会社概要 ■ お問い合わせ
menu


6)お化け屋敷の中の身体


6-01 『赤ん坊地獄』の経験

私はお化け屋敷で、情動と身体が密接に結びついている、と実感した経験があります。
それは、『赤ん坊地獄』というお化け屋敷でのことです。
 
『赤ん坊地獄』では、お客さまに赤ちゃんを渡し、それを出口にいるお母さんの元まで届ける、というミッションを設定しました。
赤ちゃんといっても、もちろん人形です。人形ですから、乱暴に扱っても本当の赤ちゃんのように怪我を負わせたりすることはありません。
実際、始まる前までは、私もそのような客様が大勢いらっしゃるのではないかと心配していました。けれど、それは杞憂でした。
ほとんどのお客様は、人形とはいえ、赤ちゃんの形をしたものを手渡されると、本物の赤ちゃんを扱うように、優しく胸に抱いてくれるのです。
 
そして面白いことに、そのような姿勢を取ることによって、この赤ちゃんを守らないといけない、という気持ちになるのです。
つまり、赤ちゃんを胸に抱く、という身体的な行為が、赤ちゃんに対する慈しみ、という感情を生み出しているのです。
 

(2024.3/4)

6-02 形が情動を生む

もうひとつ面白いことは、赤ちゃんが人形だということです。
そのことを、抱いているお客さま自身は、ちゃんとわかっています。それが本物の赤ちゃんだとは、誰ひとり思ってはいません。
人形という「もの」にすぎないとわかっていながら、手渡された時にぞんざいな扱いをしないのはなぜでしょう?
 
そこでは、赤ちゃん人形を、「もの」というより「赤ちゃん」として見ています。
つまり、「もの」だと考える理性よりも、「赤ちゃん」だと感じる情動が優先してしまっているのです。人形の持っている赤ちゃんという属性によって、ある情動が芽生え、それが理性を凌駕しているのです。
 
そのために、思いもかけず、人形を胸に抱いてしまうのです。それは、ほとんど無意識のうちに行なっている行動と言ってもいいでしょう。
 
つまり、ある種の形をしたものを見ると、人の心の中にある種の情動が湧き上がってくる、ということです。
赤ちゃんの形をしたものを見ると、「可愛い」「愛らしい」「愛しい」というような情動が、体の中から湧き上がるように自然と生まれ、それは抑えることができないのです。
それは、恐怖という情動も同じで、ある種の形態を見ると、「恐ろしい」「怖い」「不気味」などという情動が沸き起こってきます。
 
人は、このように目に見えるものの形状によって、情動を左右されたりもします。
 

(2024.3/18)

6-03 赤ちゃんではないはずのもの

話を、「赤ちゃんを胸に抱く、という行為が、慈しみ、という感情を生み出す」というところに戻しましょう。
 
『赤ん坊地獄』の入り口で「この赤ちゃんを出口にいるお母さんまで届けてほしい」と言われた時、多くの人が、その人形を“赤ちゃん”だと考えます。
でも、実際には、それは“赤ちゃん”ではありません。
手渡す人が“赤ちゃん”だと言っているだけで、よく考えたら、それはただの人形です。本物の“赤ちゃん”のように、心臓が鼓動し、体温があり、日に日に成長するわけではありません。それは、生命のない、ただの作り物です。
 
それにもかかわらず、お化け屋敷の入り口で“赤ちゃん”だと言われると、多くの人は“赤ちゃん”だと思います。
人形という作り物を、本物の“赤ちゃん”のように思うのです。
 
映画やドラマの中で、私たちは、作り物の物語や登場人物に感情移入をして、あたかも本当の出来事のようにそれを観ます。私たちの想像力が、スクリーンに映し出される世界を現実のように感じ、その中に没入します。
そのためには、できるだけ現実から切り離された状況が必要です。現実から隔絶され、現実を忘れることが、没入するには必要です。
 
けれど、お化け屋敷の場合、これとは少し違います。
お化け屋敷では、現実から切り離されることはなく、常に現実がついて回ります。
なぜかというと、そこに自分の身体があるからです。身体という厳然たる現実があり、そこから逃れることはできません。
 
つまり、『赤ん坊地獄』では、“赤ちゃん”という作り物と自分の“身体”という現実が、同時に存在しているのです。
 

(2024.4/1)

6-04 演劇の奇妙さ

前回、映画やドラマを例にとって、お化け屋敷と比較しました。
では、演劇の場合はどうでしょう?
 
私はずっと前から、演劇というものが不思議でなりません。
そもそも、なぜ人は生身の人間が目の前で、時にとんでもないことを言い放っているにもかかわらず、それを奇妙だと感じずにその世界を楽しむことができるのでしょうか?
どう見ても日本人で日本語を喋っているにもかかわらず、自分はジョージというアメリカ人だと言ったりします。舞台の上には何もないのに、ここは宇宙船の中だと言ったりもします。
能の『葵上』という演目に登場する葵上という登場人物は、出小袖というただの着物で表現されます。もはや、ただ着物が置かれているだけで、人ですらありません。
このようなことを映画で行ったら、誰一人として納得しないでしょう。
 
人間に限らず、動物は見えているものを何か一つのものに収斂させて認識します。
普通に生活している中で、先ほどの『葵上』のように、着物を人だと認識することはありません。(もちろん、見間違いなどの勘違いはありますが)。そんなことをしていたら、混乱して生きていくことができないでしょう。
だから、客席に座って舞台の上に着物が置かれるのを見た時でも、着物が置かれたな、と認識しています。
 
やがて、舞台が始まります。
六条御息所という登場人物が現れて、置かれた着物に向かって怨みを言い募ります。
考えてみるまでもなく、これは異常な光景です。

 

(2024.4/15)

6-05 着物を人と思い込む

私たちが街を歩いているとき、道に置いてあるワンピースを恋敵だと思い込んで文句を言っている人がいたら、異常にしか見えないと思います。
百歩譲って、そのワンピースを介して、着ていた女性に文句を言っている、と解釈するかもしれません。それでも、異常であることに変わりはありません。
 
けれど、『葵上』の舞台に置かれた着物は、そういう設定ですらありません。六条御息所は、葵上が脱ぎ捨てた着物を介して葵上に怨みを言っているわけではなく、着物そのものを葵上だと思っているのです。
先ほどの例に置き換えれば、道に置いてあるワンピースそのものを憎い恋敵だと考えて、文句を言っているようなものです。
これは、どう考えても異常です。
 
ところが、『葵上』という舞台が始まると、不思議なことが起こります。
六条御息所が現れて、置かれた着物に向かって怨みを言い募っていくのを見るうちに、置かれた着物が人に思えてくるのです。
 
散歩の途中で見かけたら異常に思えることが、舞台の上ではそう思えないのはなぜでしょう?
 

(2024.4/29)

  

前 「5)想像力の働き」

Page top