
 
曼珠沙華に何の意味があるのでしょうか? どうせ、戯言にちがいありません。
 
年寄りのすることなので、あまり気にしないようにしていましたが、くだらないことばかりで嫌になってしまいます。
 
特に、お面を隠すのは許すことができません。
 
ここでは書けませんが、ある場所に隠してあるのでもう大丈夫です。
 
J子さんが来たので、今日も祖父の遺品整理です。
 
この間の家紋の資料はそのままにして、その先の箱へと進むことにしました。
 
祖父の興味は多岐に渡り、ほとんど脈略もないように感じられました。
 
J子さんに言われていたように、私が興味のないものはあってもしようのないものだということで割り切って捨てるようにしていったら、整理の速さが驚くように進んで、夕方に作業が終わる頃にはおおよそ三分の二は片付いてしまいました。
 
J子さんが作ってくれた夕ご飯だけではとても足りないような気がして、彼女が帰った後にさらに五品くらい作ってしまいました。でも、結局食べきることはできません。この頃、いつでもこのような具合です。冷蔵庫の中がたちまち残り物でいっぱいになってしまうのに、それでもたくさん作らずにはいられません。
 
近頃夜になると、家の中に私以外の気配がすることがあります。祖母がいるということではありません。
 
今夜も、だれもいないはずの灯りのない客間に、何人ものひとたちが集まってざわざわしているような気配がしました。恐ろしくて仕方ありませんが、いつまでもそのままにしていたら、もっと恐ろしくてたまりません。勇気をふりしぼって襖の前まで行くと、その気配は一斉に消えてしまいました。開けてみると、そこには誰かがいた形跡も残っていません。
 
ただでさえ広い家で、祖父が死んでからの独り暮らしは心細くてなりません。
 
けれど、今日、新たな発見がありました。
 
そんな心細い思いも、あのお面をつけると消えてしまうのです。
 
なぜ、あのお面が封印されていたのかが、いまではさっぱりわかりません。私にとっては、こんなに心強い味方はありません。
 
→次の夜
 


 

小枝の折れる音

DATE: 08/28/2009 23:26:55
 
さっきから、庭に誰かが来ています。
 
祖母ではありません。
 
もっと大きな者の気配があります。
 
庭木の高い梢が時々ポキポキと折れる音がします。誰かがそこに立っていて、少し動くたびに小枝が折れるのでしょうか。
 
けれど、恐ろしくて、なかなか確かめに行くことができません。
 
祖父が亡くなって、男の人の気配がこの家から消えてから、こうした折に不意に心細さが沸き上がります。そうなると、もう不安でたまらなくなって、眠ることもできません。
 
けれど、こうして書いていると、少し誰かと繋がっているような気がして安心します。
 
また、庭で音がしました。
 


 

庭の女の人

DATE: 08/29/2009 03:04:26
 
不安なままでいると、恐ろしさが募っていくばかりなので、いま庭を見てきました。
 
庭に面した障子を開けて縁側に出ると、ガラス戸にカーテンがかかっています。そのカーテンを開けると、庭が見えます。
 
縁側に出てしゃがみ込んで、カーテンの合わせ目の下の方を両手でつまみ、目だけが覗けるくらいの隙間を作って、そこから庭を見てみました。
 
今夜は空もよく晴れていて、目が慣れてくると庭の様子が次第に見えてきました。
 
最初は、いつもの見慣れている庭の風景でした。
 
けれど、少し違和感がありました。
 
目では見ているのだけれど、焦点が合っていなくてよくわからないような不思議な感じです。
 
じっとそのまま、目を泳がせているうちに、不意に焦点が合ってしまいました。
 
はっきりしない白い靄のようなものが見えた、と思った次の瞬間、そこにいました。
 
私の倍はあるかと思うような大きな女の人が、木と木の間に立っているのです。
 
白い衣服と長い髪の毛に木の枝や蔦が絡みついていて、どこまでが女の人の体なのかがはっきりしません。
 
家の庇が邪魔をして、首から上がよく見えません。仕方なしに、カーテンの合わせ目をさらに下の方へとずらしながら、一層しゃがみ込むような姿勢を取って仰ぎ見ると顔の下の方が見えてきました。
 
口は大きく裂かれていて、そこから木の根っこのようなものが何本も垂れています。さらに上の方へと視線を移していくと、鼻や頬が見えてきて、やがて目が見えてきました。
 
はっと息を呑みました。
 
女の人が、私の方をじっと見ていたのです。
 
一瞬、身動きがとれませんでした。
 
その刹那、小枝が折れる音がしました。
 
女の人が体を少し私の方に傾けてきたのです。
 
私は恐ろしくなって、カーテンを閉めると、転がるように障子の奥へ逃げ込みました。
 
背後で、小枝の折れる音が、立て続けにポキポキポキと聞こえてきました。
 
女の人が、木と木の間から抜け出して、縁側の方へ足を踏み出しているのでしょうか。
 
私は後ろを振り返りもせず、庭から一番離れた部屋へと逃げ込みました。
 
あれからもう一時間くらいが経ちます。
 
庭が遠いので、物音はよく聞こえませんが、その後何の動きもないようです。
 
あのお面をつければ落ち着くかもしれませんが、この部屋を出ることさえ恐ろしくてできそうにありません。
 
こんな時に、男の人がいてくれたらいいのに。
 
あの人の顔が浮かんできます。
 
→次の夜
 


 

鉄輪

DATE: 08/29/2009 23:19:15
 
また、あの人に裏切られました。
 
今日の能舞台です。
 
火曜日の診察の時に、あんなに約束をしたにもかかわらず、開演時間が過ぎてもあの人は現れませんでした。
 
今日もまた、卵、ツナ、ハムとチーズのサンドウィッチを作り、6時半の開演にもかかわらず、私は3時頃から待っていました。
 
けれど、時間になってもあの人は現れません。
 
今日は私がチケットを取っていたので、狂言が終わる頃に会場に入りました。
 
受付で、後から来たら渡してほしいと残りの二枚のチケットを託し、あの人と婚約者と私と三人分の席に一人で座りました。
 
裏切られた、という怨めしい気持ちの反面、まだ来るのではないかという期待の気持ちも少し残っていました。
 
パンフレットを読むと、今日は「鉄輪」という演目です。
 
会場が暗くなってもあの人は現れません。
 
きっと、こんな私を嘲笑っているにちがいありません。
 
けれど、その気持ちも舞台が始まるとたちまち消え去ってしまいました。
 
なぜなら、その舞台は昔、蝋燭の灯りの中で観たあの恐ろしい演目だったからです。
 
けれど、今日は恐ろしいばかりではありませんでした。観ているうちに、次第に恐ろしさを越えて、親しみを感じるようになってきたのです。
 
後半、主人公の女の人は頭に三本の蝋燭を立てて、愛しい人とその恋人を呪います。その蝋燭を立てているものに見覚えがあると思っていたら、うちの家紋で使われている五徳でした。主人公は、五徳に三本の蝋燭を差して、それはもう恐ろしい形相で猛り狂います。
 
私は取り憑かれたように、その姿を目で追いました。体じゅうが火照るように熱くなり、こめかみや手のひらに汗が噴き出し、目が飛び出してしまうのではないかと思うくらい頭に血が上ってきました。
 
なんて、猛々しく美しい姿なのでしょうか。
 
私は、すべてを飲み込みたいと思うほど舞台に集中して見入っていました。
 
終わると、体じゅうが痛みました。ずっと前のめりの同じ姿勢のまま見続けたせいなのでしょう。
 
舞台が終わって会場を出る頃には、私の隣の二つの空席のむなしさなど、取るに足らないことのように思えてきました。
 
外に出て、大きく息を吐くと、ようやく現実に戻れたような気がして、空腹感を感じました。
 
近くの公園の街灯の下のベンチに座って、持ってきたサンドウィッチを広げると、腐敗した匂いが辺りに広がりました。パンを開くと、ハムが糸を引きました。ツナも卵も異臭を放っています。
 
最初から、そんなサンドウィッチを持ち歩いていたのかもしれません。
 
私は少し愉快な気持ちになって、暗い空に向かって細い笑い声を挙げてしまいました。
 
その声に気づいて、一層愉快になって、夜の公園で何度も笑い声を挙げました。
 
→次の夜
 


 

懐かしい幸福感

DATE: 08/30/2009 23:08:11
 
祖父が亡くなってから、あの人の診察とお手伝いのJ子さんに会う以外は、ずっと一人で暮らしてきました。
 
先週末と昨日と、二回も立て続けにあの人に約束を破られてしまうと、私はいよいよ世間から忘れ去られているのではないかという気分になってきます。
 
けれど、昨日の能「鉄輪」は観ておいて本当に良かったです。
 
体じゅうにたぎるような感覚が生まれ、孤独感が消えていきました。
 
舞台からついてきてくれたのでしょうか、帰宅した後も、家の中に誰かが一緒にいてくれるような気がしました。祖父が生きていた頃の、あの安らいだ自宅の感覚。
 
その感覚が懐かしくて、愛おしくて、眠ると靄のように消え去ってしまうような気がして、昨夜はいつまでも起きていました。
 
朝起きて、あのお面をもう一度見てみようと思い立ちました。昨日観た「鉄輪」でも、前シテであのお面が使われていたからです。
 
ところが、しまっておいた場所にお面はありません。昨日は午後から家を空けていたので、祖母が探すには格好の機会だったのでしょう。なんて、憎々しいことをするのでしょう。
 
昨日味わった安堵感が、一気に崩れてしまいました。
 
午前中から午後いっぱいをかけて探してみましたが、広い家のなかです。見つけることができませんでした。
 
疲れと焦燥感で困憊して、台所に座ってボーッとしていると、奥の部屋から誰かに呼ばれたので、思わず「はい」と返事をしてそちらに歩いていきました。けれど、この家で私を呼ぶ者などいるはずもありません。今ならそう思えるのですが、その時は当たり前のように返事をしていました。
 
その部屋の押し入れには、亡くなった祖父の寝間着の入った行李がありました。
 
寝間着を一枚ずつ出していくと、薄青色の寝間着を取り上げたところに、あのお面がありました。
 
私は行李を片付けることもせず、そのお面を顔につけました。
 
まるで、歳の近い姉に出会ったかのように、安堵が心の中に広がっていきました。それは、以前お面をつけたときよりも、一層強いものでした。
 
ああ、一人ではないとは、こんなにも幸福なことなのだ。
 
私はどれくらい長いことそのお面をつけていたか知れません。
 
→次の日
 


 

鍵の付け替え

DATE: 08/31/2009 23:42:19
 
台風が近づいていて、時折強い雨や風が吹きます。
 
房総半島に上陸するかもしれないという予報を聞きながら、鍵屋に電話をしました。
 
今までたびたびあった祖母の奇妙な行動は、年寄りのやっていることと、大目に見ていました。ただ、あのお面をこう何度も隠されると、さすがに安穏としているわけにもいきません。お面の隠し場所を変えても見つけ出してくる執念深さに、仕方なく鍵を付け替えることにしました。
 
私が極端に臆病なせいなのか、郵便配達員にしても新聞の集金人にしても、玄関にやってくる男の人には緊張してしまうところがあります。やってきた鍵屋は、独特の癖のある中年の男の人でした。私は、やはり緊張してしまって、仕事なので仕方ないとわかっていながら、心のうちで、早く終わらして帰ってくれないものかと願っていました。そう考えて作業をしているのを見ていると、わざとゆっくりやっているように思えてしまうので、世間話までもが煩わしくてたまりません。
 
鍵は、玄関の引き戸と勝手口の二箇所にあります。一時間ほどで交換を終え、鍵をそれぞれ三本ずつもらいました。私とJ子さんと、あと一本は予備にしておこうと引き出しの奥の方に仕舞いました。
 
これで、もう祖母が入ってくることはありません。可哀想ですが、そろそろ施設を抜け出してこの家にやってくる習性も改めた方がいいでしょう。そのためにも、良い機会だったと思います。
 
夕ご飯は、また十品目もの料理を作ってしまいました。茶の間に運んで食べ始めたものの、もちろん、食べきれるわけがありません。
 
鍵屋に気疲れしたせいか、ご飯を食べた後に眠くなって後片付けもせずに隣の部屋で少し横になりました。何かの気配を感じて目を覚ますと、少し開いた襖から灯りのついた茶の間が見えました。枕に頭を乗せたまま、襖の隙間を眺めていると、不意に裸足の足がそこを横切りました。寝ぼけているのかと思っていると、また別の足が横切りました。茶の間に誰かがいるのです。私は体が凍りつき、金縛りのように動けなくなってしまいました。そんな私の目の前を、時々白い裸足の足が歩いていきます。
 
私は勇気を出して布団から起き上がると、這うようにして襖まで行き、茶の間をのぞき込みました。
 
誰もいません。
 
私は急いであのお面をかぶりました。恐ろしさが次第に弱まり、心が鎮まっていくのがわかりました。
 


 
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