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4)解放型のエンターテインメント


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4-01 エンターテインメントとしての価値

前回、私はお化け屋敷は解放型のエンターテインメントだと書きました。
ここで言うお化け屋敷とは、一般的に多くの人がイメージするものを指しています。
それはどういうお化け屋敷かというと、入り口を入ると基本的に一方通行で、迷路状になっている通路を通る中でさまざまな怖い体験をして、最後に必ず出口に辿り着く、というタイプのものです。
 
現在では、これとは違ったタイプのホラーエンターテインメントが生まれてきています。いわゆる「お化け屋敷」というものが多様になってきて、このような定義に当てはまらないものも増えています。
そういったホラーエンターテインメントには、必ずしも解放型のエンターテインメントではないものもあります。
 
そこで、ここでは一旦それらとは区別して、先ほど定義したものをお化け屋敷と呼んで話を進めましょう。
 
では、解放型のエンターテインメントとは、一体どういうものなのでしょうか?
それは、エンターテインメントとしての価値がどこにあるのかということに結びついていくと思います。
 
怪談話を楽しむ人は、想像力によって自分の情動が刺激され揺さぶられるという普段あまりしない体験を味わうことに価値を見出しているのではないかと思います。
そこには、同じホラーエンターテインメントでも、お化け屋敷とは全く違う価値があります。

 

(2023.10/02)

4-02 お化け屋敷と肝試し

しばしばお化け屋敷は肝試しと混同されがちです。確かに、お化け屋敷と肝試しには似たところが多いです。
けれど、そこには決定的な違いがあると思っています。
 
その決定的な違いをわかりやすく言うと、それは悲鳴をあげていいか悪いかの違いです。
肝試しの場合は、自分の勇気を試すのが目的ですから、悲鳴をあげることは避けなくてはなりません。一方、お化け屋敷の場合は悲鳴をあげるのが目的だと言ってもいいでしょう。
ここでは、演出とそれを体験する者の関係性が全く違っています。
 
肝試しの場合は、演出とお客様の関係性は対抗的です。そこには、一種の勝敗という価値観が絡んでいます。悲鳴をあげなければ勝ちだし、悲鳴をあげたら負けです。
悲鳴をあげずにゴールに辿り着ければ、そこには勝利に伴う達成感が味わえます。
「肝を試す」、つまり「勇気を試す」ということを考えれば、それは自然なことです。
肝試しの場合、この勝利を伴う達成感に大きな価値があります。
 
一方、お化け屋敷の場合、演出とそれを体験する者の関係は対抗的ではありません。
お客様は、お化け屋敷に対して勝負を挑んでいるわけではないのです。ですから、いくら悲鳴をあげても敗北したという感覚に陥ることはありません。
お化け屋敷の場合は、悲鳴をあげることに価値があるのです。

 

(2023.10/16)

4-03 エンターテインメントに気づく

しかし、強いて恐怖を体験する、という点で考えれば、肝試しとお化け屋敷は非常に似ています。
そのため、肝試しの心構えでお化け屋敷を体験しようとするお客さまもいます。前回述べたように、それが肝試しだとすれば、悲鳴をあげることをよしとしません。いかにして我慢をして出口まで辿り着くかを考えます。
 
けれど、忘れてはいけないことがあります。
お化け屋敷はエンターテインメントです。楽しむべき場所なのです。
 
恐怖を抑え込む、怖がらないようにする、というのは、動物に備わった本能ではないかと思います。危険な状況の中でいたずらに怖がってしまうと、判断力が低下して、より危険性は増してきます。そのため、警戒して冷静さを保とうとします。パニックになったら、危険だからです。
 
したがって、お化け屋敷のように身に危険が及びそうな場所で、怖がらないようにするというのは当たり前のことです。
怖がらないようにするのは仕方ないにしても、楽しむ気持ちに蓋をしてはいけません。
この蓋をどのようにうまく開けるのかが、お化け屋敷を作る鍵になってきます。
 
そこで有効なきっかけとなるのが、悲鳴、つまり解放感です。
お化け屋敷の中では、怖がるまいとして歩を進めますが、やはり不安感が増していきます。その不安がある程度膨らんだところでお化けが出現します。すると、それに対して大きな悲鳴をあげてしまいます。
その時、お客様の中に解放感が生まれます。
解放感を感じた時に、蓋をしていた楽しさの存在に気づきます。
そうだ、これはエンターテインメントだったんだ。
それに気づいた時、お客様の中にあった肝試しの感覚が薄れ、楽しさを覚えるようになるのです。

 

(2023.10/30)

4-04 体験者の意識の前提

別の側面からも、肝試しとお化け屋敷の違いを見ることができます。
体験者が、その場所をリアルなものとして捉えるか、フィクショナルなものとして捉えるか、という違いです。
 
肝試しの場合、その舞台となるのは実際に存在している空間です。そこは、何かの謂くがあり、時には怪奇現象が報告されている、ということが言われるような場所です。
そういう謂くのない場所であっても、体験者に怪談を聞かせるなどをして、これから入っていく場所に、階段で聞いたようなことが起こるかもしれない、という気持ちを起こさせます。
つまり、肝試しの場合、本当に本物のお化けが現れるかもしれない、という意識が、体験者の前提になっています。
 
一方、お化け屋敷に入るお客様には、そのような意識はありません。
お客様は、入口から一定間隔でどんどん入っていくし、そのお客様は出口から一定間隔でどんどん出てきます。外から見ても、そこは作られた場所だということが明確にわかりますし、大体看板がかかっていること自体が本物の場所ではないということを示しています。
つまり、お客さまの中に、本物のお化けが現れるかもしれない、という意識はないのです。
 
肝試しの場合はリアルであることが前提になっていますが、お化け屋敷の場合はフィクションであることが前提になっているのです。

 

(2023.11/13)

4-05 恐怖心の対処法

では、肝試しの場合、どのようにして恐怖を克服しているのでしょうか?
ただ、この場合、そもそも真夜中の廃墟にたった一人で入っても、特に恐怖は感じない、という人は除外して考えます。
ここで言うのは、怖いけれど、そこに入っていかなければならない、となった場合の対処方法です。多くの場合、そのようなシチュエーションに置かれたら、恐怖を感じるからです。
 
そのようなシチュエーションで、恐怖を感じないようにするために行われていることは、「感度を鈍らせて意識を閉ざす」ということです。
視覚や聴覚をわざと鈍らせておくことで、何かの物音が聞こえてもそれを鋭敏に感じ取らないようにします。外部の刺激をぼんやりと認識すると、刺激を和らげることができます。
 
また、何かの外部刺激があった時に、それに対して意識を向けようとする欲求を止める、ということも行います。
何か不審なことや不可解なことが起こると、人はどうしてもそれが何なのか確かめたくなります。なぜそんなことをしたくなるのかというと、その正体を見てみたい好奇心が働くからです。好奇心の裏には不安があります。つまり、不可解なことを確かめたくなる欲求は、不安を解消したいという欲求なのです。
この欲求を半ば強制的に止める、というのが意識を閉ざす、ということです。

 

(2023.11/27)

4-06 意識を閉ざし感性を鈍らせる

意識を閉ざしても、不安の解消は起こりません。不安は不安のまま残ります。しかし、それを認識する感性も鈍っているので、不安がそれ以上大きくなることもありません。
 
普通は、不安が頭をもたげてくると、それを確認しようとするための好奇心が生まれます。不安を解消するためには、その不安の正体を知らなければならないからです。好奇心を働かせると、想像力が生まれます。
お化け屋敷の場合、この想像力が、不安を膨張させます。
なぜなら、お化け屋敷では、不安の正体は見極められないからです。不安は、その正体がはっきりしたら解消されます。しかし、はっきりしないものには、常に不安がつきまとい、常に想像力を必要とします。
 
お化け屋敷の中の、この「はっきりしないもの」に対して、ならば私ははっきりさせないでかまわない、という行動を示すのが、意識を閉ざすという行為なのです。
けれど、これはなかなかエネルギーを必要とする行為です。
不安は常につきまとい、残り続けていますから、意識を閉ざす作業は、強い力で続けなくてはなりません。
 
しかし、そこまでして意識を閉ざし、想像力を働かせないようにするということは、人間の営為として望ましいことなのでしょうか。

 

(2023.12/11)

  

 
続 「5)想像力の働き」
 
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