桐夫のブログ 2007.09
逃亡の記録
dr-kilio 2007/09/02 00:19:30
今日か明日には、鍵屋の妻がやってくる。
彼女は何かを知っている。追い返すわけにはいかない。
とにかく、家の中を清潔にしておかなくては。
今のままでは、空気に血の匂いが混じっている。
家の中を見て回ると、至る所に血の痕が残っている。そのほとんどは、私自身が流したものだろう。
モップを使って拭き取り始めるが、それでは効率が悪く、雑巾を絞って拭くことにする。
傷ついた足の重い体には、辛い作業だった。
何度バケツの水を替えても、拭き取った血によってたちまち茶色く濁ってしまう。
あの夜、私が女から逃げた道筋が、そのままに残っている。
廊下や納戸、ダイニングルームやトイレ…。
必死の逃亡の記録がそこにあった。
作業を進めるうちに、体は辛いが精神的には軽くなっていくのがわかった。
開け放った窓から入ってくる秋めいた風が家の空気を入れ替えて、あの皆既月食の夜の恐怖を遠いものとしてくれる。
問題は仏間
dr-kilio 2007/09/02 01:17:34
問題は、仏間だ。
大量の血を吸った畳。無数の虫ピン。Hくんの父親の大きな体。
仏間に入る襖を開いたまま立ち尽くし、どこからどうやって手をつけたものか、思案に暮れる。
彼の体を起こそうとした時に、背中や腰に刺さった虫ピンのことを思い出す。その時は、鋭い痛みに意識が行ったが、今では彼の血にまみれたピンが私の体に入ったということの方が気になってくる。
玄関から古い靴を、寝室からピンセットとゴム手袋を、キッチンから蓋のある空き缶を、掃除用具置き場から箒とちりとりを、洗面所からブラシを持ってくる。
そうやって、家の中を移動するだけで息が切れる。
仏間に戻ると、靴を履き、ゴム手袋をつけた。そのまま部屋に入る。
いずれにしても畳は処分しなくてはならない。再びピンが刺さることの方が心配だった。
今度は仏間の明かりをつけてみた。
大きな体を仰向けにしてHくんの父親が倒れている。周囲の畳は黒く盛り上がっている。そして、無数の虫ピン。
今夜は、虫ピンを回収することから始めよう。
その作業を済ませないと、死体を動かすこともままならない。
箒とちりとりで、まずは死体の周りの虫ピンを集める。畳の目の間に入ったり、乾いた血と一体化したりして、なかなか掃き集めることはできない。それでも多くの虫ピンが回収できた。回収したピンは、空き缶に入れた。
その後、掃き集められなかった虫ピンを丹念にピンセットで拾い集める。
気の遠くなるような作業だ。
屈んだ辛い姿勢で神経を集中していると、心身共に疲弊してくる。
1時間くらい作業を行ったところで、息をついた。
おおよそ、死体の周囲のピンは回収したようだ。
虫ピンの回収
dr-kilio 2007/09/02 02:20:31
死体の上にかけられた虫ピンは、一層始末に負えなかった。
衣服の皺や隙間に入り込んだものを、取りこぼしないようにピンセットで摘み上げていく。
髪の毛の中に入り込んでいる虫ピンは厄介だった。死体の髪の毛をブラシで梳いて、ピンを畳の上に落とす。
その後、ブラシで髪の毛をめくるようにして、奥に入り込んだピンを探していく。
ひと通り終えたところで、顔に移る。口の中にも、何本かのピンが入っていた。奥に入っているものは無視することにして、口からはみ出しているものだけを集めた。
作業に熱中しているときは意識しなかったが、ふと意識が外れると、目の前のHくんの父親の顔に気づく。
死ぬ直前、私の顔を見たときに哀願するような表情をしたのは何故なのだろう。
その表情の意味がわからない。
ピンを集め終えたところで、体が動かないくらい疲労しているのがわかった。
今夜、これ以上続けるのは無理だろう。
シャワーを浴びることにする。
太ももの傷がまた痛み出した。
金縛り
dr-kilio 2007/09/03 00:20:38
昼過ぎに起きる。
体は、随分軽くなっている。太ももの傷による発熱もだいぶ治まった。
とにかく何かを食べなくてはならない。
料理を作るような気力はまだ生まれず、調理済みのリゾットを電子レンジで温めた。
食事の後、しばらくダイニングのソファーで横になる。
わずか1時間ほど眠っただけなのに、金縛りに遭ってしまった。
体が動かない。誰かが私の体の上に覆い被さってきて、耳元で何かを囁きかけてくる。けれど、顔を動かすことができないため、それが誰なのかわからない。
声は男の声で、そのトーンからゾッとするような怨念が感じられる。
しかもものすごい早口、同じ調子で囁くから、お経のように聞こえる。
聞いているうちに、よく知っている声だということに気づいた。その声の主がわかった途端、囁いている内容も聞き取れるようになった。
「痛い。痛い。何で俺が殺されなくてはならなかったんだ。Yが殺されるはずだったのに。ここに来たためにこんな目に遭うなんて。お前のことを一生かけて怨んでやるからな。ああ、痛い、痛い…」
私の体の上に覆い被さっていたのは、殺されたIだった。
ものすごい早口で息継ぎもなく、さらにものすごい怨みのこもった声で、延々と耳元に囁きかけてくる。
私は、金縛りが解けるまで、Iの声を聞き続けなくてはならなかった。
1時間後、金縛りから解放された時に、私はひどく疲れていた。
家の中の気配を窺ったが、別段変わったところもない。
クローゼットの部屋に、Iの死体を確認に行ってみたが、今は入る気になれなかった。
いずれにしても、Hくんの父親の死体を早くここに入れなくてはならないだろう。
充満した匂い
dr-kilio 2007/09/03 01:42:50
仏間で昨日の作業の続きを行おうと思ったが、金縛りの最中のIの幻覚が生々しく、Hくんの父親の死体に触れるのがためらわれた。
畳も全部はずさなくてはならない。いずれにしても、一日で終わるような作業ではない。
部屋の中は、血の匂いで満ちていた。他の部屋に匂いが漏れるのを嫌って、襖を閉め切っていたために、余計充満してしまっている。
仏壇のある部屋が血なまぐさいというのは、気分のいいものではない。
早めに片づけて、空気を入れ換えなくてはならない。
しかし、畳を運び出すとなると大仕事だ。血を吸っていてさらに重くなっているにちがいない。
普通でも大変なのに、今の体の状態ではとてもやれるとは思えない。
Yのことを考えてしまった。
Yに頼ることができれば、どんなにか楽だろう。
どうなってもかまわないから、今すぐYを呼んで、この状況を見てもらいたいような衝動に駆られる。
しかし、あれから連絡が途絶えているのは何故だろう?
不安がよぎる。
長身で印象のない顔
dr-kilio 2007/09/03 21:05:48
久しぶりの出勤。
みんなに怪訝そうな目で見られるが、具合の悪さを前に出してやり過ごす。
最近、孤立していくのが自分でもわかる。
帰宅後、玄関のベルが鳴った。
訪ねてくる人物はわかっていた。鍵屋の妻だ。週末という話だったのが、一日ずれている。
用心しながら玄関を開ける。
そこには、痩身の異常に背の高い女が立っていた。背は私と同じくらい、あるいは私より高いかもしれない。
黒髪をおかっぱに整えているのだが、顔色が悪い。顔の印象がない感じが不気味だ。
「こんばんは、こんな時間にお邪魔してすいません」
女は丁寧に挨拶した。
「いえ、お待ちしていました」
そう言うより早く、女はスッと玄関に入り込んできた。
玄関から入ると、女はギョッとしたような表情を見せた。その表情のまま、家の中を見回している。まるで、そこに何かを見たかのようだ。
その後、明らかに不愉快な顔を一瞬見せた。
私が家の中に招き入れようとすると、女はそれを頑なに拒んだ。
「ここで結構です」
そのまま、女は玄関先で喋り始めた。
「皆既月食の晩は大丈夫でしたか? 私が何故そんな話をするのか、不思議に思っていることでしょう。問題は、月の周期です。月齢で物事を見てください」
堰を切ったように、一気に喋り始めた。私が口を挟むのを拒むように。
「月齢ってなんですか?」
私が質問すると、一瞬止まってから
「すいません。こっちの耳の鼓膜が破れていて、人の言うことがよく聞き取れないのです」
と言うと、左の耳を突き出した。
左の耳なら聞き取れるという意味だろう。
「月齢ってなんですか?」
「月の周期で作られた暦です。月齢に照らし合わせてよく考えてみてください。主人がこちらに伺ったことは知っています。あの晩は、新月でした。気をつけるように言ったのですが、無駄だったのでしょうか。あれ以来、主人は消息を絶ってしまいました。主人は、あの歯をどうしても取り戻したかったのです。なぜなら、あの歯が私たちを守っていてくれたからです。でも、あの歯はどこに行ってしまったのでしょうか? 先生、主人や歯のことを、なにかご存じありませんか?」
そこまで喋ると、女はまた左耳を差し出した。
「いや、あれ以来会っていないです」
「そうですか。会っていないのですね。わかりました。では、また改めて伺います」
女がいきなり話を終わらせたために、私は慌ててしまった。
「いや、もう少し…」
「え?」
女は、また左耳を差し出した。
私が瞬間的に口ごもると、女は続けた。
「すいません、私、気分が悪くなってしまったので、今夜はこれで失礼します。また、すぐに伺いますから。すいません」
女は、明らかに気分が悪そうだった。質問はたくさんあったが、これ以上、つなぎ止めておくのは忍びなかった。
「先生、お掃除をしてくださいね。また、近いうちに伺います」
女は、夜の中に足早に消えていった。
次の瞬間にはもう思い出せないほど印象の薄い顔と、持て余すような長身。
そんな他人の訪問に、家の中の空気が少しの間変わったような気がした。
女は、一体何をどこまで知っているのだろうか?
そこまで話ができなかったことが悔やまれる。けれど、私に向かって左耳を突き出してくる仕草に、怯えたことも確かだ。
女の残した言葉を、何回も反芻してみた。
夜の掃除
dr-kilio 2007/09/03 23:44:39
鍵屋の妻が去った後、何かを共有できる人間に去られたようで、心細さが襲ってきた。
こんなことは初めての感覚だ。
彼女が言った「掃除してくださいね」のひと言が気にかかった。
彼女が去った後、家の中を振り返ると、確かにそこは掃除が必要なほど荒れていた。
自分では十分にきれいにしたつもりだった。しかし、その感覚がすでにおかしくなっていた。
彼女に言われて改めて見てみると、そこは荒れ放題の家だった。拭き取ったつもりの血の痕もまだ至る所に残っていたし、衣服や家具も散乱していた。
意識してみると、血の匂いと死臭が入り交じって充満している。
そこは、少しも清涼な室内ではなかった。
感覚が狂ってきていることが、何よりもショックだった。
自分の信じていた自分の像が、微妙にずれ始めている。
夜になっていたし、久しぶりの出勤で疲れてもいた。熱も残っていたし、体調も万全ではない。
けれど、自分の感覚がずれていることが恐ろしく、何よりもそれを正したかった。
私は、もう一度掃除に取りかかった。
作業の意味
dr-kilio 2007/09/04 01:51:59
掃除を終えて、このブログを書いている。
おそらく、鍵屋の妻は、この家の匂いや醸し出す異様な雰囲気に不快感を示したのだろう。
そうしたものを早めに一掃しなくてはならない。
足を引きずりながら片づけを行い、拭き掃除をするのは相当重労働だった。
しかし、その作業はただの掃除ではなかった。自分を取り戻す作業でもあったのだ。
いくら時間がかかっても、それだけはやっておかなくてはならなかった。
ただ、クローゼットの部屋と仏間だけは、手をつけることができなかった。
その二部屋は、改めて掃除をすることにしたが、匂いの源泉がこの二部屋にあることも事実だった。
掃除が終わると、発熱していた。
体力を消耗すると、太ももの傷に負担が行く。
まだ、化膿する危険性がなくなったわけではない。少し用心して、今夜は抗生物質を飲むことにする。
女の言葉が気になっていたが、もう疲労も極に達していた。
次第に熱が高くなっている。
奇妙なずれ
dr-kilio 2007/09/04 16:21:28
診療中も、自分の意識している自分と他人の見ている自分のずれについて気になって仕方ない。
自分の体臭が自分では意識できないように、私は他人から見えている私と大きく乖離しているのではないか。
ある意味、それは比喩ではない。あの夜から、私は何度もシャワーを浴び、自分の体についた血の匂いを洗い落としたつもりでいた。けれど、他人にはその匂いが鼻について堪らないかもしれない。殊に、病院のような空間においては、一層強く意識されてしまうかもしれない。
私が気づかないうちに発散している血の匂い。
そう思えば思うほど、患者や歯科助手の行動が気にかかる。
「私」は、私が思うほど確かな「私」ではないのかもしれない。
月の周期
dr-kilio 2007/09/04 18:18:51
気にかかることはもう一つある。
鍵屋の妻が言った言葉のうち、「問題は、月の周期です。月齢で物事を見てください」という一節だ。
一体、月の周期が何か影響しているのか。
このブログを読み返してみれば、何かがわかるかもしれない。
けれど、今はその時間もない。
これを読んでいるみんなの方が、先に気づくかもしれない。
玄関の靴
dr-kilio 2007/09/04 22:46:32
今日は一日、自分と自分の意識していない自分のずれについて、強迫的な思いにとらわれ続けた。
いちいち他人の行動や言動が気にかかる。その緊張感が、疲れを増加させていた。
そのことを考えながら玄関に入ると、不意に今まで意識していなかったことに気づいた。
玄関に、様々な靴が散乱している。
最初の死体の靴、Iの靴、鍵屋の靴、Hくんの父親の靴。
どれもが、この家に上がり込んだまま、いまだにこの家にいる人物の靴だ。もっとも、彼らは帰ろうとしても、もうその靴を履いて自分の足で帰ることはできないのだが。
玄関に自分以外の靴が散乱していることにさえ、今まで意識が届かなかった。
けれど、私に限ってそんなことがあるのだろうか。
他人の靴が脱ぎ散らかされているというのに、片づけようという考えにも及ばないなどということが。
さらに驚いたことがある。
他人の靴は、この4足だけではなかった。
もう1足、馴染みのある靴がそこにあった。
茶色のしゃれた革靴。それは、Yのものだ。
何故、Yの革靴が玄関にあるのか? 一体、いつからあったものなのだろう?
久しくYと連絡のついていないことが頭を巡った。
ここに靴があるということは、Yはこの家にいるのかもしれない。
その思いは、少し嬉しいような少し怖いような複雑な感情をもたらした。
Yがこの家にいるかもしれない。
探さなくては。
Yを探して
dr-kilio 2007/09/05 01:25:58
あの夜以来、初めてクローゼットの部屋に入った。
Yの姿があるとしたら、まずこの部屋から見なくてはならない。
幸い、そこには以前と変わらぬ死体が3体並んでいるだけだった。
女の気配はほとんど感じない。
他の部屋も探してみることにした。この家の中に、Yの死体のないことを願いながら。
結局、3時間以上の時間を費やしたが、Yの姿は見つけられなかった。
では、Yの靴が玄関にあるということは、どういうことなのだろう。
その後、Hくんの父親の死体に防腐処理を施す。
この作業を行っているときが、最も虚しさを感じる。
何故、自分が行ってもいない犯罪の処理をしていなくてはならないのか。
血で膨らんだ畳を、早く処分しなくては。
仏壇の扉が、いつまで経っても開けられない。
きつめの包帯
dr-kilio 2007/09/05 02:17:21
3時間以上もYを探して家じゅうを見て回った疲れだろうか。
熱が高くなって、体が重い。
これ以上、病院を休むわけにはいかない。
傷口の消毒のためにガーゼを外してみると、傷が開いていた。治りが遅くなっているところに、無理をして歩き続けたためだろう。
醜く縫合された傷口を見ていると、もう一度縫合し直したくなる。
もちろん、そんなことをしたら、一層ひどくなるのは目に見えている。
しばらく傷口を観察してからガーゼを当て、きつめに包帯を巻いた。
明け方の夢
dr-kilio 2007/09/05 23:01:40
明け方に夢を見た。
Yが寝ている枕元に座っていた。
久しぶりに見たYの笑顔がそこにあった。
熱があったため、再び眠ってしまった。
再び起きた時、夢の印象が鮮やかだったため、明け方に目覚めた際にYに出会っていたかのような錯覚に陥った。
二度目に目を覚ますと、熱は幾分下がっていた。
ようやく生活に落ち着きが出てきた。
メールをもらったみんなにも、少しずつ返信していこうと思う。
夕方、返信を行う。
月齢
dr-kilio 2007/09/06 00:29:09
鍵屋の妻の言っていた月の周期の手がかりを探して、ブログを読み返してみた。
最初の死体は7月14日、Iが殺されたのが7月30日、鍵屋が殺されたのが8月13日、Hくんの父親が殺されたのが8月28日。
それぞれ、何の脈略もないと思っていたのだが、月齢に照らし合わせると、驚くべきことがわかった。
7月14日は新月、7月30日は満月、8月13日は新月、8月28日は満月なのだ。
新月と満月の晩に、死体が1体ずつ増えている。
月の満ち欠けで海水の大潮や小潮が起こり、生物に様々な影響を及ぼしていることは知っている。
けれど、そのことと殺人とがどのように結びつくのか、それは一向にわからない。
鍵屋の妻は、月の周期で何かが起こっていることは知っているのだろう。
そういえば、私の29本目の歯が疼くのも、新月と満月が近づいた時だ。
月と殺人と歯。
塩の効果
dr-kilio 2007/09/06 02:09:59
台風が近づいてきていて、突然大量の雨が降ったりする不安定な天候。
明日には、上陸するかもしれないという情報も入っている。
台風がやってくる前の不穏な空気が、この家の中にいても感じられる。
私は、鍵屋の妻のひと言以来、家の中が清浄に保たれているか、不安で堪らない。
私の感覚のずれは、常に意識的でなければ修正することができないような気がしている。
再度、掃除をして部屋や廊下の隅まで拭き取っていく。
その後に、病院の帰りに買ってきた大量の塩を要所要所に盛って歩いた。
あの女は、塩に対して嫌悪感を覚えるのかもしれない。
また、塩は清浄さをもたらしてくれる。この家から女の影を消し、清潔さを保つために、塩は最も効果的に思えた。
台風が近づいてくる生ぬるい空気の中で、塩を盛った家の中は少し涼しげな印象になった。
これで、女の気配が遠のいてくれれば、それに越したことはないが、きっと何らかの効果はあるだろう。
傷口から霊が
dr-kilio 2007/09/06 04:00:38
今日も、帰宅してから随分体を動かしてしまった。
そのためだろう、熱がまた上がっていた。
包帯を外して傷口を見ると、またしても傷が開いている。
縫合してから随分時間が経つ。このままだと、傷口が化膿してしまうかもしれない。
そんなことになったら具合が悪い。
明らかに刃物で傷つけられた傷は、病院から警察に通報されるだろう。
そのようになったら、今のこの状況をどのように説明したら納得してもらえるのだろうか。
傷がこれほど治らないのには、何か特別な理由があるのだろう。
あの女に刺された傷だから、治らないということも考えられる。
もしかしたらそれは、医学的な治療でどうかできるような次元の話ではないのかもしれない。
あの女に刺されたことによって、なにか霊的な呪いのようなものが傷口から体の中に、直接入り込んでしまったとしたら。
その霊的な呪いは、ウィルスのように体の中で繁殖を始めようとしているのだろう。
抗生物質も飲んでいるし、消毒も必要以上に行っている。
それなのに、これほど傷が治らないのは、体内に入り込んだ呪いのせいだ。
呪いを取り去るには、今夜室内に盛った塩が最も効果があるはずだ。
そこで、私は塩を一握り掴むと、それを傷口になすりつけた。
刺すような痛みに、思わず悲鳴を上げた。
しかし、次の瞬間、それは喜びに変わった。
私がこれほど痛いのだから、体内に入り込んだ霊的な呪いの苦しみは、この数倍にも及ぶだろう。
そう考えると、傷口にしみ込む塩の激痛には、いくらでも耐えることができた。
私はもう一度塩を掴むと、今度はより傷口の奥まで入り込むようにしてなすりつけた。
先ほどを上回る激痛に、私はうめき声を上げながらのたうち回った。
何度、傷口を洗い流そうと思ったかしれない。
けれど、その思いを振り切って、この行為をさらに3回繰り返した。
傷口はただれ、ひどい熱を帯びた。
それは、呪いを退散させるために、私の体が発する戦いの表現のように見えた。
そのままの状態で包帯をきつく巻いた。
痛みがひどい。
けれど、今夜を乗り切れば、きっと傷はめざましく治癒していくことだろう。
台風
dr-kilio 2007/09/06 21:23:59
昨夜は、傷口が痛んでほとんど眠れなかった。
まるで真っ赤に焼いた鉄を傷口に押しつけているような鋭い痛みと熱さ。
疲れのあまり、明け方に少し眠りに落ちたが、それも浅いものだった。
起きてからも、痛みはやまなかった。
包帯を解くと、傷口だけではなく太もも全体が腫れ上がっている。
太ももに入った呪いが苦しんでいる様子がよくわかる。
もう一度塩をこすりつけようかと思ったが、これ以上やると歩けなくなりそうだったので、とりあえずやめておいた。
熱が高くて、体が重い。
今日は台風で朝から荒れ模様。
こんな天気の中、傷口の開いた足で出歩くのはやめておきたいが、先週休んだ穴埋めをしておかなくてはならなかった。
寝不足、発熱、疲労、開いた傷。
そんな体をひきずって、とりあえず出勤した。
幸い、台風の影響で今日は来院者も少なかった。
歯の治療は、足や腰に負担がかかる。
患者が少なかったとはいえ、この足での治療は心底疲れた。
暴風雨
dr-kilio 2007/09/06 23:03:32
今日一日で、太ももの傷は医学的には相当悪化した。
けれど、きっともうすぐ完治するだろう。
体内から呪いが排出されれば、あとは薬でなんとでもなる。
今は痛みでもだえ苦しむ時期だが、まもなくそれを乗り越えられる。
台風はますます近づいていた。
ニュースでは、河川の増水や洪水に対する注意を呼びかけていた。
傘もさせないような暴風雨の中、痛む足を引きずりながら帰路に就く。
途中でレンタカーを借りる。
なるべく足を引きずらないようにしてレンタカーの営業所に入ったが、やはり運転に支障はないか、念を押された。
傷は左足で、オートマティック車であれば全く問題はないことを主張した。
実際、太ももの傷は運転に全く支障がなかった。
車を家の玄関先まで乗り入れ、それから家に入ると身軽な格好に着替えた。
太ももはますます痛みを増していた。
一日の疲れが傷に影響を与えている。
けれど、私には今やらなくてはならないことがあった。
これから、それを行う。
帰ってきた
dr-kilio 2007/09/07 01:21:19
あれからでかけて、いま帰ってきた。
疲れた。
玄関に座り込むと、もう二度と立てない気がした。
ずぶぬれの体で、こんなところで横になっていたら、ますます熱が上がり、肺炎になってしまうかもしれない。
10分間くらい休んで、何とか立ち上がった。
まず、シャワーを浴びよう。
荒れ狂う川
dr-kilio 2007/09/07 02:09:13
たった今、シャワーから上がった。
疲労が取れず、骨の髄まで侵されているような気分だ。
けれど、眠る前に、今夜あった出来事をここに記しておこう。
レンタカーを玄関先につけて身軽な格好に着替えると、仏間に向かった。
そこには、Hくんの父親が以前見たままの状態で横たわっていた。
私は、Hくんの父親の体を部屋の隅まで引きずっていった。
その後、持ってきたバールを畳の隙間に差し込むと、血を吸って重くなった畳を持ち上げた。
血は畳の下まで及んでいなかった。
ただ、畳は重く、太ももに傷を負っている身では、それを担ぐ力はなかった。
私は畳を引きずって仏間を出た。家具の間を抜け、ドアの間を通し、廊下の角を曲がって、玄関までは長い道のりだった。
そのようにして、畳を玄関まで運び、この作業を6回繰り返した。
仏間に敷かれていた6枚の畳は、玄関先に積み上げられた。
今度は、それを借りてきたワンボックスカーに載せる作業だ。
さすがにこれは、畳を担ぎ上げなくてはならない。
何度も休みながら、どうにか畳を車に収納した。
健康な状態なら、15分間もあれば終わる作業だろう。今夜は、1時間もかかってしまった。
玄関に置かれていたY以外の4足の靴も一緒に車に放り込むと、運転席に座ってエンジンをかけ、台風の夜の暗い道を走らせた。
対向車はほとんどない。
30分間ほど車を走らせると、河川敷のある大きな川に突き当たった。
ただ、台風で増水していて、とても河川敷には降りられないだろう。
しばらく堤防を走ると、都合の良いポイントが見つかった。
車を停めて懐中電灯で川を照らし出す。
黒い水面は、予想していたよりもはるかに近いところ、轟々とすさまじい濁流となって流れていた。ガードレールがあっても、もし足を滑らせたら、と考えると身震いした。
私は、車の後部ドアを開け、積んであった畳を引きずりおろした。
堤防のガードレールの隙間から、川面に向かって滑り落とす。
すぐに懐中電灯の光を当てたが、もうどこにも畳の姿はなかった。
こうして、血を吸った仏間の畳を、次々に荒れ狂う川に向けて投げ込んだ。
台風が去った後、誰もこの畳を不審に思う人はいないだろう。
最後に、死体の4足の靴を1足ずつ川に投げ込んだ。
これは懐中電灯で照らしていたが、あっという間に視界から消えた。
処理が終わるまで、1台の車も通らなかった。
面倒な畳の処理が終わった。
私はこの台風に感謝しながら、暴風雨で前が見えない道を用心深く走った。
体は汚れてずぶぬれで、疲労も極限に達し、太ももの痛みは止まらない。
だが、面倒がひとつ減った。
台風一過
dr-kilio 2007/09/07 23:30:45
町には台風の影響が至る所に残っている。
風は強いが、午後から晴れ間が出る。
昨夜の疲れが出て、体が重い。
とりあえず出勤するが、まるで大きな荷物を背負っているようだ。
太ももの傷は、一層化膿している。
熱を持って太もも全体が腫れてきている。
もっともっと塩をすり込まなくてはならないだろう。
足を引きずっていることは、もはや誰の目にも明らかだ。
診療に支障が出始めている。今日は何とか乗り切ったが、週明けまでにはどうにかしなくてはならない。
塩ではない
dr-kilio 2007/09/08 00:02:52
家に帰ると、門柱の陰に動くものがあった。
何かと思ったら、鍵屋の妻が立っていた。ずっと帰りを待っていたらしい。
「お待ちしていたんです」
「すいません」
なぜ謝らなくてはならないのか納得がいかないが、彼女はそれで満足したらしい。
「こちらもお話ししたいことが」
と言いかけると、右の耳を私に向かって突き出してきた。
もう一度、「こちらにもお話ししたいことがあるんです」と言葉を継いだ。
彼女は大きく頷いたが、こちらのことを聞くでもなく喋り始めた。
「月のことはわかりましたか? やはり、ここでも月の周期で何かが起こっているのですか? そうでしょう。私の言ったとおりです。でも、あの歯が守ってくれます。あの歯は、強い魔除けの力を持っています。だから主人は、どうしても先生から返してほしかったのです。でも、今では先生の方が必要のようですね。足は痛みますか?」
私は頷いた。
「でも、塩が」
彼女は右耳を突き出してきた。
「でも、塩が私を守ってくれています」
彼女は大きくかぶりを振った。
「違います。塩ではありません。先生が守られたとしたら、それはあの歯のおかげです。一体、どんなことがこの家の中で起こっているのか、私は知りません。もし、先生がそのくらいの傷で済んだとしたのであれば、それはあの歯のおかげなのです。塩の力など比べものにならないくらい、あの歯の力は強大です。先生がこの話を信じてくれるのであれば、しばらく、あの歯を先生に預けておきます。でも、必ず返してくださいね。塩になんか頼ってはいけません」
彼女はそう言い残すと、再び立ち去ろうとした。
私には、まだなにも解明されていない。
声を掛けたが、聞こえないようでずんずん進んでいく。
追いかけていって、仕方なく肩を軽く叩いた。
途端に彼女は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
「なにをするんですか!」
私もそんな彼女の様子に仰天してしまい、すぐには言葉が出なかった。
「すいません。声を掛けたのですが、聞こえなかったようなので」
彼女は、ポケットから封筒をひとつ取り出すと、突き出すように私に渡した。
「これに書いてありますから」
そう言うと、長い体を折るようにして走り去った。
私の手に、封筒がひとつ残された。
しばらく、夜の闇の中に取り残された。
太ももが、再び痛みを増してきた。
足の化膿
dr-kilio 2007/09/08 01:19:24
鍵屋の妻の喋り方は一方的なものだったが、彼女の言ったことはその後、いつまでも頭の中に残り続けた。
塩になんか頼ってはいけない。
太ももが悪化しているのではないかと、初めて気がついた。
急に太ももの痛みが増してきた。
寝室に戻って、包帯を解いた。
明らかに傷は悪化し、化膿し始めている。
塩に効果がないとすれば、最悪の治療を施したことになる。
しばらく傷口を観察した。指で押すと、傷口から体液が滲み出してきた。
どうやら私は誤った。
私の中で、再びずれが生まれてきている。
すぐに包帯をすべてはずし、バスルームで傷口を洗った。
ただれた傷口に水を掛けると、激痛が頭の先まで走った。
その痛みに耐えながら、何度も傷口に水を掛けた。
傷口の塩と体液を洗い流したところで、消毒薬を塗った。
一応の処置は終えた。
しかし、化膿が止まったわけではない。
ぱんぱんに腫れた太ももは、極めて悪い症状だ。
壊疽を起こす危険性もあった。
とりあえず、抗生物質を服用したが、それでどうにかなるような状況を超えているのかもしれない。
病院に行くべきか、判断に迷った。
病院に行った場合のことを、シミュレーションしてみたが、どう考えても不審な傷であることに変わりはない。警察への通報は免れないだろう。
体力を温存しつつ、治ることを祈るだけだ。
今夜は、シャワーも浴びずに眠ることにしよう。
上品な佇まい
dr-kilio 2007/09/08 02:12:40
悪夢で目覚めた。
寝汗で髪の毛まで濡れている。
ひどい熱のため、体じゅうが痛い。
悪夢の舞台は廊下だった。
奥に女が立っていた。この家で初めて目にする女は、刑務所と違い、上品な佇まいだった。
女が手招きしている。私は誘われるように女に近づいた。
あと二歩くらいまで近づいたとき、女の形相が一気に変わった。あのときの顔だ。
息をのんだ次の瞬間、女が私の体の中に入ってきた。
この夢に追いかけられそうで、再び眠りに落ちるのが怖い。
→次の夜
39.5℃
dr-kilio 2007/09/09 01:28:10
起きると、39.5℃の高熱。
傷が化膿して、治るどころか悪化しているように見える。
ベッドから起きあがることができない。
思えば、女から噛みつかれた後も、同じように高熱を出して起き上がれなくなった。
包帯を解いて膿を取り除き、消毒をして、また包帯を巻く。
しかし、1時間もすると、傷口に当てたガーゼを通り越して包帯の表面まで膿が滲み出てくる。
少し眠っては、包帯を交換する。
眠ると女に夢に追いかけられる。
眠りが深くなろうとすると、かくれんぼの鬼が私を見つけ出すように、女の夢が現れる。
これを一日何回も繰り返している。
違和感
dr-kilio 2007/09/09 03:03:44
目が覚めても相変わらずの高熱。
重い体をベッドの上に起こし、包帯を交換しようとして、ふと奇妙な感じがした。
何か、違和感がある。
寝室の中をゆっくりと丹念に見回した。
何も変わったところはない。
けれど、違和感は消えない。
気のせいだろうと思ってベッドに身を横たえた。
枕に頭をのせて、ベッドの足元の方にあるドアをぼんやり眺めた。
ドアは廊下の方に向かって開いていた。
目を閉じた。
次の瞬間、悲鳴を上げそうになった。
寝室のドアは閉めたままだった。
寝ている間に、誰かが寝室に入ってきている!
誰かとは、
もちろんあの女だ。
眠っている私の枕元にやってきて、私の顔をのぞき込んでいたのかもしれない。
恐ろしさに震えが出た。
とにかく起きあがり、ドアを閉めた。
閉めるとき、その向こうに女がいるのではないかと、急に不安になったが、それはなかった。
ドアは閉めたものの、不安は消えない。
部屋の明かりをつけたまま、ドアを見ながら気配を窺った。
お見舞い
dr-kilio 2007/09/09 03:33:29
「せっかくお見舞いに行ったのに、ずっと眠っているので、その顔をじっと見ていました」
女が私に語りかけてくる夢を見て目が覚めた。
慌ててドアを見たが、閉まっていたので胸をなで下ろした。
こんな夜を繰り返すのはたくさんだ。
こんな時こそ、誰かがそばにいてくれたら。
Yの顔が浮かんで消えた。
何故、Yは私を避けるのだろう。
最近は、Yの携帯の番号は変更されている。
もはや、連絡を取りたくても取れなくなってしまった。
不思議なのは、なぜYの靴が玄関にあったかということだ。
台風の夜に、他の4人の靴は荒れ狂う川に捨てたが、Yの靴だけは下駄箱に入れてある。
下駄箱に入れた?
いま、何かを思い出しそうになった。
熱のためにぼんやりしてしまって、記憶のかけらを掴もうとした瞬間に、暗い海の底へ消えていってしまった。
眠ると、夢の中へ、そしてこの部屋の中へ、あの女が入り込んで来そうで、恐ろしい。
→次の夜
39.3℃
dr-kilio 2007/09/10 00:00:09
熱は39.3℃。
傷口の状態は、相変わらず悪く、眠っては悪夢に追いかけられ、起きては痛みに苦しむ。
高熱のため、頭が朦朧として、たまに訳のわからない行動をしている。
今は化膿を止めることが最も重要だ。
このままでいくと、壊疽を起こし、左足を失ってしまうかもしれない。眠っている間に女が部屋に入ってくるかもしれない。悪夢に追いまくられ、気が狂うかもしれない。そして、まもなく11日、新月の夜がやってくる。
起きていると、様々な不安が頭の中を巡ってしまう。
心細くてたまらなくなる。
夢の中のY
dr-kilio 2007/09/10 03:08:05
夢の中に、Yが現れた。
その笑顔を見ているうちに、彼の顔が学生時代の顔に変わっていった。
目が覚めてから、学生時代のYのことを思い出した。
学生時代のYと私は、何かというと一緒に遊んでいた。
二人で一緒になって、様々な悪知恵を働かせ、いたずらを繰り返していた。
性格はある意味、正反対だった。
外向的なYに対して、私は内向的だった。弁の立つYに対して、私は寡黙だった。
先生とのやりとりはYが行い、時に先生を言い負かすことさえあった。
けれど、作戦を考えるのは私の方だった。
二人に性格の違いがあることが、かえって相性をよくしたのかもしれない。
二人だけの合図を決めて、それを授業中に先生の目を盗んでやりとりしたりしていた。
その親密さは、少し度を超していたのかもしれない。
二人が一緒にいるといたずらを企てるため、次第に先生から目をつけられるようになり、クラスも別々にされてしまった。
クラスを分けられたのを機に、二人が疎遠になったように見せかけよう、と言ったのは私の方だった。
先生の方針が成功したように思わせておけば、さらに面白い作戦が考えられる。
それは、新しいゲームのように思えた。
そんなとき、二人が通信方法として使ったのが下駄箱だった。
お互いの靴の中にメッセージを入れて、情報を交換し合った。
秘密めいたこの方法が、学生特有の興奮を生み出した。
二人の間を疎遠にしようとした学校側の作戦は、かえって二人の関係を親密なものにしていった。
私の新しい作戦を聞くときの、Yの期待に満ちた悪戯っぽいきらきらした目は、すぐにでも思い浮かべることができる。
いまでも、Yはそんな目をすることがある。
夢に出てきたYの笑顔は、そんな表情をしていた。
→次の夜
靴の中
dr-kilio 2007/09/11 00:38:34
いくぶん熱が下がったが、それでも38.5℃ある。
傷もなかなか治らない。
今日は月曜日なので、出勤しなくてはならない。
出勤はしたものの、左足は引きずっているは、顔色は悪いは、で早退した方がいいと強く勧められる。
自分が思っている以上に、ひどい状態にあるらしい。
早退して家に帰る。
左足が鬱血しているのか、普段履いている靴がきつく感じられる。
下駄箱の中から、ゆるめの靴を探そうとしていると、この間しまったYの靴が出てきた。
その時、ふと思い出した。
学生の頃やっていた、靴を使ってメッセージをやりとりする遊び。
まさかと思いつつ、Yの靴の中に指を入れた。
右足には何も入っていなかった。
やっぱりと思いつつ、左足に指を入れた。
指先が何かに触れた。
ゆっくりと引き出すと、一枚の紙片だった。
その紙片を開くと、見覚えのあるYの字が並んでいた。
「桐夫、久しぶりだね。近頃の君はおかしい。けれど、この手紙を読んでいるということは、昔のことを思い出しているということだ。それならば、昔のように話ができるかもしれない。携帯の番号を替えた。この番号まで電話してほしい」
今までYと連絡が取れなかったのは、Yが私を避けていたからだ。
新しい携帯番号を見ながら、私は懐かしさに震えていた。
Yとの会話
dr-kilio 2007/09/11 01:51:43
「みつけたんだ」
開口一番、Yはこう言った。
そのひと言で、お互いに通じ合う空気ができあがった。
何日も何年も離れていても、一瞬のうちにその時間を飛び越えることができる。
Yとの関係はそういったものだった。
私は話をしながら、改めてその貴重な関係をいとおしく思った。
私の体の奥に溜まっていた澱のようなものが、ゆっくりと解けていく。
たった一人でこの家の中でもがいていた私にとって、みんなからの応援メール以来、久しぶりに体温を感じる時間だった。
私が、悩みを話すまでに時間はかからなかった。
このところ、高熱に浮かされ、悪夢に悩まされ、あまり眠れていないこと。
体力が落ち、疲労が重なっていること。
Yは私の口調から生気が失われていることに気づいたようだ。
すぐにそっちに行くから、とYは勢い込んだ。
その瞬間、Yを求めている気持ちとYを拒絶する気持ちのバランスが崩れた。
精神的にYを頼りにしているが、ここに来られてしまうのは迷惑だ。
まだ、Yに説明できるだけの証拠が揃っていない。
監視カメラには、まだ一度も女の姿を記録できていないのだから。
「いや、それは…」
私は口ごもった。
Yにとって、理由のない拒絶はありえない。
私はやんわりと断ろうとしたことも、Yには通用しない。
Yに対しては、明確な言葉で断るしかないのだ。
そうしている間にも、Yはいますぐこちらに向かってきそうな口ぶりだ。
私は、少しずつ苛立ち始めた。熱のせいか、29本目の歯が疼いてきた。
先ほどまでの温度を感じさせるような楽しい会話は、いつのまにか消えていた。
Yは、まだ悪ふざけ気味にたたみかけるように話してくる。
私は言葉がみつからず、苛立ちだけが募っていく。
「だけど、明日は新月だぞ。今のままじゃ、危ないだろう」
Yの口をついて出た言葉から、何かを知っていることがわかった。
警戒心が強まった。
その分、冷静さが浮き上がってきた。
その次に自分で言った言葉に、自分で驚いた。
「だけど、Y、君はもうじき子供が生まれるんだろう? もうじき父親になってしまうような奴に慰めてもらっても迷惑なだけだ。君は、自分の子供をあやしていればいいだろ?」
Yが電話の向こうで凍りつくのがわかった。
私は、その瞬間を逃さないようにして電話を切った。
不思議だった。Yに子供ができるなどということが、その瞬間まで頭をよぎることがなかったからだ。
Yの反応からすると、それは間違いではなかった。
しかし、一体、私はそんなことをいつ知ったのだろう?
→次の夜
Yが父親になる
dr-kilio 2007/09/11 22:50:21
昨日のYとのやりとりが、いつまでも気になって仕方がない。
Yに子供が生まれるということに敏感になっている自分がいる。
父親を嫌っていたYは、一生子供は作らない、自分は父親になることはない、と宣言していた。
それは私も同じ考えで、それによって二人の関係がより一層深まっていった。
よくありがちな思春期の考え方とはわかっていた。
しかし、実際にあのYが父親になるとは。
思い出した。あの夜だ。YがIと一緒にこの家にやってきて、三人で食事をしていた。
あのときに、Yが自分に子供ができたことを告白したのだ。
その後、食卓の上の照明に蛾がぶつかってきた。
そうだ、あの時だ。
私にとって、Yが父親になることは、大変な衝撃だった。
あのときの衝撃の大きさで、私はその事実を封印してしまったのだ。
それが、昨夜の電話のなかで噴出した。
いま改めて思う。
Yが父親になる。
当たり前のこととわかってはいても、受け入れ難い。
仏壇の扉
dr-kilio 2007/09/12 01:16:56
今夜は新月の夜。
何かが起こるかもしれない。
けれど、何かが起こるということは、今までの不可思議な事柄の原因を解き明かす機会でもある。
新月や満月の夜になると、意識を失ってしまっていることから、今まで何の手掛かりも掴むことはできなかった。
今夜は先回りして、何らかのヒントを得ておきたい。
あの女の気配を恐れながら、安全そうな場所を歩き回る。
探索を続ける中で、不気味なものを発見した。
仏間には、Hくんの父親の死体が、畳を剥がした床板の上に、台風の夜のままの状態で横たわっていた。
ところが、あの夜以来閉ざしていた仏壇の扉が開いている。
中をのぞき込むと、私の父親の位牌が倒れている。一体、誰がこんなことをしたのか。
あの女が仏壇にまで近寄ってくるとなると、ますます気味が悪い。
そう思いながら位牌を元に戻す。
すると、位牌の後ろから携帯電話が現れた。見たことのないストラップのついた携帯電話だ。
直感的にHくんの父親のものではないかと思った。
死体の胸ポケットやズボンのポケットに手を入れるが、やはりそこには携帯電話はなかった。
間違いない、彼のものだ。
気になって、着信履歴やメールボックスを見ているうちに、考えられない記録を発見した。
今日の早朝4時35分に、メールを送った記録がある。
早速内容を確認すると、それは何と、Hくんへ向けてのメールだった。
「急にいなくなって、さぞかし心配していることと思う。けれど、お父さんは元気だ。心配ない。お前の好きな桐夫先生とも仲直りした。いろいろお前に話したいことがある。今夜、午前1時に、桐夫先生の自宅まで来てくれないか。
仏壇のある部屋で待っています」
Hくんは父親から来たメールだと思うに違いない。疑問に思うところはあっても、父親の携帯から送られてきているということで、Hくんは信じるしかあるまい。
今夜、午前1時。仏壇のある部屋。
時間と場所まで指定してある。
こんなメールを送って、あの女は、私を混乱させて楽しんでいるのだろうか。
いずれにしても時間がない。
Hくんがこのメールを信じれば、まもなくこの家にHくんがやってくる。
私は慌てて片づけを始めた。
Hくんの父親の死体を納戸に隠した。
クローゼットの部屋には、いまは入る勇気がない。
畳を外して板がむき出しになっている床には、カーペットを敷いてごまかした。
片づけながら、何と言ってHくんをごまかそうかと考えた。
結論が出ないまま、片づけは終わった。
今夜は新月の夜。
外は雨が降っている。
しかも指定されている時間は夜中だ。
私は、Hくんがこの家に来ないことを祈っている。
ただ、祈っている。
来た
dr-kilio 2007/09/12 02:11:14
こんな夜中に、玄関のベルが鳴った。
1時30分ちょうどだ。
ドアを開けると、小学生のHくんが傘をさして立っていた。
私の顔を見ると、ホッとしたように微かに笑った。
けれど、それも一瞬のこと、その後顔が曇った。
「夜分にすいません。父がお邪魔していると言うことだったので」
私はHくんを玄関先で追い返そうと決意していた。
しかし、彼の雨に濡れたズボンや心細そうな表情を見ると、その決意が揺らいだ。
家に招き入れたらお終いだ、と心の中でつぶやきながら、それに反して私はドアを大きく開けていた。
とにかく入って、温かいものでも飲みなさい、と私は言っていた。
そして、いまHくんは応接間にいる。
このお茶を飲ませたら、すぐにタクシーを呼んで、Hくんを送り帰そう。
夜中だろうがかまわない。送り帰した方がいい。
しかし一方で、子供を夜中に帰した方が危険ではないかという声も自分の中にあった。
新月だとはいえ、雨が降っているから大丈夫なのではないか。
月の光さえ届かなければ、何も起こらないのではないか。
そう思うと、Hくんを帰すのは無謀なことに思えてくる。
いまも逡巡している。
もう2時を過ぎた。
これから何が起こるというのだ。
夜が明けるまで、あと3時間。
→次の夜
新月の夜が明けて
dr-kilio 2007/09/12 22:27:59
目が覚めた時、家の中がどのようになっているか心配だった。
新月の夜が明けていた。
今までの流れで考えると、また死体がひとつ、家の中に横たわっているはずだった。
最も考えられるのは、その死体がHくんの死体だということだ。
家の中は、これまでと比較にならないくらい荒れていた。
何か、鋭利なもので、様々なものが傷つけられていた。
壁、床、畳には、幾筋もの傷が残っていた。襖や障子は、切り裂かれてぼろぼろになっていた。
その傷は、何かの怨みを晴らすかのように、執拗につけられていた。
けれど、今までと違い、血の痕はどこにもなかった。
私は、家じゅうを探し回った。Hくんの死体のないことを願って。
考えられるすべて部屋、すべての場所を見終わった後、神経がすり切れて座り込んでしまった。
Hくんの死体はなかった。
少なくとも、この家の中にはなかった。
満月と新月の夜で、初めて死体が見当たらなかった。
私は、いくらか胸を撫で下ろしていた。
これは良い兆候かもしれない。
親知らず
dr-kilio 2007/09/13 00:43:12
昨夜のことを思い出している。
記憶は断片的にしか残っていない。それを寄せ集めて、時間軸に沿って並びかえると、何となく全体が浮かび上がってくる。
しかし、それも完全なものとは言えない。
再び、遠いところに行ってしまう前に、それを書き留めておこう。
Hくんがやってきたのは午前1時30分ちょうどだった。
私は彼を応接間に招き入れた。
彼は、こんな時間にやってきたことを詫びた。
私はかまわないが、こんな時間に子供が出歩くのはよくないから、用件が済んだら早く帰るようにと釘を刺した。
まず、Hくんは父親からメールが来たことを私に伝えた。
私は、彼を仏間へ通し、部屋の様子を見せてあげた。
彼は、彼なりに納得したようだった。
これまでにも、父親の傲慢なやりかたに振り回されたことは、たびたびあったようだ。
今回も、メールはよこしたものの、結局来るのをやめた、というように解釈したようだった。
応接間で恐縮しているHくんの姿は、深夜の雨の中に送り出すには、忍びないように思えた。
けれど一方で、早く帰さなくては、何故帰らないのだ、という苛立ちが、黒い雨雲のように湧き上がってくるのも感じていた。
そんな葛藤の中で、Hくんが歯の矯正について話し始めた。
「お父さんは歯並びがいいんだけど、叔父さんはひどい歯並びなんです。お父さんは、叔父さんと仲が悪くて、それもあって僕の歯並びを気にしてるんです。
お父さんは、何から何まで僕のことに口を出してくるんです。それが、煩わしくて」
その気持ちはよくわかった。
私と父親の関係も同じか、もっと深刻だった。
いきなりHくんが「親知らずはいつ頃生えてくるんですか?」と聞いてきた。
「お父さんは僕の歯並びまで干渉してくるけど、親知らずはお父さんが知らないところで生えてくるんでしょう? 親知らずが生えてきたら、お父さんから離れられるような気がするんです」
Hくんの言っていることはよく理解できた。
私は笑いながらその話に耳を傾け、同時に苛立ちが募ってくるのも感じていた。
「こんな真夜中にやってきて、人の都合もお構いなしに話をしているような奴は、お仕置きをしなくてはならない」
以前、Hくんがやってきた時と同じ感情が芽生えてきていた。
親知らずの話。その後の苛立ち。
それから一体、
どうなったのだろう?
見せたい
dr-kilio 2007/09/13 01:59:51
切れ切れの記憶を寄せ集めてみた。
私は応接間で、Hくんに対するシンパシーと苛立ちの間を行き来していた。
その後、一体そういう展開からだろうか、Hくんをピアノの部屋に案内することになった。
以前、Hくんを慰めるときに、私も子供の頃父親に何度も閉じこめられていた、という話をしていた。
きっとHくんはその話を思い出し、閉じこめられていた部屋を見たくなったに違いない。
その部屋は、この間の晩、女が入ってこなかった唯一の部屋だ。案内しても不審なものは何もないはずだ。
Hくんも興味は持ったものの、大して面白みのない部屋にかえって失望することだろう。
ところが、部屋を見たHくんの反応は、そういったものではなかった。
いきなり目が輝き始めた。
実際に私が子供の頃、この部屋に閉じこめられて不安な時間を過ごしたということが、急に現実味を帯びてきたようだった。
堰を切ったようにHくんが喋り始めた。
閉じこめられた心細さ、時間がわからない不安、この世からたった一人で切り離されているような隔絶感、様々な嫌な想像が頭の中を回る。
けれど、時間が経つにつれて、部屋の闇にも目が慣れてくる。部屋の空気にも馴染んでくる。
閉じこめられている、という意識が、閉じこもっている、という意識に転換するときがある。
すると、その空間は逆に自分だけの空間になる。
そんな時、父親には決して話すことのできないような奇妙なお話を空想したりする。
Hくんはそんな話を興奮気味に話した。
私も同じ感覚を持っていたので、何度も頷きながら話を聞いていた。
Hくんも私も、同じ境遇の同士を見つけたような気持ちになっていた。
それから、一体どういう経緯だったのだろう。
たぶん、こんなことをH君くんが言った。
「歯を矯正しても親知らずは生えてくる? 先生も生えてきた?」
その時、不意に「見せたい」と思った。
私の秘密を共有してほしい。
そして私は口を開け、初めて他人に29本目の歯を見せた。
Hくんは驚いていた。
けれど、その次に意外なことを口走った。
「触ってもいいですか?」
私は頷いていた。
Hくんは遠慮がちに手を伸ばして、29本目の歯に触れた。
そこまでは覚えている。
それから一体どうなったのか。
これ以上は、思い出すことは難しい。
けれど、この家にはHくんの死体はない。
新月の夜は終わった。
→次の夜
太ももの傷口
dr-kilio 2007/09/14 00:34:38
それにしても昨日目が覚めてから、太ももの痛みがひどい。
以前はまだ足を引きずりながら歩いていたが、左足に重心をかけると崩れ落ちそうになってしまう。
杖がなければ、歩くことさえままならない。
本当は松葉杖がほしいところだが、生前父が使っていた杖を使う。
父の体重を支えていた杖が、今は私の体重を支えている。
複雑な心境だ。
包帯を解いてみると、再び傷口が開いている。
もう一度、縫合し直さないと、もう無理かもしれない。
ただ、傷口が化膿しているため、周囲の皮膚もただれ、縫合の糸が保たないかもしれない。
いずれにしても、後ほど試みてみよう。
新月の晩に、何か激しい運動をしたのだろうか。
昨日書いた内容のほか、私の記憶には何も残ってはいない。
でも、何かが違う。
いつもの家の様子と今回は、明らかな違いがあった。
その違いのうち良い兆候だと思われることは、新しい死体が増えなかったこと。不気味な兆候だと思われることは、女の気配が濃厚になっていることだ。
今までは死体が増えた後は、しばらく女の気配は影を潜めていた。今回は違った。
今日も目が覚めたら、キッチンが荒れ放題になっていた。
冷蔵庫は開け放され、流しには割られた食器や調味料が散乱していた。
あの女が怒り狂っている。
その表現のように思えてならない。
おそらく、Hくんを取り逃がした怒りだろう。
誰かを殺すことによって消化していた怨念が、溜まったままになってしまい、その捌け口がこのように表れたのかもしれない。
何か底知れない怨みを感じ、しばらく片づけることがためらわれた。
縫合の試み
dr-kilio 2007/09/14 01:35:19
今回、Hくんを取り逃がしたとしたら、それは私が妨害したからに違いない。
いま、このようにして行われている女の怨みの矛先は、私に向いているのだろう。
そう思い至った瞬間、思わず背筋が凍りついた。
まもなく、夜も更けてくる。
今夜も女は家の中を徘徊するのだろう。
しかし、こんな足ではもうまともに逃げることさえできない。
逃げられる可能性を少しでも広げるために、私は二度目の縫合を試みることにした。
もう一度、包帯を解いて傷口を観察してみた。
傷口は広がっているばかりではなかった。
化膿したうえに、傷自体が大きくなっている。傷口の周りの皮膚も化膿し始めているため、傷が裂けてしまったためだろう。
私は、針と糸を取り出して、もう一度縫合を試みた。
化膿してただれた皮膚は、より敏感になっていた。
針を通すときの痛みは、以前行った時より遙かに激しい痛みだった。
私は思わずうめき声を上げた。
けれど、痛みはそれだけではなかった。
針を傷口の片方の皮膚に通し、それから傷口をまたいでもう一方の皮膚へと通す。
傷口を押さえながら、糸を通し、傷口を押さえていた手を離した。
傷口の周囲の皮膚がただれて弱くなっていたためだろう。
傷口を留めるための糸が、皮膚を裂いてしまった。
思いも掛けぬ痛みに、私は思わず大声を上げた。
もはや、糸の力も保持できないほど、皮膚が弱っている。
けれど、このままにしておくのは、より一層危険だ。
壊疽の可能性が高まるばかりだ。
傷口からかなり離れた、十分に張りのある皮膚を探し、そこに糸を通すことにした。
けれど、張りがあると思える皮膚の下も、指で押すと嫌な弾力があった。膿がその下まで入り込んでいるのかもしれない。
一針一針、歯を食いしばりうめき声を上げながら糸を通した。
最後の糸を通したとき、痛みのために疲れ果ててしまった。
その縫合は、実にひどいものだった。
けれど、ほかにどんな方法があるというのだろうか。
包帯を巻き直す力もないまま、私はベッドに身を投げ出した。
Hくんの新たな記憶
dr-kilio 2007/09/14 03:34:42
眠りから覚める直前のわずかな時間の中で、新月の夜の別の記憶が蘇ってきた。
いや、確かなことは言えない。もしかしたら、記憶だと思っていたら夢の一部だったということもあり得る。
ともかく、その記憶を繋いでおこう。
Hくんに歯を見せたのは、この寝室だった。
遅い時間になっていた。子供が起きているような時間ではない。Hくんは眠そうに何度も欠伸をした。
私はHくんを眠らせようとして、自分の寝室に連れて行った。
そこでHくんは、考古学者になりたいという夢を語った。
土の底から太古の骨をみつけ、それを組み合わせてひとつの形を作り上げる。博物館で恐竜の骨を見ながら、そんな自分の姿を夢想しているという。
その時、私が作り上げた歯の模型が、Hくんの視野に入った。
様々な人間の歯を組み合わせて作り上げた、理想的な歯形。ただひとつの、あの欠陥を除いては。
骨を組み合わせることを夢想するのなら、歯形の模型に興味を示さないわけがない。
Hくんの視線に気づいて、私はそれを彼に渡してあげた。
すぐに、彼の目は29本目の歯に釘付けになった。
そして、その後、私は彼に自分の口の中を見せたのだ。
この後は、ゾッとする想像だ。
新月の夜の記憶は、Hくんが私の歯に触れるところで終わっている。
その後、私が開けていた口を強く閉じていたら…。
その時は、あの女に噛まれた私と同じことが、Hくんの身にも降りかかるのだろうか。
鍵屋の妻の言っていたことが、不意に思い出された。
「あの歯が守ってくれる」
だとすれば、あの歯と一緒にいたために、Hくんはあの女に殺されることを免れたのかもしれない。
そう考えると、辻褄が合う。
それにしても、今夜はあの歯が疼いて仕方ない。
歯が疼き始めると、落ち着いた思考ができなくなってくる。
今夜はここまでで精一杯かもしれない。
→次の夜
鍵屋の妻の封書
dr-kilio 2007/09/15 01:10:33
鍵屋の妻の佇まいには、人を寄せつけないものがあった。
圧倒的な長身、左耳を突き出す仕草、そうしたことのいちいちが、煩わしい。
彼女が何かの手掛かりを握っているとはわかっているものの、そこに到るまでの煩わしさの方が先立ってしまう。
あの夜、彼女から押しつけられた封筒は、彼女の佇まいに似ていた。
封のところに小さな札が貼ってある。
そこには、「鬼歯魔除け」と書かれていた。
魔除けの札の貼ってある封筒を開けることは、それなりの覚悟が必要だ。
自分が何かに巻き込まれてしまいそうな、嫌な予感が伴う。
そのような理由から、私はその封筒を開けることはなかった。
しかし、やはり彼女の言ったことは辻褄が合っている。
おそらくHくんは、あの歯によって守られたのだ。
だとすれば、封筒を開けてその秘密を知るべきだろう。
彼女が魔除けの札を貼ったのは、その内容をあの女に読まれないようにするためにちがいない。
そう考えて、私は引き出しにしまっておいた封筒を取り出した。
魔除けの札をそっと剥がし、その下の封筒の綴じ口もそっと外した。
綴じ口の糊はあまり強くなかったため、きれいに剥がすことができた。これで、
読み終えた後、再び封印することができる。
これから、ゆっくり読むことにしよう。
魔除けの歯の秘密
dr-kilio 2007/09/15 02:11:33
鍵屋の妻の封書には、次のような驚くべきことが書かれていた。
その魔除けの歯は、実はある人から抜いた歯です。
その歯は、前歯の裏に隠れるように生えていました。
歯が生えていた人物とは、私の母でした。
私の母は、身長が150㎝にも満たない短身でした。思春期になった私の身長が伸び始め、母の身長を抜いた頃から、それは始まりました。
私に対するすさまじい暴力の始まりです。
けれど、その暴力は家庭内暴力の域を超えていました。
なぜなら、母が暴力を振るう時、その力は小さな体から想像もできないようなものすごいものだったからです。
すでに母の身長を大きく上回っていた私が、普通なら力で勝るはずです。
ところが、母の暴力に抵抗しようとする私の手首を掴み、たちまち私の自由を奪ってしまうのです。
その圧倒的な力の源が、一体どこにあるのかわかりません。
私はいまだに、女性であれほどの力を持つ人に出会ったことがありません。
母の暴力の前では、私は全く無力でした。私の全力の抵抗など、母にとっては蠅を追い払う程度の力で押さえつけることのできるものだったのです。
私は母の暴力に怯えて日々を過ごしました。
けれど、母は毎日暴力を振るうわけではありませんでした。
というより、ほとんどの日はそんな兆しもありませんでした。
暴力に怯えるうちに、私は次第にその周期を知るようになります。
母の暴力は突発的に起こるのではなく、だんだん苛立ちが募った上で、およそ14日起きに爆発するのです。
その周期は、月の満ち欠けに対応していました。
新月と満月の夜、暴力は最大限になり、私の体は傷つけられました。
そんな様子を見ていた親戚が、何人かの占い師に母を見てもらいました。
ほとんどは大して益のない話をして、高額な報酬を要求してきました。
そんな中で、ある占い師が突然こんなことを言い出したのです。
「あなたのお母さんには、鬼の歯が生えている。その歯がお母さんを操って悪いことをさせているのだ」
俄には信じられませんでした。
その次の満月の日、また母に暴力を振るわれていた私は、泣き叫びながら「鬼の歯!」と絶叫しました。
それを聞いた母の顔が見る見るうちに変わり、これまでにないような激しい暴力を私に加えてきました。その激しさに私は意識を失い、目が覚めたときには右耳の聴力が失われていました。
親戚は、占い師の言葉を信じ、母が穏やかなある日、歯医者に連れて行きました。
そして、そこに29本目の歯をみつけたのです。
この歯を抜いた後、母は今まで考えられなかったように穏やかになりました。
占い師は、すべてがこの鬼の歯の仕業だと教えてくれました。
この鬼の歯には、強い力が宿っています。
一旦、抜いてしまってからは、その力は魔を除ける力となるだろう。
占い師はそう言って、それを魔除けのお守りとしました。
これが、お守りの歯の謂われなのです。
一気に読み終えた私は大きく息をついた。
29本目の歯が疼いていた。
→次の夜
お守りの力
dr-kilio 2007/09/15 23:36:42
衝撃を受けていた。
鍵屋が持っていたお守りの歯は、私に生えている29本目の歯と同じ歯だったのだ。
それは大きな力を持つという。
しかし、私にはそんな力は備わってはいない。
ただ、私に噛みついたあの女のことを考えると納得がいく。
あの狂ったような目。満ち溢れる陰の生命力。何人もの人間を殺害してなお反省の感情を持たない非情さ。
それは、人間を超えた怪物のように思える。
では、女に噛みつかれて同じ歯が成長してきてしまった私は一体どうなるのだろう。
私の中にはそんな兆候は見えない。
けれど、何かが変わってきていることは確かだ。
ネットワーク
dr-kilio 2007/09/16 00:34:35
夜になると、女の気配が濃くなってくる。
いつか出会うのではないかと心配だ。
それともうひとつ心配なことがある。
私の抱えているこの苛立ちだ。
いま、こうして文章を書いていても、次第に苛立ちが募ってくる。
集中して何かを考えようとしても、すぐに飽きてきてしまう。本も以前のようには読むことができない。10分間集中すると、もう読み続けられなくなってしまう。
29本目の歯が疼いてくると、私は獣のように落ち着きを欠いてくる。無性に体を動かしたくなる。
そんな衝動に呑み込まれてはならない。
とにかく、このブログを書き続けるのだ。これを書き続けていられるうちは、私はその衝動を押さえることができる。
こうしていても、周期的に歯が疼き、精神は落ち着きを失い、苛立ちが募ってくる。
その間も、書き続けていることが大切だ。
それだけが、「私」を保つことのできる方法のように思えてならない。
今まで築いてきた脳内のネットワークが寸断されないように。
そして、みんなと繋がっているこのネットワークも途切れないように。
まどろむと
dr-kilio 2007/09/16 01:29:27
今まで、書き続けることがこんなに苦痛だったことはない。
みんなからの応援がほしい。
しかし、今、この家はあの女が徘徊している。
私は少しまどろむと、必ず何かが起こっている。
壁や床の傷が増えていたり、時計が狂っていたり、ラジオが鳴り続けていたり。
女は、以前にも増して自由に家の中を歩き回っているようだ。
このような状況で、みんなからのメッセージをもらうと、何かよくないことがみんなの身に降りかかりそうな気がする。
この頃の女の凶暴さを考えると、みんなを今まで以上に危険なことに巻き込んでしまう可能性が高い。
それは避けたい。
避けたいが、私の今の状況も苦しくてたまらない。
何か良い方法はないかと考えるが、以前のようなアイデアも浮かんでこない。
代わりに落ち着きがなくなってきてしまう。
魔除け
dr-kilio 2007/09/16 01:57:54
良いことを思いついた。
みんなにあの魔除けの札を渡してあげよう。
まずは、あの女からみんなの身を守るのだ。
魔除けの札はシールにして作っておく。携帯電話やパソコンなど、私と繋がっている機器に貼っておいて欲しい。
そうすれば、あの女も近づくとことができないのではないか。
魔除けシールは、私の家の監視カメラの下に置いておこう。
期間と置き方は、あとで知らせる。
まずは、自分の身を守っておいて欲しい。
刃物を隠す
dr-kilio 2007/09/17 00:55:56
新月の夜、死体が増えなかったことは幸いだった。
けれど、そのためにあの女が荒れている。家の中が、日に日に荒廃していく。
それに対応しようとするのだが、集中して物事を考え続けることが難しくなってきている。以前のように頭を使っていると、周期的に苛立ちが襲ってくる。
こうして日記を書いていることも苦痛である。
最近、身の危険を感じることが多い。家の中の空気が張りつめている。
家じゅうの壁や床が刃物で切り裂かれていることを見るにつけ、いつその刃物が私に向くかもしれない、という不安が高まってくる。まして、私は今まともに逃げられるような状態ではない。
そこで、私は家じゅうの刃物を隠すことにした。
キッチンの包丁やナイフ、工具箱の中のカッターなど、鋭利なものはとりあえず拾い出してみた。歯の部分を新聞紙でくるんでから、ひとまとめにして布の袋に入れた。
それをどこに隠そうか、と思案する。
歯の模型のある寝室が最も安全だろう。あの鬼歯が強い魔除けの力を持っている。
私は、寝室のベッドの下に、刃物の入った布袋を押し込んだ。
Yの反省
dr-kilio 2007/09/17 01:24:14
Yから電話が入る。
私は何の抵抗もなく電話を取ったが、取り立てて話すこともない。
Yは心配している様子で、いろいろ聞いてくるが、私はYにあまりは話すこともない。
むしろ、友達面して心配しているのが、煩わしくなってしまう。
ついつい口調も、そんなYをからかう口調になっていた。
その口調が気にくわなかったためか、Yが怒り出した。
しかし、その程度のことで怒るYの気持ちがわからない。
Yは気持ちが収まらないらしく、何度も同じような話で怒りをあらわにし、私はますます気持ちが離れた。
Yの話が終わらないため、こちらから先に電話を切ってやった。
それからは、電話はかかってこない。
反省したと見える。
繋がりたい
dr-kilio 2007/09/17 01:35:53
Yの声が聞きたい。
何故、さっきはあんなことを言ってしまったのだろうか。
せっかくYが連絡をくれたというのに。
それを思うと、いても立っていられなくなった。
遅い時間だったが、Yに電話してみた。
コールしたが、Yは電話に出なかった。私のことを怒っているにちがいない。
Yから見放されたと思うと、私はこの世で身寄りがないように感じてしまう。
やはり、もう一度みんなと繋がっているという実感がほしい。
時々精神状態が不安定になるが、それを正常に保ってくれるのも、みんなからのメッセージだ。
しかし、まだ不安だ。
女は荒れている。みんなに被害が及ばないという保証はどこにもない。
みんなを巻き込んで良いものだろうか。
これから先は、本当に危ない目に遭うことを覚悟しなくてはならない。
私が呼びかけることによって、あの女の恐怖はみんなのところに及ぶのだ。
でも、みんなと繋がっていたい。
みんなのメッセージを受け取りたい。
どうするべきだろう。
→次の夜
逆の立場
dr-kilio 2007/09/17 23:56:57
毎日、37℃台の熱に悩まされている。
太ももの傷口は縫合したものの、一向に良くなる兆しがない。抗生物質によって、何とか化膿を食い止めている。
そのためか、眠ると嫌な夢に追いかけられる。
今日も金縛りにあった。
身動きが取れなくていると、ベッドの下でカチャカチャ音がする。
体が動かないため、どうなっているかわからないが、何者かがベッドの下にいるらしい。
ちょうど鍵屋が殺された時と同じ状況だ。
ただ、立場は逆になっている。
あのときは私がベッドの下にいて、鍵屋はベッドの上で瀕死の状態だった。
立場が逆になっていることが、悪い兆候に思える。
ベッドの下で、隠した刃物の袋を取り出そうとしているのだろうか。
私は体を動かそうともがくが全く動かない。
そのうちに、ベッドの下の音が消えた
音が消えたことが不気味だ。
ベッドの下から寝ている枕元の脇に、ゆっくりと何かが這い上がってくる気配を感じる。
その気配は、寝ている私の顔の近くまで近づいてくる。
しばらくそのまま何も起こらない。
私の顔を見ているのだろうか。
やがて私の耳元に囁き声が聞こえる。
「かくれんぼはまだだよ」
ゾッとした。
そして、私は目が覚めた。
お守りを用意した
dr-kilio 2007/09/18 02:26:03
眠りから覚めたのは、かすかに聞こえる水の音のせいだった。
音の元を目指してキッチンに行くと、流しの蛇口がひねられて水が流れている。
それを閉じると、別のところでも水音が聞こえる。
バスルームの蛇口とシャワーから水が出ている。
気になって蛇口のある場所を探す。
洗面台、トイレ、洗濯機置き場、そのいずれからも水が流れ出ていた。
あの女の仕業に間違いない。
夢から覚めてベッドの下を確認した。
刃物の入っている袋は、そのままの状態でそこにあった。
それだけは安心だ。
みんなをあの女の呪いから守るためのお守りを用意した。
明日から、ここに来てくれたら受け取れるようにしたい。
どこに置こうか、いま考えているところだ。
大したものではないが、これが私にできるか数少ないことかもしれない。
お守りの渡し方
dr-kilio 2007/09/18 02:55:58
お守りの渡し方を考えた。
よく覚えておいてほしい。
監視カメラに写っている、人形の顔が沢山吊り下げられている部屋はわかるだろうか。
監視カメラには写っていないが、カメラの下にミシンが置かれている机がある。その机の上に、煤けた1台のポストを用意した。
そのポストの中に、みんなに渡すお守りを入れておこう。
お守りは小さな白い封筒に入っている。散らかさないようにして、1人1枚持ち帰ってほしい。
もし、ポストが見当たらなかったり、ポストの中にお守りが入っていなかった場合は、出口の白衣のスタッフにその旨を伝えてほしい。スタッフがお守りをくれるだろう。
ただ、このことはブログを読んでいるみんなしか知らない特別な情報だ。並んでいるときに、周囲の人に気づかれないように注意をした方がよい。
なお、インターネットで監視カメラの映像が見られなかった人でも、当日私の家まで来てくれれば、入り口の左側に映像が写っている。それを見てもらえればわかるだろう。
お守りをいつまで置いておくかは、改めてお知らせしよう。
どうか早めにお守りを取りに来てほしい。
肉食
dr-kilio 2007/09/18 03:28:46
夜中なのに無性に肉が食べたくなり、冷凍しておいたステーキ肉を焼いた。
解凍する時間が待てず、そのままソテーしたら、表面は焦げて中はまだ生の状態のひどいステーキができあがった。
けれど、そんなことはお構いなしに、塩と胡椒を振ってかぶりついた。味などはどうでもいい。問題はこの食欲をどのようにして満足させるかだ。
食欲が満たされると、一時的に精神が安定する。
このようにブログを書くことに集中することができる。
書くことは私であり続けることだ。
書くことによって、何かに支配されようとする自分をかろうじてつなぎ止めておくことができる。
けれど、書くことが苦痛になると、私はその何者かに侵略されてしまう。
今の私は書くことによって保たれている。
書くことは、私だ。
このブログは私そのものなのだ。
もしもブログが書けなくなる時が来るとしよう。それは私が私を失うときかもしれない。
書くのだ。
とにかく書き続けるのだ。
→次の夜
新たな傷
dr-kilio 2007/09/19 00:09:56
お守りを受け取りに来てくれた人には、ありがとう。
お守りは9月23日まで置いておくから、今日来てくれた人以外の人も受け取りに来てほしい。
置いてある場所は、人形の顔が吊ってある監視カメラの下の机の上。ミシンの奥に煤けたポストがあり、その中に入っている。
もし見つけられなかったら、出口のスタッフにその旨を伝えてほしい。そっと、お守りを渡してくれるだろう。
数に限りがあるので、一人一枚までにしてもらいたい。
ポストに入れてある時間は、16時から22時までだ。
それ以外の時間は置いてないので、気をつけてほしい。
目が覚めたら、傷は回復し、熱は下がり、あの女の気配が家の中から消えている、そんな生活に戻れないものだろうか。
そんなことを想像しながら目を覚ました。
クローゼットの部屋を通り過ぎようとすると、中からひそひそ話す声が聞こえたような気がした。
あの女が死体たちと何かを話しているのだろうか。
ひそひそと、私について話しているのかもしれない。
廊下を歩くと、壁に新たな傷ができている。
家じゅうの刃物を隠したはずなのに、どこかに隠し忘れたものがあるのだろうか。
あるいは、ベッドの下の袋から…。
だとしたら、眠っている私の体の下から刃物を取り出し、寝室を出て行ったのだろうか。
眠っている私の枕元に包丁を握った女が立っている姿を想像したら、背筋が凍った。
29本目の歯の効用
dr-kilio 2007/09/19 01:27:47
ベッドの下から刃物を取り出しているとしたら、あの女はこの寝室に入り込んでいる。
この家の中で安全だと考えていたこの部屋も、もう安全ではないと言うことだろうか。
だとしたら、29本目の歯を埋めたあの歯形も、魔除けの役割を果たしていないことになる。
鍵屋の妻の残した手紙の内容が、今になって気にかかる。
彼女の母親が、29本目の歯によって信じられない暴力を振るったということ。
であれば、29本目の歯を持つ私は、一体どうなるのだろうか。
母親から抜いたその歯は、確かに魔除けの力を持つかもしれない。でも、その魔除けを持つ本人に29本目の歯が生えていたら、それは魔除けの役割を果たすのだろうか。
どういうことなのか整理して考えたいが、思考を続ける集中力がない。
集中して考え出すと、誰かがそれを邪魔するように、苛立ちが募ってくる。
まるで、猿か何かになったような気分だ。
じっと落ち着いて物事に取り組むことが難しくなってきている。
でも、
できるだけ順序立ててきちんと考えるのだ。
そして、考えたことをブログに書き続けるのだ。
それだけは、どんなことがあっても続けなくてはならない。
どんなことがあっても、
書き続けなくてはならない。
閉じ込められた部屋
dr-kilio 2007/09/19 03:08:10
ピアノの部屋に閉じこめられたことを話したときの、Hくんの輝くようなシンパシーの表情が忘れられない。
Hくんも子供の頃、何かするたびに閉じこめられていた。
彼は最初の恐怖が過ぎ去った後、逆にその空間を楽しむ工夫を行っていた。
閉じこめられるのではなく、閉じこもるのだ。
そう考えたとき、父親から解放された自分だけの空間が出現する。
恐怖は愉悦に転換する。
その中で、彼は物語を空想したと言っていた。
私は、閉じこめられたピアノの部屋で、父親に隠れて何かを書いていた。
それを書くことによって、私は私を保っていた。
その意味では、あの頃の自分と今の自分はあまり変わりない。
書くことは私にとって、子供の頃から常に重要であった。
ただ、今ほど切実なことは経験がない。
あのころ、私は何を書いていたのだろうか。
夏休みの日記
dr-kilio 2007/09/20 00:25:38
熱のせいだろうか。
頭が朦朧として様々な事柄が時系列に関係なく、頭の中を巡る。
特に、眠りから覚めかけたときにそうなりやすい。
薬を使わないと眠れなくなってきていることもあるのかもしれない。薬が切れかけた時は、よくわからないことをしていたりする。
けれど、そのために今まで一度も思い出したことのない記憶が、不意に思い出されたりもする。
今日、目覚めたときに思い出したことは、夏休みにつけていた日記が、休み明けに学校で随分褒められて何かの賞をもらったことだ。
起きてから思い返してみた。それは、「Killioの日記」のことだろうか。
いや、そんなはずはない。
そのころ、私は父親によって歯列矯正をさせられていた。
それまでに使われていた矯正器具と違った、もっと矯正の期間を短縮することのできる、奇怪でいびつな姿をした矯正器具を、私は長い間つけさせられていた。
それについての事柄を、「Killioの日記」には記していた。
けれど、それは決して褒められるような内容ではなかったはずだ。
では、何故、夏休みの日記が賞を取ったのだろうか。
それさえも、記憶が交錯して生まれたありもしない出来事だったのだろうか。
長く考え続けることが辛くなってきている。
少し休もう。休んで、もう一度最初から考えてみよう。
父の開発した器具
dr-kilio 2007/09/20 01:30:10
父親の開発した矯正器具の不気味さは想像を絶するものだった。
けれど、その効果も絶大だった。
短い期間で効果的に矯正するという意味では、今でも最高位に属すると思う。
ただ、それを装着する者にとっては、苦痛も相当なものだった。
圧力が強いために、実際に歯茎に負担がかかり、ギリギリと痛んだ。
見た目の悪さも相当なもので、そのグロテスクな矯正器具を装着している間は、誰もが目をそらした。
さらに、食事もままならない。私は装着して1ヶ月で5キロも痩せたほどだ。
装着するのがやたら面倒で時間がかかるため、一旦外したら二度と装着する気にならない。
このような厄介な矯正器具を、父親は開発し、それの実験台として私を使ったのだ。
美しい歯並びを作り出すためなら手段を選ばない。それが父親のやり方だった。
思春期にかかりつつあった私は、その少し前から父親との間に距離をとり始めていた。
この矯正器具の装着から、私は父親を憎むようになった。
思い出す。
記憶が交錯しながら、今まで忘れていたものが、水泡が水面に浮かび上がってくるように、突然思い出される。
今のうちに記録しておいた方がいい。
再び記憶の底に消えてしまわないうちに。
書きたくない
dr-kilio 2007/09/20 02:33:45
書くことが辛くてたまらない。
もうこれ以上書きたくない。
何故、ブログを書き続けなくてはならないのか。
こんなに苦しいのに、なぜ続けなくてはならない?
書く意味がない。
書き続ける
dr-kilio 2007/09/20 02:59:59
ちがう。書き続けなくてはならないのだ。
苦しいことはわかっている。
けれど、私が「私」を保ち続けるためには、書き続けなくてはならない。
みんなと繋がっているためには、書き続けなくてはならないのだ。
とにかく、書くのだ。
ガラスの破片
dr-kilio 2007/09/20 22:01:56
もはや、いつ眠っているのか、わからない。熱が出て、疲れがひどく、倒れ込むように眠っては悪夢にうなされて起きる。
今日はソファーが切り裂かれていた。私が家じゅうの刃物を隠す前に、女は何かの刃物を奪っていたのかもしれない。それ以外に考えられるのは、ベッドの下に隠している刃物を持ち出していることだ。いずれにしても、女は刃物を持つことのできる状況になっている。
家の中は女のせいで荒れ果て、普通に歩くこともできない。日に日に荒れていくため、掃除をしても追いつかない。太ももの傷が痛み、しゃがんだり立ち上がったりする動作が特に厳しい。そのため、簡単な掃除でも相当な労力を費やしてしまう。傷の痛みや熱のだるさに負けて、掃除がおろそかになっていくうちに、とうとう今のような状況になってしまった。
特に、キッチンの状況がひどい。食器棚が倒され、中の食器類が床に落ちて割れている。天井の蛍光灯も割られ、床にはガラスの破片が散乱している。とても素足では歩けない状況だ。
けれど、キッチンは毎日使わなくてはならない場所だ。冷蔵庫に入っている食品類を適当に調理して、毎日の空腹を満たしている。床を片づけなくてはならないのだが、太ももの痛みのために、しゃがみこんでガラスの破片を回収することなどとてもできそうにない。靴を持ってきて、キッチンの入口でそれを履き中に入るようにしていた。そうでもしなければ、とても歩けるような状況ではない。靴に踏まれてガラスの破片が砕け、さらに片づけが難しくなってくるが、もうどうしようもない。
廊下や他の部屋の電球や蛍光灯も割られている。床にはその破片が散らばっている。キッチンだけ靴を履いていたが、それだけでは間に合わなくなってきている。
荒廃した家の中を、土足のまま足を引きずりながら歩き回っている。一体、私は何をしようとしているのだろうか。
ちょっとした仕掛け
dr-kilio 2007/09/21 00:26:07
今日は眠るときに、ちょっとした仕掛けをしてみた。寝室の入口のドアに小さく折った紙片を挟んでおいたのだ。もし眠っている間にそのドアが開けられたら、紙片は床に落ちているはずだ。
先ほど目が覚めてドアの辺りを確認した。紙片は床に落ちていた。
私が眠っている間に、誰かがこの部屋に入ってきている。それがついに立証できた。誰かではない。あの女だ。あの女が、眠っている間にこの部屋に忍び込んでいる。刃物も、ベッドの下から取り出しているにちがいない。しかし、何故その刃物で私を刺そうとしていないのだろうか。機会はいくらでもあったはずだ。もしかしたら、あの女はゲームを楽しんでいるのかもしれない。私が追いつめられ逃げ場を失うまで、わざと何もしないで見ているつもりかもしれない。その陰湿な遊び方は、いかにもあの女らしい。
けれど、この部屋にある歯の模型は何の効果もなかったのだろうか。鍵屋の妻が言っていた魔除けの力は、そこには宿っていなかったのか。あるいは、私に29本目の歯が生えていることが、なにか作用しているのかもしれない。いずれにしても、この部屋はもはや安全ではない。この家の中で、安全な場所はどこにあるのか。あの晩、逃げ延びることのできたピアノの部屋が安全な場所なのだろうか。
記憶が私の輪郭を作っている
dr-kilio 2007/09/21 02:16:44
これだけ荒れ果てた家の中で、ピアノの部屋は荒らされた形跡がなかった。そのことがかえって不気味だった。
そのことに何かの意味があるのだろうか。私が父親に閉じ込められた部屋。私が父親から隔絶されて閉じこもった部屋。
今では、女から逃れてここに閉じこもろうとしている。
ここで、かつて私は何をしていたのだろうか。
考えようとすると頭の中に靄がかかったようになってしまう。
記憶が私の輪郭を作っているのだとしたら、私の記憶のように私の輪郭も曖昧なものになっているのかもしれない。確固たる自分というものを、もはや私は信じられなくなってきている。
私の記憶は曖昧で、精神は不安定になり、そのたびに苛立ちが募って、自分が自分で制御できなくなってしまう。まるで、私が何者かによって支配されている気分だ。
その時は、こうして書くことができなくなってくる。考えることができなくなってくる。
子供の頃、考えることは自由だった。考えることだけは、父親の支配が及ばなかったからだ。
誰も、私の頭の中までは支配できない。
考えたことを記録すること。それが書くことだった。書くことによって、考えが膨らみ、より豊かな考えへと昇華した。
書くこと、考えることが、私を作ってきた。
それが苦痛になってきている。
誰も入ることができないと思っていた私の頭の中に、誰かが侵入してきたのだろうか。
そのうち、私は書くことができなくなってしまうのか。
そのことを考えたら、いきなり巨大な恐怖が襲いかかってきた。
どうなってきているのだろう、私は。
単純に、傷口から来る熱のせいだけなのだろうか。
頭はうまく回らない。不安だけが大きくなって、私を押しつぶそうとする。
削除した
dr-kilio 2007/09/22 00:11:52
先ほど書いたブログを削除した。
ひどいものだ。自分であんなことを書くなんて信じられない。
確かに頭は朦朧としている。判断は決して的確とは言えない。それを考慮したとしてもひどすぎる。
あまりみんなの目には触れさせたくない。こんなにも私を応援してくれているというのに。
とにかく、落ち着いて冷静に一つずつ解決していくのだ。
そのためには証拠がほしい。あの女が監視カメラに写りさえすれば、この家で起こっていることを証明できる。
いまは一人で対処するしかない。みんなの応援のメッセージを、唯一の拠り所として。
傷を治すのだ。
体力をつけて熱を下げるのだ。
書き続けるのだ。
母の香り
dr-kilio 2007/09/22 01:20:57
この部屋に私は自分の意志で来たのだろうか。
唯一荒らされていない部屋。私はこの荒らされていない部屋に誘導されたのかもしれない。
つい先日まで、ほとんど足を踏み入れていなかった部屋。
けれどあの時も、落ち着いて部屋にいられるような状況ではなかった。
今になってようやく、この部屋の空気を感じることができる。
閉めきられたままの部屋は、子供の頃のまま、ほとんど空気が入れ替わっていない。
小学生の私が嗅いだ匂いが、そのまま残っている。
何年間もの埃の匂い。
私は、部屋の照明を消した。
部屋が闇に覆われると、匂いはその漆黒の中で湧き上がってきた。
その時、私はひとつの香りを感じた。
驚くべきことに、埃っぽい匂いの奥に、母のつけていた香水と化粧品の香りが幽かに嗅ぎ分けられたのだ。
母が亡くなってから、もう30年が経つ。
その母の香りを、私は幽かだが鮮明に嗅ぎ取った。
その香りは細いしなやかな一本の糸のようだった。30年の年月をすうっと通し、今の私と当時の私を繋いだ。
その香りを感じた瞬間、一気に私は小学生に戻っていた。
私がこの部屋の中で、どういう気持ちで時間を過ごしたのか。
闇の中、ひざを抱えて、私は思い出し始めている。
「Ki.lioの日記」
dr-kilio 2007/09/22 02:42:25
ピアノの部屋で、あのときと同じように動かずにいると、当時の気持ちに自分が寄り添っていく。
あの年の夏休みのことを、私は何10年ぶりに思い出しつつあった。
しかし、その記憶は夏の川の魚のようだった。気をつけていないと、すぐに手からすり抜けてしまう。だから、慎重に思い出をたどってみた。
「Killioの日記」を書き綴ったのは、この部屋でだった。
きっかけは、夏休みの最初の日、父にこの部屋に閉じ込められた時だ。
その時、私は一冊の真新しい日記帳を抱えていた。その表紙には、稚拙な文字で「Ki.lioの日記」と書かれていた。
何故、この部屋に閉じ込められたのか。その理由は、その日記の表紙にあった。
数日前に、父は私にアルファベットでの名前の書き方を教えてくれた。
父は、「Kirio」と書いた。
私の中には、すでに父に対する反抗心が芽生えていた。私はわざと「Kilio」と書いて父に差し出した。その書き方は、必ずしも間違いではない。私には父をやりこめたという満足感があった。
それが父の逆鱗に触れ、私は1時間ほどピアノの部屋に閉じ込められた。
それにもかかわらず、私は日記帳に「Ki.lioの日記」と書いた。得意な気持ちだった。
その表紙を見た父は、前にも増して激昂し、私を3時間近くピアノの部屋に閉じ込めた。
こんなに長い時間、閉じ込められることはなかった。よほど、父の勘に触ったのだろう。
小学生が3時間も外界から遮断され、トイレも飲み物も我慢しなくてはならないということは、経験したことのない恐怖だった。
しかし、その長い時間が、私をこの部屋に馴染ませ、「閉じ込められる」という状況を「閉じこもる」という状況に転化させるきっかけとなったのだ。
私は、その日、初めて「Ki.lioの日記」に文字を書いた。その日記は、決して他人に見せることのできない日記だった。
見せることのできるもう1冊の日記帳には、「Kirioの日記」と題名を書いた。
→次の夜
右足に傷
dr-kilio 2007/09/22 20:20:59
目が覚めたら、寝室のベッドに横たわっていた。
ピアノの部屋には布団がないため、いつのまにか寝室に戻っていたらしい。
右足に軽い痛みを感じて見てみると、脛を鋭利な刃物で薄く切られている。
傷は深くはない。が、いく筋か切られている。
あの女が、いよいよ私に手をかけ始めている。
けれど、こんなに浅い傷に、一体どういう意図があるのだろうか。
軽く消毒して包帯を巻いた。左足が使えない分の負担が右足にかかっているが、歩くのには何ら支障はない。
まもなく、あの女が私の目の前に現れるのかもしれない。そんな予感がする。
その前に、何とか監視カメラで女の姿を捉えられないものだろうか。
それが録画できれば、
すべてが解決する。
2度目の削除
dr-kilio 2007/09/23 00:58:25
先ほどのブログも削除した。
昨日に引き続いて二度目だ。頭が混乱している。2時間前に書いた自分の文章が信じられない。2時間前の自分が信じられないのだ。
ただ、その私と今の私は地続きで繋がっている。決して切れてはいない。そのことが恐ろしい。
こうしてブログを書き続けることで、恐ろしい淵に近づくことを防いでいる。そんな確信も、次第に揺らぎ始めている。
信じなくてはならない。書くことだけがすべてなのだ。
ガラスが割られていく
dr-kilio 2007/09/23 02:16:16
女は狂ったように家の中を荒らしている。
私の太ももを切っただけでは、その苛立ちは治まっていないようだ。
家の中のガラスというガラスは割られている。鏡や食器、テレビのブラウン管に到るまで、ガラス製のもので残っているものはほとんどない。
照明器具も割られているため、家の中に灯りがほとんどない状況になってしまった。
家の中を歩くとき、靴を履かないと歩くことができない。
その状態が、私の精神をどんどん荒廃させていく。
土足で家の中を歩かなくてはならないなど、ほとんど廃屋も同然だ。
掃除ができるような状態は、とうに通り過ぎてしまった。
投げやりな気持ちに陥ることも、自分のことながら納得できる。
ただ、ピアノの部屋だけは、いまのところ全く女の手が及んでいない。
廊下に面した扉さえも、きれいなままだ。
私はこの部屋に入るときだけ靴を脱ぐ。
女は、私をここに閉じこめようとしているのかもしれない。
幼いシナリオ
dr-kilio 2007/09/23 02:55:54
あの夏休みも、書くことだけがすべてだった。
私はこの部屋に閉じこもって、暑く淀んだ空気の中で、「Ki.lioの日記」に、強い筆圧で書き綴った。
いま、その内容を思い出している。
そこに書かれたことは、父親を崩壊させる幼いシナリオだった。
もちろん、そのほとんどすべてが、小学生の頭で考えた空想にすぎなかった。
私は、「Killioの日記」ページをめくってみる。
そういえば、その中でひとつだけ現実に作用していたシナリオがあった。
両腕に傷
dr-kilio 2007/09/24 01:17:58
目が覚めたら、両腕に浅い傷がいく筋もついている。
このようなことができるのなら、いつでも殺すことができるのにそれをやっていない。まるで、あの女が私の生命をいたぶっているかのようだ。
軽く傷の手当てをするが、これらの傷はどうということはない。むしろ、太ももの傷口のひどさは、目を背けたくなるほどだ。
抗生物質を服用しているが、それも追いつかなくなってきている。
自分がいま、どんなにひどい顔になっているかを考えるとゾッとする。幸い、家の中のどこにも、もう自分の姿を映す鏡やガラスは残っていないが。
熱のためと傷のために体力が落ちている。食事もここ数日、まともなものを食べていない。
歩くことも辛くなり始めている。
しかし、何とかこの状況から抜け出すのだ。
ネズミの死骸
dr-kilio 2007/09/24 03:05:21
ベッドの下に入っている刃物を確認してみたが、中身は減っていない。
壁や床の傷が増えていくのは、隠した刃物のせいではないのかもしれない。家じゅうで割られたガラスの破片を使って切り裂いているのかもしれない。
だとすれば、私の腕や足につけられた切り傷も、ガラスの破片でつけられたものなのだろう。
そう考えると、家じゅうが凶器で溢れている。
「Killioの日記」を読み返してみる。
長く封印されていたし、私もその存在を忘れていた。
その内容は、実際に起こったことと空想したものの区別がつきづらい。
けれど、極めて事実に近いと思われるいくつかの事実は、ぼんやりと思い出されるような気がする。
それは、果たして私が行ったことなのか、それとも誰かがやったことを書いているのか、今度はそれがよくわからない。
例えば、満開に咲いた庭の花をハサミで1本ずつ切ったこと。カーテンを切り裂いたこと。そして、ネズミを殺してその死骸を、父親の書斎の本棚に並ぶ本の裏に隠したこと。
最後の話を読んだとき、私は声を上げそうになった。
奇妙な話だ。それは二ヶ月前に私が体験したこと、そのままではないか。
それは何を意味するのだろうか。
父の論文
dr-kilio 2007/09/24 03:31:57
さらに「Killioの日記」を読み進む。
父親が私に装着した歯列矯正の大仰な器具に対する呪詛の言葉が、次々に現れてくる。
どうやら、その器具は父親が発明して実験用に作らせたものだ。
その器具を、父親は私に装着して、その矯正過程を記録していた。
夏休みの最中に学会があり、父はそこでこの矯正器具についての論文を発表する予定だった。
その日の朝、私は父の鞄の中から、その論文を抜き出して隠した。
それから先のことは、同じ職業に就いた今の私が想像すれば、生きた心地もしなかったことだろう。
その事件以来、父親はゆっくりと崩壊していったように思える。
果たして、ここに書かれていることは、本当に私が行ったことなのだろうか。記憶が曖昧で、霧の中にいるようだ。
しかし、もしこの事件が事実だとしたら、父親をゆっくり死へと追いやったのは私なのかもしれない。
誰かが触った
dr-kilio 2007/09/24 04:10:43
誰かが、このパソコンにも触っている。
いま、メールの送信履歴を見て気がついた。出した記憶のないメールが送信されている。
その文章を読むと、それがあの女だと言うことは間違いない。
送られてきた人たちは、そんなメールに惑わされないでほしい。
みんなのために、もう一日だけ魔除けのお守りを置いておこう。
人形の吊ってある部屋の監視カメラの下にミシンの載っている机がある。その机の上のミシンの奥にポストを置いた。その中に、お守りが入っている。
どうか、そのお守りを持って行ってほしい。
置いておく期間は、本日24日中としておく。
→次の夜
胸に傷
dr-kilio 2007/09/24 19:27:58
目が覚めると、今度は胸に浅い傷がいく筋もできていた。
足から腕へ、そして今度は胸へと、だんだん私を追いつめてきているようだ。
軽く治療をするが、気分は優れない。
私が守るべき私の領域が、あの女のよって次第に狭められていくのを、ひしひしと感じる。
家の中で、私のいられる場所が狭められ、とうとうピアノの部屋くらいしかなくなってきている。寝室で眠るが、あの部屋も女が出入りしている痕跡は増えてきた。
私の体も、手、足、胸までは、女の手の届くものになってしまっている。いつでも思い通りにできるのだ、という女のメッセージが、浅い傷から読み取れる。
そして、とうとう昨夜、私の頭の中まで、あの女が手を出し始めていることを知った。
あの女がこのパソコンに触って、みんなにメッセージを送っている。
この機械は、私の頭そのものだ。そこまで、女が手をつけ始めている。
3回目の削除
dr-kilio 2007/09/24 19:53:49
前のその前のブログを読んで愕然とした。
全く、私が書いた覚えのない、恐ろしい文字が並んでいる。
このパソコンを使って、あの女が書いたに違いない。
早速削除した。
その上で、パソコンのキーボードを消毒した。
私が唯一の拠り所にしていたこのパソコンのキーボードに、あの女の血塗られた指が触れているかと思うと、虫酸が走る。
気が狂いそうだ。
こうしてキーを叩いていても、自分の指先の上を、そのままあの女の指が動いているような錯覚に陥る。いま、文字を打っているのは、私の指だろうか。それとも、女の指先を私が目で追っているだけなのだろうか。
そんなことさえ、次第にわからなくなってきてしまう。
頭が混乱している。
今夜、何かが起こることは確かだ。
少し休もう。
呪月死錐夫
dr-kilio 2007/09/24 20:20:36
呪月死鬼怨○錐刑鼠歯二?殺九夜女家父?桐夫殺怨医鬼本怨刑二新呪娑靴錐夫美暴九獣△女療闇?破靴死怨怨本刑女斬夫歯?呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪月切夫死鬼怨○刑鼠歯二?殺九霧夫夜女家父?医鬼本怨刑二新呪娑靴美暴九獣△女療闇?破靴死怨怨本刑女歯?呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪
霧夫
dr-kilio 2007/09/24 20:42:49
再びあの女がパソコンに触り、私のブログに新しい呪いの言葉を書き込んでいる。
私が休むからいけないのだろうか。
けれど、熱のために意識が朦朧としている。深い霧の中を進んでいるかのようだ。自分では起きているつもりでも、いつの間にか眠ってしまっている。
今度こそ、意識をしっかり持って、あの女がやってくるのを待ち受けよう。
でも、この感覚は何かに似ている。
それが何だったのか。
思い出そうとして、それを阻む者がいる。
しかし、こんな感覚を、以前確かに経験したことがある。
思い出した方がいいのか。それとも、このままにしていた方がいいのだろうか。
呪月殺斬夫
dr-kilio 2007/09/24 20:52:55
呪月死鬼怨○錐刑鼠歯二?殺九夜女家父?桐夫殺怨医鬼本怨刑二新呪娑靴錐夫美暴九獣△女療闇?破靴死怨怨本刑女斬夫歯?呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪月切夫死鬼怨○刑鼠歯二?殺九霧夫肉夜女家父?医血鬼本怨刑二新呪娑靴美暴九獣△女療闇?破靴死怨怨本刑女歯?靴家泥女雨死川血鼠怨二歯獣刑殺九錐夫矯闇歯肉病矯鬼閉暴甘怨怨怨?夜刑錐殺虐医腿傷新月歯○切夫死鬼怨殺殺殺殺殺殺怨○刑鼠歯二△女療闇獣呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪月死鬼怨○錐刑鼠歯二?殺九夜女家父?桐夫殺怨医鬼本怨刑二新呪娑靴錐夫美暴九獣△女療闇?破靴死怨怨本刑女斬夫歯?呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪月切夫死鬼怨○刑鼠歯二?殺九霧夫夜女家父?医鬼本怨刑二新呪娑靴美暴九獣△女療闇?破靴死怨肉怨本刑女歯?靴家泥女雨死川血鼠怨二歯獣刑肉殺九錐夫闇歯病矯鬼閉暴甘怨怨怨?夜刑錐殺虐医腿傷新月歯○切夫死鬼怨殺殺殺殺殺殺怨○刑鼠歯二△女療闇獣呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪霧夫殺錐夫殺剪夫殺切夫殺斬夫殺桐夫殺殺殺殺殺殺霧夫殺錐夫殺剪夫殺切夫殺斬夫殺桐夫殺殺殺殺殺殺霧夫殺錐夫殺剪夫殺切夫殺斬夫殺桐夫殺殺殺殺殺殺霧夫殺錐夫殺剪夫殺切夫殺斬夫殺桐夫殺殺殺殺殺殺
子供の頃の経験
dr-kilio 2007/09/24 21:10:44
また女がブログを更新している。
耐えきれない。
でも、この感覚は確かに経験している。
錯覚ではない。確かに子供の頃に経験しているのだ。
私は二つある
dr-kilio 2007/09/24 21:20:44
父親の論文を隠して、その地位を失墜させたことを、私は何故覚えていないのだろう。
確かにあの夏休みをきっかけにして、父親は変わり、私たちの生活も変わっていった。
そのことを、私は大人の世界の変化として受け止めていた。しかし、「Killioの日記」を読むと、その原因は私にあったことになっている。
一体、どれが真実なのだろうか。
そして、私は何故「Killioの日記」に書かれていることを忘れているのだろうか。
忘れている?
いや、それは正しい言い方ではない。
忘れているのではない。体のどこかででは覚えている。
私の記憶は二つある。
私の記憶が私ならば、
「私」は
二つ
あ
る。
KirioとKilio
dr-kilio 2007/09/24 21:26:19
思い出してくる。
いろいろな記憶が、この部屋にいると水面下から泡のように浮かび上がってくる。
小学校の夏の終わりに見た自分の姿の記憶。
母の鏡に映った自分の顔に驚愕している思い出。
自分が思っていた自分の姿とは、大きくかけ離れた姿がそこにあった。
獣のような目をして暗い顔をした子供の顔。
ネズミを殺して、クローゼットの衣服を切り裂き、父親の社会的地位を失墜させた子供の顔。
それは私だ。
Kirioとは違うKilio。
二つのわたし。
母の手鏡
dr-kilio 2007/09/24 21:32:43
家じゅうのガラスが割られ、私は私の姿を見ることができなくなっていた。
ただ、この部屋で、唯一残された鏡をみつけた。
母の手鏡だ。
私は、その鏡に映った自分の顔をのぞき込んだ。
そこには私の姿は映ってはいなかった。
そこに映っていたのは
もうじき来る
dr-kilio 2007/09/24 21:39:36
鏡をのぞき込んでいる
背後から、
あの女の濡れた足音が聞こえてくる。
もう扉の前まで来ている。
もうじき会うことになる。
でも、もう私にはわかっている。
そこに誰が立っているか。
いらっしゃい
dr-kilio 2007/09/24 21:50:13
いらっしゃい。
さようなら
dr-kilio 2007/09/24 22:21:47
さ
よ
う
な
ら
。
旅立ち
dr-kilio 2007/09/25 23:36:00
昨夜は、ブログを通して大勢の皆様に見守っていただき、本当にありがとうございました。桐夫はブログを皆さんに見守られながら旅立つことができて、幸せだったことと思います。
先にお断りしておきます。
私は桐夫ではありません。桐夫の友人のYという者です。
さて、私がこうして書いているのは、今回の出来事をもう少し皆様に説明しておかなくてはならないと考えたためです。
実は、私自身も、皆さんと同様に、今も混乱しています。ただ、皆さんより少し前から桐夫と知り合いだったために、いくらかでも説明できることがあると思っています。
桐夫の家には、今日入りました。
家の中の様子は、多少予想はしていたものの、その予想をはるかに上回る荒れようでした。まるで、巨大な獣が荒れ狂ったかのような状態でした。
玄関のスリッパを履いて入りましたが、床がガラスの破片だらけで危険なため、一旦引き返して靴に履き替えたほどです。
子供の頃からよく遊びに来ていたために、家の中の部屋の配置などはよくわかっていました。けれど、そうでもなければ、とても先へ進めるような状況ではありませんでした。
私は、ひと部屋ひと部屋、丹念に見て回りました。
私には予感がありました。おそらく、あの部屋に桐夫がいるのではないか。
二人だけの秘密の部屋。
そして、案の定、最後に見たピアノのある部屋で、私は桐夫をみつけました。
それは眠っているような穏やかな顔でした。
まさか、と思いつつも、私は「桐夫」と呼びかけました。
その声は、この部屋の動かない空気の中に吸い込まれていきました。
けれど、そう声をかけると、いつものように薄目を開けて、少しはにかんだ笑顔で「やあ」と返事をしそうだったのです。
現実はそうではなく、桐夫は同じ穏やかな顔のまま、全く動きませんでした。
私はその傍らに座って、首筋に手を当て、しばらく脈を探しました。その皮膚はもうひやりとしており、その冷たさによって私は急に桐夫が遠い存在になったことを悟りました。
その遠さを、たぐり寄せられるものならたぐり寄せたい。そういう気持ちから私は気づかぬうちに桐夫を抱きしめていました。
しかし、抱きしめても、桐夫は遠い存在のままでした。
不意に悲しみが大きな塊となって、胸の奥底から湧き上がってきました。
こうして書いていても、また悲しみが湧き上がってきて、押しとどめることができません。
だって、ここは僕たちだけの場所だったのに。
中断します。
しばらく、 泣きます。
→次の夜
同じ夜の中
dr-kilio 2007/09/26 01:29:33
先ほどは失礼しました。
すっかり取り乱してしまいました。
私は、皆さんに報告しなくてはならない義務があるのに、すいませんでした。
実は、私が桐夫のブログの存在を知ったのは、つい先ほどです。
私が見つけたとき、桐夫はその胸に、とても大切そうに1台のノートパソコンを抱えていました。
私は、ゆっくりとその腕をほどいて、パソコンを立ち上げました。
そこで初めて、このブログのことを知ったのです。
その三ヶ月にも渡るブログから、私は桐夫の苦悩を改めて感じ取りました。
桐夫が抱えていたこのパソコンは、桐夫のすべてでした。
ここには、桐夫の思いがすべて詰まっています。そして、皆さんからの応援や励まし、それだけを頼りに暗い夜を過ごしてきた桐夫の孤独が詰まっています。
最後の桐夫は、皆さんの励ましによって生き延びていたのではないかと思います。
だから、桐夫はあんなにも大事そうにパソコンを抱えていたのです。
それは、皆さんの愛情を逃がさないように抱える姿だったように思えます。
今夜は、混乱していて、なかなかうまく書けません。
明日改めて、皆さんに伝えなくてはならないことを書かせてもらいます。
今夜は、静かな夜の中で、しばらく桐夫の思い出と過ごさせてください。
皆さんも、同じ夜の中、桐夫のことを思ってもらえれば幸いです。
では、
また明晩。
→次の夜
桐夫のお葬式
dr-kilio 2007/09/26 22:31:59
昨日に引き続いて、Yが書いています。
昨日は取り乱してしまいましたが、今日は少し落ち着いています。
今日は、桐夫の死体をきれいにして、家の中を少し片づけました。弔問に訪れた方に、あまりひどい状況を見せたくありません。桐夫が生きていたら、間違いなくそう思うはずです。
その後は、お葬式の準備も始めました。桐夫は生前、そんなに多くの付き合いはありませんでしたから、密葬という形でささやかに行うつもりです。
でも、桐夫が最後まで一番大切にしていたのは、皆さんのことです。
皆さんに見送ってもらえることが、桐夫にとって何よりの喜びだと思います。
そこで、近いうちに皆さんと、ネット上で桐夫のお葬式を執り行いたいと思います。
詳しくは、決まり次第、このブログ上でお知らせします。
そのようなことをしている間に、今日も日が暮れました。
桐夫がなぜこのように亡くなってしまったのか、私はそれについて書いていかなくてはなりません。
この後、少し頭を整理してその作業を始めたいと思います。
書くべきか
dr-kilio 2007/09/27 01:26:04
書いてもいいものか
私がこうして、このブログに書き綴っているということを、桐夫が知ったらどんな気持ちになるだろうか。
そのことを、昨夜からずっと考えていました。
そして、ここに書こうとしていることが、桐夫が最期になるまで気づかなかった事実であるとすれば。
私は、桐夫の立場に立って考えてみました。
桐夫は、最期まで皆さんに自分の考えていたことを伝えようとしていました。
それが傍から見ていて誤りであったとしても、桐夫は誠実に伝えようとしていました。
最後の最後に桐夫が気づいたことも、時間が限られた中で確かに皆さんに伝えようとした痕跡が読み取れます。
桐夫に時間があったとしたら、おそらく皆さんに、彼が知ったことを書いたことでしょう。
そう思い到った時、この場を借りて私が知り得た事実を述べることは、きっと桐夫が望むことだろうという結論に到りました。
そこで、私の知っていることを、少しずつ書いていくことにします。
たとえ、桐夫が死ぬ直前に、私に子供ができたことを知って失望していたとしても、それでもなお、私に語ってほしいと願っていることでしょう。
2冊の日記
dr-kilio 2007/09/27 02:38:47
まずは、小学校の頃のお話をさせてもらいます。
桐夫が最期の日のブログで触れているように、小学校の夏休みの日記は「Kirioの日記」と「Ki.lioの日記」の2冊ありました。
この2冊とは、桐夫の人格そのものでした。
桐夫に「Kilio」というスペルを教えたのは私でした。このときは、そのことがこんなに大きなことに発展してしまうとは、思ってもみませんでした。
「桐夫」はもちろん、彼の父親につけてもらった名前です。「Kirio」も同じことです。
けれど、「Kilio」は、彼の中では父親から切り離された名前だったのです。それは、私と二人でみつけた名前だったのです。
小学生の夏休みの間、桐夫はピアノの部屋にこもって、長い時間をかけて「Ki.lioの日記」を書いていました。
その行為が、彼に人格を崩し始めたのかもしれません。
その部屋に入ることができたのは、桐夫のほかには私だけでした。
その部屋のいるときの桐夫が、それまでつき合っていた桐夫と違っていることに気づくには、それほど時間はかかりませんでした。
明らかに顔つきが変わり、話し方も早口になって、攻撃的な印象を受けました。
けれど、外で遊ぶときの桐夫は、それまでと変わりありませんでした。
それが、KilioとKirioの違いだったのです。
夏休みも後半になると、いよいよピアノの部屋にいる桐夫(Kilio)は、別の人格として成長していきました。
そして、あの事件が起きたのです。
桐夫が、父親を崩壊させてしまう、あの事件です。
→次の夜
お通夜
dr-kilio 2007/09/27 21:31:42
警察の検屍が終わり、桐夫の死体がこの家に戻ってきました。
この後の調査は、警察に委せることにします。
埋葬許可も出たので、これでようやく桐夫のお葬式ができることになりました。
今夜は通夜になります。
夜中は、私が隣に寝て線香を絶やさないようにしています。
考えてみると、今夜は満月です。
桐夫が、この3ヶ月間苦しめられてきた満月の夜。今夜は、久しぶりに安らかに過ごすことができるはずです。
引き続いて、昨日の続きを書いていきます。
夏休みの後半になると、ピアノの部屋の桐夫は、私にとって近寄りがたい存在になっていました。
ある日、桐夫は私を父親の書斎に案内すると、秘密めかした笑みを浮かべて、白く美しい背表紙の全集をそっと取り出しました。
そこには、血塗れのネズミの死体が置かれていました。
真夏の昼下がりで、誰もいない書斎は蒸せるように暑く、死臭が一気に室内に広がりました。
私は気分が悪くなり、トイレに駆け込みました。
その姿を、桐夫は少し軽蔑した目で見ていたのを覚えています。
Kilioという人格
dr-kilio 2007/09/27 23:04:57
桐夫は、いまパソコンを打つ私の隣で、眠っています。
いま、新しい線香に火を点したところです。
今夜は満月ですが、もう大丈夫です。
桐夫が、父親の開発した歯列矯正器具の研究論文を隠した時、一体どこまで大事になるのか予想していたのかはわかりません。
けれど、結果的には父親はそれまで築いてきた社会的地位を、大きく後退させることになりました。
父親は、桐夫の仕業だとわかっていたと思いますが、それを追求することはありませんでした。単に、証拠がなかったためかもしれませんが。
代わりに、父親の行ったことは、桐夫の精神鑑定でした。
小学生だった私たちには、さすがにそれが精神鑑定だとはわかりませんでした。
その後、桐夫は特別に病院に通うようなことはありませんでした。
軽い症状だと見なされたのだと思います。
ただ、今になってみると、その結果が何となくわかります。
彼の中に、その時期、もう一人の人格がいたのです。
Kilioという人格が。
新しい線香
dr-kilio 2007/09/28 00:35:00
忌まわしい満月の夜に、桐夫の通夜。
けれど、なにも問題はありません。
なにも。
また新しい線香に火を点けました。
けれど、満月の夜は、確かに奇妙な感覚に陥ります。
気にしないことです。
気のせい
dr-kilio 2007/09/28 03:28:53
今夜は気持ちがさざめいて仕方ありません。
いま、また新しい線香に火を点けました。
少し寝てしまったようです。
桐夫の死体にかけてある白布を直すとき、奇妙な感じがしました。
死体の胸の上に置いてある魔よけの小刀の位置が変わっているような気がしたのです。
でもそれは、きっと気のせいです。
私は何を考えているのでしょうか。
気のせいに決まっています。
やはり、満月のせいでしょうか。
→次の夜
桐夫の口のなか
dr-kilio 2007/09/29 00:02:22
桐夫の顔にかけられている白布をめくって顔を眺めています。
先程から、私のなかでどうしても抑え切れない欲求が出てきています。
桐夫の口を開けて、29本目の歯を見てみたい。
見るとすれば、今夜しかありません。
これは、奇妙な欲求なのでしょうか。
でも、その歯が桐夫を死に追いやったとも言えます。友人を死に追いやった原因ともいえるものを見ないで済ませることなど、普通あり得ることでしょうか。
私は、どうしてもその欲求を抑えることができませんでした。
ゴム手袋をはめようかと考えた後、やはりそれはやめました。
桐夫は精神の病で死に至ったわけで、肉体がウィルスに冒されたわけではないのですから。
私はゆっくりと桐夫の口に手を伸ばすと、顎に手を置きました。
その手の先に、桐夫の髭の感触が伝わってきました。きれいに剃ったのですが、死んでからも髭は若干伸びるのです。
わかってはいるのですが、実際に触れると生きているかのようにドキッとします。
顎に置いた手に力を入れると、多少の抵抗感があって、閉じた口が開きました。
口の中には綿が詰められていたので、それを指でつまみ、取り除きました。
取り除いた跡には、暗い口腔がぽっかりと開いていました。それは、覗いてはいけないような暗い穴です。
私は躊躇いながらも、桐夫の口に顔を寄せ、口のなかを覗き込みました。
けれど、暗くてよく見えません。
私は携帯を取り出すと、ライトで口のなかを照らしました。
そしてさらに近づくようにして、桐夫の前歯の裏を覗き込みました。
ライトに照らし出されて、そこには、確かに29本目の歯が生えていました。
私は、指を伸ばしてその歯に触れようとしました。
Hくんがそうしたように。
私が、歯に触れた瞬間、桐夫の口から息が洩れました。
私は、凍りつきました。
お葬式の準備
dr-kilio 2007/09/29 00:58:09
桐夫の口から息が洩れたのは、私の錯覚でした。
それ以外に、考えられません。
私は、何を取り乱しているのでしょうか。
もっと皆さんに話さなければならないことがあるというのに。
今夜は、皆さんと一緒に行う桐夫のお葬式の準備をしています。
お葬式は、明日の夜から行います。
その方法は、明日この場でお知らせします。
大切な「なにか」
dr-kilio 2007/09/29 01:51:24
気のせいだろうということは、自分でもわかっています。
けれど、昨夜から何か様子がおかしいように思えてならないのです。
先ほどの、桐夫の口から息が洩れたような錯覚といい。
その上、私は先ほどからある思いに囚われています。
桐夫の29本目の歯を見てしまったから、それが悪かったのかもしれません。
その思いとは、桐夫の29本目の歯を、そのままにしておいていいものかどうか、というものです。
そのままにしておけば、火葬で灰になるだけです。
灰にしてしまっていいものでしょうか。
その歯は、桐夫の大切な「なにか」であるような気がしてならないのです。
どうかしている。常軌を逸している、と自分でもわかっています。
けれど、その歯を保管しておかなくてはならない、という思いが消えないのです。
皆さんは、どのように考えるでしょうか?
その歯を保管するには、死体の口を開いて歯を抜かなくてはなりません。
死体から歯を抜くとは、考えただけでもゾッとするではありませんか。
にもかかわらず、私はそれを行わなくてはならないような気持ちに支配されているのです。
歯を抜くべきでしょうか?
夜中に啼くカラス
dr-kilio 2007/09/29 02:42:17
何かがおかしい。
普通じゃない。
桐夫の歯を抜いておかなくては、という思いを、ぬぐい去ることができないのです。
皆さんだったら、どうするでしょうか。
尋常じゃない、と言われることはわかっています。
でも、皆さんの友人がこんな状態で死体となっていたら、どうするでしょうか?
そんなことを聞くこと自体が、尋常ではないかもしれません。
早く、夜が明けないものでしょうか。
この闇の世界を抜け出せたら、正しい判断ができるのではないでしょうか。
夜中なのに、先ほどから何羽ものカラスが啼いています。
それも禍々しいものに感じてしまいます。
ああ、早く夜が明けないものでしょうか。
私が誤った行動に出る前に。
もうじき夜が明ける
dr-kilio 2007/09/29 04:45:13
何をしているのだ、私は。
もうじき夜が明ける。
もうじき、明けます、・:@-、^。
→次の夜
お葬式のお知らせ
dr-kilio 2007/09/29 23:52:29
皆様に、桐夫のお葬式のお知らせを致します。
ネット上で、皆様から献花とお別れのメッセージを頂戴致します。
本日より、監視カメラの左側の画面に献花台を設けます。
そこに、桐夫の携帯電話を置いておきますので、お別れのメッセージをメールでお送り下さい。
以前と同じように、携帯電話に着信のランプが光るのを、監視カメラでご覧になれます。
これが、桐夫との最後のお別れになってしまいます。
どうか、皆様の桐夫に対する気持ちを、沢山お送り下さい。
それが、何より桐夫の供養になると信じております。
いただいたメールには、私よりお礼メールを返信させて頂きます。
メールの送り先は、下記のアドレスです。
???@???
献花台やメールの着信する携帯電話をご覧になりたい方は、以下のアドレスにアクセスしてください(パソコンによってはご覧になれない場合があります)。
www.ghost-cam.com
なお、お葬式の期間は、10月2日(火)22:00までと致します。
宜しくお願い致します。
桐夫を偲ぶ会 代表 Y
きっと大丈夫
dr-kilio 2007/09/30 01:59:33
これから3日間は、故桐夫を偲んで過ごしたいと思います。
今回の出来事について、まだ私は説明の途中でした。それも、この3日の間にお伝えしていきましょう。
昨夜は、何故か精神が不安定になっていました。
こんなことは珍しいことです。
やはり、桐夫が亡くなって、心に空洞ができてしまったからでしょうか。その空洞を何かで埋めようとする時に、きっと精神のバランスが崩れてしまったのです。
家の中の片付けやお葬式の準備で、疲れが溜まったのかもしれません。
とにかく、昨夜は奇妙な晩でした。
今夜は大丈夫でしょう、きっと。
きっと大丈夫です。
→次の夜
夏が行く
dr-kilio 2007/09/30 23:35:42
今日は急に冷え込んで、外では冷たい雨が降っています。
2〜3日前まではTシャツ姿が普通だったのに、今日は上着が必要なほどです。
桐夫がこのブログで綴った3ヶ月は、猛暑の夏でした。
それが、桐夫がこの世を去るのと足並みを揃えるように、こんなにも早く秋がやってくるなんて。
暑い夏の熱気の中で、毎日読んでくれていた皆さんにとっては、桐夫のブログは夏の記憶と一緒にあるのではないかと思います。
だから、今日の冷たい雨は桐夫の死を悼む雨のように思えてなりません。
夏が行きました。
たった一度きりの皆さんと桐夫との夏が、行きました。
多くのメールをありがとうございます
dr-kilio 2007/10/01 01:02:01
昨夜から行っている桐夫のお葬式には、大勢の方からお別れメールを頂いています。
今更ながら、桐夫が皆さんにどれだけ愛されていたのか再認識しました。
こうしている間にも、新しいメールが続々と届いています。
本当にありがとうございます。
桐夫も、さぞかし喜んでいることと思います。
最後まで苦しい思いをした桐夫にとって、今は皆さんの温かい言葉に囲まれて、久しぶりの安らかな時間を過ごしていることでしょう。
それから、私に対する励ましの言葉も数多く頂きました。私にまでお心遣いを頂いて、恐縮しています。ありがとうございます。
あまり遺体を動かすのは、良いことではありません。
けれど、どうしても気になって、先ほど桐夫の太ももの傷を見てしまいました。
傷口は、正確な治療で知られる桐夫からは考えられないくらい醜い縫合でした。
まるで、子供がいたずらで縫ったかのような縫合部。ブログに書かれていたように、二回にわたって縫合をしたため、さらにひどい状態になっていました。
その縫合部を見ていると、その時の桐夫の苦しみがひしひしと伝わってきます。
私は、その傷口に手を置いて、もう過ぎ去った桐夫の苦しみが、少しでも私に乗り移ってくれないものかと願いました。
あの時、桐夫の苦しみの一端を受け持つことができなかった自責の思いから、私は傷口にいつまでも手を置いていました。
深い悲しみが、私の中に満ちていきます。
献花台の携帯にまたお別れメールが届きました。
深い悲しみが、部屋の中に満ちていきます。
7月10日の日記
dr-kilio 10/01 02:05:04
子供の頃の桐夫の思い出は、以前書かせてもらいました。
当時の私にはよく理解できなかったのですが、確かに桐夫の中にはあのとき、別の人格が存在していました。
Kilioという、利発で残酷な子供。
それは、私が名前を与えてしまったことによって生まれた化け物でした。
けれど、あの夏が過ぎ、桐夫は簡単なカウンセリングに数回通っただけで、普段の生活に戻りました。
桐夫の家庭がどうなったのかはよく知りません。
ただ、桐夫からあの夏のピアノの部屋で感じたような脅威を感じることは、もうありませんでした。
今回、私が初めて違和感を覚えたのは、桐夫にM.K.の本を返し、イタリアンレストランで食事をした時でした。
桐夫のブログを読むと、それは7月10日になっています。
肉類をほとんど口にしない桐夫が、その日に限って積極的に肉料理を注文していました。
体全体から感じる雰囲気も、うまく説明できませんが何か違っていました。
決定的だったのは、誰かが家に入り込んでいる、と桐夫が話したときでした。
桐夫は論理的に話しているようでしたが、聞いている方には、とても現実味のある話とは思えませんでした。
最初、私は桐夫がからかっているものだと思ったほどです。
けれど、桐夫はいたって真剣でした。
私が今度家に行こう、と言ったのは、桐夫の過ちを確認したかったからでした。
何故、彼がそんな風に考えるようになったのか。
店を出て、ふと不安になって振り返ると、桐夫の背中が心細そうに消えていくところでした。
声をかけようとしてやめました。
何を言ったらいいのか、言葉が出てこなかったからです。
でも、その時、私は桐夫に何かを言いたかった。
それを言えたら、あるいはその2日後に起こったことを防げたのかもしれません。
今、桐夫のブログを読み返すと、そう思えてならないのです。
今回の出来事を食い止めることができたとしたら、それは私の役割だったのですから。
あのとき、桐夫もきっと何かを言いたかったのでしょう。
7月10日の桐夫の日記を読むと、私が見送った桐夫の細く寂しい背中が思い出されます。
誰もいない
dr-kilio 2007/10/01 03:44:14
こうして桐夫の家に一人いて、じっと静寂に包まれていると、何かの気配を感じることがあります。
けれど、振り返っても、そこには誰もいるはずがありません。
ただ、他人の家に一人でいるというのは不安を誘うには十分です。
桐夫の遺体を前にしていると、またしても29本目の歯のことを考えてしまいます。
遺体の口を開けて歯を抜くなどということが、許される行為であるはずがありません。
でも、どうしてもその思いに囚われてしまうのです。
やはり、私はどうかしています。
これでは、桐夫の二の舞になってしまうとも限りません。
振り返っても、そこには誰もいないのです。
