桐夫のブログ 番外編
ご無沙汰しています
dr-kilio 2008/01/12 23:12:13
無沙汰しています。Yです。
四十九日の法要も過ぎ、年も改まり、もう何もかも終わったはずなのに、再び皆さんの前に姿を現してしまった非礼をお許しください。
昨年の夏、あの不可解な出来事と悲惨な事件が起こった桐夫の家がなくなると聞いたのは、つい一週間前のことです。
あの忌まわしい事件を、いつまでも人々の記憶の中に残しておかないためにも、それは良いことのように思えます。
ただ、私には桐夫と過ごしたいくつもの日々の思い出があります。
家が取り壊されていく音を聞きながら、一度も振り返らない、というようなことができるはずもありません。
それに、そのことを聞いてからこの一週間、少し気になることが起こり始めていました。
その報告も、皆さんにしなくてはならないのではないでしょうか。
桐夫の家が取り壊されるまでの間、少しの期間だけ、皆さんとお話しさせてください。
冷たい雨
dr-kilio 22008/01/13 01:07:29
最後の3日間は、桐夫の家で過ごさせてもらうことになりました。
子供の頃、桐夫と遊んだ廊下。学生の頃、桐夫と学んだ部屋。桐夫を送り出すまで数日間を二人で過ごしたあの部屋。
すべてに桐夫の記憶が染みついています。
そんな記憶を再びたどるために、私はここで時間を過ごそうと思ったのです。
今日は一日、冷たい雨が降っています。
桐夫の家に足を踏み入れたとき、その中は外よりも一層冷え込んでいるように感じられます。
主を失ったまま何ヶ月もの日々を過ごしてきた空間。人が住まなくなった家はここまで変わるものかと感じさせるほど、素っ気なく私を出迎えました。
けれど、それもわずかな時間でした。
ブレーカーを上げ、明かりが灯り、私の呼吸がいくつも重なっていくたびに、家はあのときの顔を取り戻し始めていきました。
数ヶ月前の、あの息が詰まるような夏の熱気。
私の記憶の中の桐夫の家の最も強い印象は、やはりあの夏の記憶です。
冷え込んだ桐夫の家は、そんな記憶から遠い印象を与えてくれます。
今夜の冷たい雨も、少しばかりは良い効用があるのかもしれません。
メール募集
dr-kilio 2008/01/13 02:44:33
桐夫との思い出を皆さんと共有するために、今回、皆さんからのメールをもらい、それによって取り壊されるこの家を送り出したいと思います。
メールの内容は、桐夫に関することでも、まもなく取り壊されるこの家のことでもかまいません。
できるだけ多くのメールで、この家を送り出してあげたいのです。
以下のアドレスまでメールをください。
今回はパソコンなので、長いメールでも大丈夫です。
kilio@○○○○.○○○
感謝の印
dr-kilio 2008/01/13 22:17:32
多くのメールをありがとうございます。
その感謝の印をどのように表そうかと考えてみました。
そこで、ちょっとした遊びを考えました。
私のノートパソコンを監視カメラの前に置いておきます。
私の感謝の気持ちを画面上に表示します。
どうか、ネットを通してその映像をご覧になって下さい。
ますますのメールをお待ちしています。
冬の蛾
dr-kilio 2008/01/13 22:45:11
少し前から監視カメラの映像を見ていた人は、あるいは気がついていたのかもしれません。
私が自分のノートパソコンを監視カメラの前に設置に行くと、そこにはあるものがいました。
蛾です。
こんな季節なのに、大きな蛾が一羽、その場所にとまっていたのです。
私の背中を冷たい汗が滑り落ちました。
子供の頃から、蛾だけはどうしても受け付けない存在でした。
私は息を止めて、そのまま部屋を出ました。
代わりの主
dr-kilio 2008/01/13 22:55:58
けれど、なぜ蛾が、こんな季節に現れたのでしょうか。
私の中に嫌な記憶が蘇ってきました。
Iと一緒にこの家で、食事をしたときの記憶です。
あの時からずっと、蛾はこの家の中に潜んでいたのでしょうか。
考えてみると、それは少しも不思議なことではないかもしれません。
桐夫は世間と自分とを遮断するかのように、この家の中に引き籠もりました。
窓を開け放ったり、扉を開放するようなこともほとんどなかったのでしょう。
蛾が外に出て行くような機会も生まれるはずがなかったと思います。
あの時からずっと蛾がいたことは、むしろ自然なことなのかもしれません。
この家の中で桐夫は一人きりで生活を送っていた、と考えていたのかもしれませんが、実はもう一つの存在が共に暮らしていたのです。
そして、いま桐夫を失った家の中で、その主に代わる者がいるとすれば、それはあの蛾なのかもしれません。
しかし、私は頭を振って、その思いを追い払いました。
それは馬鹿げた考え方です。
蛾はたまたま迷い込んだだけの存在にすぎず、この家の主はすでに亡くなっているのです。
蛾にそれ以上の意味があるはずがありません。
それより、私はこのパソコンを置きに行かなくてはならないのです。
パソコンを置く
dr-kilio 2008/01/14 01:17:40
何度もあの部屋のドアノブに手を掛けながら、なかなかそれを回す勇気が出ませんでした。
そんなことを繰り返しながら、時間ばかりが過ぎてしまったことをお許しください。
勇気を奮い起こし、私は、もう一度あの部屋に足を踏み入れました。
監視カメラの前まで行くと、そこに蛾はいませんでした。
けれど、この部屋のどこかにいることは確かです。
私はできるだけ空気を乱さないようにして、ゆっくりとパソコンをカメラの前に置きました。
そして、蛾が羽ばたくことのないように、気配を殺して部屋を出ました。
気がついたら、ずっと息を止めていたようです。
ここでもう一度メールアドレスをお伝えしておきます。
kilio@○○○○.○○○
メールをお待ちしています。
また、その画像は監視カメラから見ることができます。
http://www.ghost-cam.com
※「http://www.ghost-cam.com」現在はご覧になれません。
夜が深まる
dr-kilio 2008/01/14 01:48:41
パソコンに表示されるメッセージは読み取れたでしょうか?
私は、皆さんからのメッセージを待ちながら、この静まりかえった家の中で、
残された時間を過ごしています。
桐夫の様々な思い出の中でも、微笑ましいものだけを選ぶようにして反芻しています。
この家が取り壊されると、いよいよ桐夫の記憶はこの世から消えてなくなってしまいそうな気がします。
形のあるものの重要さを改めて感じます。
夜が深くなるにつれて、そんなことを考えてしまいます。
教えて下さい
dr-kilio 2008/01/14 02:08:48
パソコンの画面に現れる数字はどういう意味か、という問いかけのメールが届きました。
私は自分のパソコンをあの部屋に置いてきたまま、あとはすべて携帯電話で行っているので、カメラの画面を見ることができません。
ただ、そのような設定を一切行っていません。
逆に私の方が、その意味を知りたいくらいです。
一体、どのようなことが画面に表示されているのでしょうか?
どうか、教えてもらえないでしょうか?
謎の数字
dr-kilio 2008/01/14 02:19:02
メールをいただいて、ありがとうございます。
「ありがとうございます。さようなら。620」
これがいま表示されているメッセージだということです。
けれど、「620」という数字は、打ち込んだ記憶がありません。
部屋に置く直前まで、私はパソコンをチェックして動作の確認を行っていました。
その中でも、そのようなことは起こりませんでした。
一体、その数字は何なのでしょうか?
このような奇妙な現象が起こるのは、もうじきこの家がなくなってしまうからでしょうか。
いや、私はそのようなことを信じる人間ではないはずです。
けれど、今の私には説明がつかないのです。
その意味
dr-kilio 2008/01/14 02:40:21
また新たなメールが届きました。
画面には今度は「1010」という数字が表示されていると言うことです。
誰か、その意味がわかる人はいないでしょうか?
女の姿
dr-kilio 2008/01/14 02:58:15
新しいメールが届いています。
女の姿がカメラの前に現れている、というのです。
そんな馬鹿げたことはありません。
この家の中は、物音ひとつしていません。
誰かが動けば、その衣擦れの音さえも聞こえてきそうなくらい、静まりかえっています。
けれど、女の姿がカメラの前に現れると、しばらく画面が消えるという現象が起きているというのです。
3つの数字
dr-kilio 2008/01/14 03:13:08
また、女が姿を現したとういう報告がありました。
けれど、そんな者がこの家の中にいるわけがありません。
画面のメッセージは、いま「821」と出ているというのです。
私は次第に体が重くなってきています。
桐夫がそうだったように、動くことが面倒になってきています。
これは、何かの兆候なのでしょうか?
「610」「1010」「821」
何の意味があるというのか?
今度の数字
dr-kilio 2008/01/14 03:28:04
「913」
いまはこんな数字が出ているそうです。
誰か、この意味を教えてください。
数字は日付
dr-kilio 2008/01/14 03:37:56
メールをありがとうございます。
ご指摘の通りです。
画面に現れている数字は、日付を表していたのです。
「610」は「6月10日」、「1010」は「10月10日」、「821」は「8月21日」、「913」は「9月13日」。
そして、その日付はこのブログの日付を示しています。
その日付のブログが、次々と消えているのです。
桐夫の家がなくなるように、ブログもなくなろうとしているのでしょうか?
私が少し前に感じていた奇妙なことも、実はこのことでした。
ブログの文章が、少し変化していたのです。
この家はなくなっても、このブログだけは守らなくてはなりません。
消えていく
dr-kilio 2008/01/14 03:54:55
今度は「828」です。
桐夫のブログが、消えていきます。
これ以上は
dr-kilio 2008/01/14 04:21:13
「718」です。
これ以上、桐夫のブログが消えていくのは堪えきれません。
メールでも、あの部屋に入って、パソコンを持ち帰るべきだという意見があります。
勇気を奮い起こし、あの部屋に入ろうと思っています。
時間はない
dr-kilio 2008/01/14 04:30:30
いま、8月9日と9月19日が消えました。
躊躇している時間はありません。
これから、パソコンを取り戻してきます。
部屋に入る
dr-kilio 2008/01/14 04:51:48
あの部屋に入ると、先ほどとは全く違う、どんよりと澱んだ空気が漂っていました。先ほどのひとけのない寒さとは違う、あの夏にも似た空気でした。
入り口に立ったまま、私はゆっくりと周囲を見回しました。
もちろん、女の姿などどこにもありません。
一度大きく息を吸い込むと、私は足を踏み出しました。
何事も起こりません。
私は、いつも行っている仕事をこなすように、淡々と事を進めました。
電源を落とし、コンセントを抜いて、台から下ろす。
大した仕事ではありません。
こんなものは、大した仕事ではないのです。
私は、パソコンを脇に抱えると、まっすぐにドアに向かいました。
ドアノブに手を掛けたとき、後ろへ引っ張られる力を感じました。
小さく振り返ると、パソコンのケーブルが机の引き出しの取っ手に引っかかっていました。
それをゆっくり外しながら、私は少しだけ意識しました。
ドアノブを開けて外へ出た時、一気に汗が噴き出しました。
この部屋に帰ってきて、ようやく少し落ち着きました。
そして、ようやく書くことができます。
引き出しの下に、何者かの視線があったことを。
いるはずがない
dr-kilio 2008/01/14 05:05:41
いや、それはただの錯覚です。
誰もいるはずがありません。
Good Night, Sleep Tight.
dr-kilio 2008/01/14 05:17:18
もう、桐夫のブログが消えていく現象は止まったようです。
私は、そろそろ床に就きます。
まもなく夜が明けてきます。
パソコンは、もう一度戻しておきます。
この家と過ごす最後の夜です。
おやすみなさい。
→次の夜
久しぶりの夢
dr-kilio 2008/01/14 20:21:23
明け方に眠りに就いたので、目が覚めたのは昼を回っていました。
桐夫のベッドで眠ったせいか、久しぶりに桐夫が出てくる夢を見たような気がします。
ただ、疲れていて、その記憶も定かではありません。
あの後、パソコンの中に数字は現れなかったでしょうか?
起きてチェックしたときには問題はありませんでした。
今日は一日、桐夫の家の最後の確認です。
すでに、必要なものは運び出しているので、どちらかというと記憶をたどるだけの時間でした。
冷えた部屋の中で一人きりで過ごしているのは、最後の一日としては悪くない気分でした。
日が暮れてきて、こうしているのもあとわずかです。
Hくんのこと
dr-kilio 2008/01/14 21:22:22
考えてみると、あの夏の出来事は不可解なことばかりです。
あの後、Hくんに出会うことはありませんでした。
桐夫の病院にカルテがあったので、簡単に探り当てることが出来ると思っていたら、簡単なことではありませんでした。
お父さんが亡くなった後、Hくんは親戚に引き取られたようですが、その後すぐにその家を出てしまったようなのです。
その後の行方は、その親戚の方にもよくわかっていないようでした。
Hくんが何かの鍵を握っていることは確かではないかと思います。
私が最後にブログに書き込みを行った後に、Hくんが書き込みをしているのも何故なのでしょうか?
そして、一番最後に書かれた文字の意味は?
この家の中に座り、静寂に身を委ねていると、思いも掛けぬ方向から糸口が見つかるのではないかと思い、2日間をこの家で過ごしました。
けれど、いまこの時点でも、謎は謎のままです。
まもなく、帰らなくてはならない時間です。
このひと気のなくなった寒々しい家から、あの暖かい家に戻らなくてはなりません。
桐夫の記憶を過去のものにして、あの夏の出来事から遠くへ遠くへと延びていく道に、戻って行かなくてはならないのです。
家に帰る
dr-kilio 2008/01/14 23:15:57
最後に皆さんにお願いがあります。
昨夜、何者かによって消されていった桐夫のブログの失われた部分を補って欲しいのです。
桐夫のブログを保管している方がいたら、その内容をメールで送って下さい。
もう一度、桐夫のブログを元に戻し、それで私の仕事を終わらせたいのです。
では、そろそろこの家を出ます。
明日には、取り壊されていきます。
長い間、ありがとうございました。
さようなら。
私は、
家に帰ります。
→別の夜
ありがとうございました
dr-kilio 2008/01/17 02:49:50
桐夫のブログの失われた部分を送って頂いた皆さん。どうもありがとうございました。
これで、桐夫のブログを復帰できました。
私の仕事が終わります。
ありがとうございました。
→7月19日真夜中
蘇る記憶
dr-kilio 2008/07/19 00:09:40
昨日から消えかけていた記憶が蘇り、ついに桐夫のブログに加筆することになってしまった。
Yです。
夜になって、空気はますますむせ返り、それが何か胸騒ぎを感じさせる。
今年の夏も何か起こるというのだろうか。
坂を下って振り返ると、坂の上に月が小さく見えた。
今夜は満月だ。
どおりで、桐夫のことを思い出すわけだ。
→7月28日真夜中
桐夫の家
dr-kilio 2008/07/28 02:38:24
どうしてそんなことを思いついたのか、理由はわからない。
久しぶりに桐夫の家に行ってみようと思ったのだ。
もちろん、そこに桐夫が住んでいるわけではない。
ただ、何の気なしに日曜日の散歩がてら足を向けてみようと思ったのだ。
歩いているうちに夕暮れになり、西の空が見たこともない色に染め上げられていく。黄色から紅、やがて真っ赤に染まっていく様が、不安を抱かせる美しさとなって私の胸をざわつかせる。
道行く人が、時々ケータイで写真を撮っている。誰もが、あまり見たことのない空に不安を感じながら魅せられているようだった。
桐夫の家の前に行くと、久しぶりに見る玄関は、夕焼けで赤く染まっていた。
その赤い玄関に張り付くように誰かが立っている。一瞬、桐夫かと思った。
もちろん、そんなわけがない。
私が近づいていくと、その気配に気づいたのか、斜め後ろを見るような感じで視線を送り、そのまま反対側を向いて私に背を向けるようにして玄関を離れた。
女性のようだった。
私は声をかけようとしたが、何と声をかけていいかわからず、そのまま後ろ姿を見送った。
気味の悪い夕闇が迫っていた。
何か悪いことを知らせる夕焼けでなければいいのだが。
桐夫の家の前にしばらく佇むうちに、夕闇が深くなっていた。
気がかり
dr-kilio 2008/07/29 01:45:00
昨日、桐夫の家に行ったときのことが気になっている。
どうにも落ち着かなくなって、午後もう一度でかけてみる。
昨日の夕暮れの不気味な空と違い、今日は青空がのぞく気分のよい空だ。
そんなこともあって、もう一度足を向けようという気になったのかもしれない。
桐夫の家は、まだ次の住人が決まっていないらしく、あの時のままの状態で残っている。
家が近づいてきたときに、一人の女性とすれ違った。
数歩あるいてから気になって振り返ると、ちょうど角を曲がるその後ろ姿に見覚えがあった。
昨日、桐夫の玄関先に立っていた女性ではないだろうか?
追いかけてみたが、角を曲がってみるとその先に女性の姿はなかった。
いやな予感がして、桐夫の家に急いだ。
遠くから見ると何の変化も見られなかった。
玄関先にたどり着いたとき、少し違和感を覚えた。
その正体にはしばらく気づかなかった。
しばらく玄関を見つめたままでいたら、不意に違和感の正体に気づいた。
古びたドアノブの下にある鍵穴の周りに、幾筋かの細かい傷がついているのだ。
何者かが、鍵穴に何かをしていた痕だ。
私は、ドアノブをゆっくりと回してみた。
けれど、それは開かなかった。
一体、この傷跡はいつ、誰がつけたものなのだろう?
余計に気がかりが募ってしまった。
→8月18日朝
肌寒い盆
dr-kilio 2008/08/18 09:46:29
今日は肌寒い陽気だ。
暑さにやられていた体は一息つけると思ったが、あまりに温度差がありすぎてかえって疲れてしまった。
夕方から落ち着かなくなってきた。
原因はわからない。
宵になって雨も上がったので、散歩に出た。
足がなんとなく桐夫の家に向かっていた。
別段、目的があったわけではなかった。
ところが、家の前に来たときに、そこに人が立っているのが見えた。
髪の長い女だった。
先月に、桐夫の家の前に立っていた女だ。
私が声をかけようとすると、先に女が口を開いた。
「Yさんですね」
どうして私のことを知っているのだろう?
その後、女は私に言った。
「今夜は満月だって知っていました?」
振り仰いだが、雲に隠れて月は見えなかった。
→8月31日真夜中
8月が終わる
dr-kilio 2008/08/31 03:41:29
2週間前に桐夫の家の前で会った女は、「亡くなった主人のものを返してもらいに伺いました」と言った。
「ご主人の?」
と、聞き返すと、
「え?」
と言って右耳をこちらに突き出してきた。
「ご主人のなにをですか?」
と、もう一度聞いてみた。
「すいません、こっちの耳が悪いので」
と女が答えた。
どうやら左の耳が聞こえないようだった。
私は、さらに彼女の突き出した右耳に向けて今度は区切りながら喋った。
何度も同じことを話すのは難儀だ。
「なんのことか、よくわからないのですが」
すると、彼女は答えた。
「あなたのお友達に殺された、私の主人のものですよ」
私は愕然とした。
すると彼女は8月も終わる頃にもう一度連絡する、と言って背を向けたのだ。
その背中に声を掛けたが、私の声が聞こえなかったのか、あるいは聞こえたのに無視をしたのか、いずれにしても彼女は一遍も振り返ることなく、そのまま立ち去ってしまった。
それから2週間が経つ。
彼女の言った8月の終わりだ。
今日も、連絡はない。
私には彼女の言っている意味がわからない。
明日で8月が終わる。
→次の夜
白い足
dr-kilio 2008/09/01 03:46:00
夜になって、あの女から電話が入った。
すぐに来てほしい、という切迫した声だった。
もう夜になっていたし、昼間の天気とは変わって、雨が降り始めていた。
外出する気分にはなれなかったが、すぐに電話を切られて、断るタイミングを逸してしまった。
傘を差して、女の指定した場所まで出かけていった。
何者かもわからない女から呼び出されて、こんな時間に暗渠にでかけるのも奇妙な話だ。
自分が滑稽なことをしているようで何度か戻り掛けたが、桐夫が女に借りがある、ということが、どうにも引っかかって、言われた道をたどるしかなかった。
女の指定した場所はわかりやすかった。
一旦暗渠に出たら、それを川下へと進んでいけばよかったからだ。
普段歩くことのない道は、新鮮で楽しかった。
暗渠に面した家々や花の植えられた花壇などを見ながら歩いていくと、長身の女が街灯の光の差さないところに立っているのが見えた。
私は、いささかひるんだが、何気なさを装いながら女に近づいた。
声を掛けようとしたときに、女が目の前の草むらを指さした。
そこにはあまり手入れの行き届いていない花壇があり、草が生い茂っていた。
腰くらいの高さもある草むらの奥に、何かが見えたような気がした。
雨に濡れた草むらを、濡れないように用心しながらかき分けると、いきなり目の前に白いものが見えた。
投げ出された足だ。
丈の長いスカートから二本の足が伸びて、雨に濡れている。
私は思わず息を呑んだ。
さらに草をかき分けると、顔が見えた。
濡れた黒い地面の上に、若いきれいな顔が透き通るような白さをたたえている。
不意に目を開けて、起き上がってきそうだったが、彼女が死んでいることはひと目でわかった。
振り返ると、あの女がじっとこちらを見ていた。
私は何かを聞こうとしたが、喉が干上がって声が出なかった。
それを勘違いしたのか、彼女は右耳を私に突き出してきた。
私は首を横に振ってからため息をついた。
彼女は「今夜は新月だから」と言った。
私は、もう一度若い女性の死体に目をやった。
白い素足に、雨粒が落ちて流れていた。
足元にサンダルが落ちていた。
履かせてやらないとかわいそうに思えて拾い上げた時、彼女の右足に小指がないことに気がついた。
→次の日
知った顔
dr-kilio 2008/09/02 12:59:51
その後、私が救急車を呼んで、右足の小指のない死体は病院に運ばれた。
厄介なことに巻き込まれ、私は辟易していた。
こんな女に呼び出されたために、雨の中で若い女性の死体を発見し、夜中まで病院で事情聴取を受けるはめになってしまった。
刑事たちから解放されたのは明け方だった。
病院から出て、疲れた体を引きずりながら、タクシー乗り場まで歩いている最中、彼女が言った。
「さっき、知っている顔があったわ」
聞けば、一度鍵を交換した家を管理している不動産屋だと言う。
「その家は…」
と言いかけて、彼女は不快な顔をした。
「ああ、嫌だ。また何か言ったでしょ?」
僕が聞き返すと、気にしないでくれと言ったきり、もう口も聞かなくなった。
白み始めた空を見上げてから、私たちは別々のタクシーに乗った。
→9月16日
何かがあらわれる
dr-kilio 2008/09/16 05:15:50
例の女の鍵屋から電話がかかってくる。
今夜は嫌な気がするから、会うことができないかと言う。
この間も呼び出されて、若い女性の死体を発見した現場に居合わせることになってしまった。
あの鍵屋につきあうと良くない方向へ進みそうな気がして、これ以上、関係を深めたくない。
けれど、鍵屋はひどく真剣で、私の言うことになかなか納得してくれない。
何かがあらわれる、
何かがあらわれる、
と、盛んに繰り返すが、何のことなのかよくわからない。
これ以上、つきあっていても押し問答になるばかりだ。
繰り返すばかりの鍵屋の話を、半ば強引に断つ感じで、私は電話を切った。
嫌な感触だけが、私の中に残った。
→9月25日真夜中
一周忌
dr-kilio 2008/09/25 02:10:31
今日は桐夫の一周忌に当たる。
早いもので、あれから1年が経ってしまった。
今日は1日仕事を休んで、桐夫のための時間に使おうと思っていた。
例の女鍵屋から電話がかかってきていたが無視をして、桐夫の好きだったイタリアンレストランで昼食をとった。
穏やかな気候の気持ちの良い日だ。
花屋で花を買い、そのまま、桐夫の眠っている墓地まで歩いて上っていった。
桐夫の墓前には、すでに誰かが花を手向けていた。
その花と一緒に、一冊の本が置かれていた。桐夫が中学生の頃に好きだったI.T.の本だ。
なぜ、そんな本がここに置かれているのだろう。
しかも、桐夫が中学生の頃にその本を愛読していたことを知っている人間はほとんどいない。
もし知っていたとしても、なぜその頃の愛読書を置いていったのだろうか?
私はその本を手に取って、奥付を見た。去年の春に版を重ねていた。
謎は解けぬまま、本を戻した。
その後、足は自然と桐夫の家に向かった。
そんなところに行っても何があるわけでもない。けれど、家を見ずに今日を終わらせるわけにはいかない。
そう思ったのがいけなかった。
桐夫の家は、夕方の空気の中で静かに佇んでいた。
もう1年も主を失ったままの家は、やけに空虚に見えた。
しばらく玄関先に佇んで、帰ろうと踵を返すと、目の前にあの女が立っていた。
女鍵屋だ。
私を恨めしそうな目で見据えたまま、何で電話に出てくれないのか、と何度も何度も呟いた。
私はそれに答えるべきか迷ったが、答えなければ終わらないような気がして、忙しかったのだ、と言葉を発した。
女は聞いていないかのように反応がなかった。
「それでは一緒に来てください。死んだ主人が死んだ女の葬儀に呼ばれているんです。気味が悪くて仕方ありません。死んだ主人に借りがあるのなら、主人を助けてくれるでしょう? 今日、その借りを返してもらいます」
そのまま、女は当然というように真っ直ぐに歩いていく。
私は、その後を追わないわけにはいかなかった。
そして、ある家に着いた。
→9月27日夜
水貴
dr-kilio 2008/09/27 20:09:01
一昨日は、女鍵屋に連れられていきなり他人の家に行くことになってしまった。
以前、彼女と一緒に暗渠で若い女性の死体を見つけたとき、深夜の病院で事情聴取を受けた。その時に、死んだ女性の友人として病院にいた若い男。
昨夜出かけていったのは、その若い男の家だった。
けれど、私が彼のことを覚えているわけはない。
むしろ、その家の印象の方が強烈だった。
玄関を開けたのは、端正な顔立ちに青白い影が射した若い男だった。大学生くらいだろうか。
頭の良さそうな面持ちだったが、冷たさと病的な印象を受けた。
彼は無表情に私たちを迎えた。
女鍵屋は、そんな彼におかまいなく家の中に上がり込んでいった。彼女が招くので、私もついていかざるを得なかった。
家に足を踏み入れると、その異様さに戸惑った。
濃い湿気と黴の匂いが、家じゅうに充満していた。窓を開けないのだろうか。壁に触れると、手のひらに湿気を感じた。
壁や棚や家具やカーテンは、昼間でも電気をつけなくてはならない暗い室内でうっすらと膨張して見えた。よく見ると、それは黴だった。
なんという家だろう。
女鍵屋はその異様さも知っているかのように先へ先へと進み、ある扉の前で止まった。
それが開けてはならない扉だと言うことは私でもわかった。
一面に御札が貼られていたからだ。
開かずの間だ。
その後のことは、信じられないことの連続だった。
女鍵屋が新しい鍵を取り付けようとすると、扉の奥から女の叫び声が挙がった。
女がその奥の部屋にいるのだろうか。
けれど、それがこの世には存在しないはずの恐ろしい者であることはすぐにわかった。
その女の妨害をかわしながら女鍵屋は錠前を取り付けると、その鍵を私に渡して一人で家を出た。
私は早くその家を出たかった。
けれど、鍵を預かる以上、挨拶はしておかなくてはならない。
若い男は、水貴と名乗った。
→9月29日真夜中
約束
dr-kilio 2008/09/29 04:20:48
先ほど、鍵を預かっている水貴という青年から電話があった。
こんな遅い時間に電話をよこすのは、余程火急な用事だろうと思ったら、例の鍵を返してほしいというものだった。
女鍵屋が言った通りだった。
午後4時以降に鍵を返してはならない。でも、必ずそういう電話が掛かってくる。理由はどうであれ、絶対に返してはいけない。
それが、彼女の話だった。
私は水貴君とも、4時以降、どんなことがあっても鍵は返さない、と約束をしたはずだ。
むしろ、彼の方が強くそれを望んでいた。
それなのに、こんな夜中に電話をかけてきた。
しかも、電話口の彼は、あの時の利発な印象とはかなり違っていた。
一方的に早口でまくし立てて、自分の要求だけを告げてくる。
ひどく焦っているような印象だった。
私が、約束のことを告げても、理由も言わずに状況が変わった、の一点張りで、とにかく鍵を返して欲しいと言う。
挙げ句の果てに、私が鍵を返さないのは泥棒と同じだと責め立てる。
さすがに、私もいくぶん気分を害した。
とにかく、約束通り返すわけにはいかない、と言って電話を切った。
少し強い口調になっていたかもしれない。
→10月4日夜
桐夫だったら
dr-kilio 2008/10/04 00:57:23
先ほど、女鍵屋からの依頼で若い男がやってきた。
これ以上、鍵を預かってもらうとあなた自身に危険が及ぶかもしれない。預けたのは間違いだった。もう、返してもらってかまわない。
そう、女鍵屋が言っている、と彼は告げた。
インターフォン越しに見えるこの見知らぬ男は、ひどく疲れ果てているように見えた。
確かに、ここ数日、水貴くんが毎晩やってくる。その様子は、とても尋常には思えない。
鍵を預かってほしいと彼自身も言っていたが、今では逆恨みされているような状態だ。
そこまでしても彼に鍵を返さないのには理由がある。
女鍵屋に借りがあるからだ。
正確に言うと、彼女の夫に借りがあるからだ。
桐夫が返していない1本の歯。それを彼女に返さないと、その借りは消えることがないだろう。
桐夫だったらどうするだろうか? そう考えてみた。
おそらく、女鍵屋に操られることは不愉快に違いないだろう。ただ、借りがあることも事実だ。部屋の鍵を預かるくらいのことでその借りが返せるのなら、多少の危険は顧みないだろう。
私は、インターフォンを通して、その男に尋ねてみた。
鍵を持っていてもかまわない。それで借りが返せるのなら、危険な目に遭っても仕方ない。大事なことは、これで借りが返せるかどうかだ。
若い男は困惑したようだ。
それはそうだろう。彼がそこまで知っているとは思えない。
しばらくの沈黙の後、彼女に聞いてみよう、と言ってそのまま立ち去った。
→10月4日真夜中
夜中に来る者
dr-kilio 2008/10/19 02:30:57
夜中に誰かが訪ねてきた。
妻や子供を起こさないように寝室を出てインターフォンの画面を見ると、例の若い男が立っていた。
再び、女鍵屋からの使いでやってきたと言う。
あの後、何度か連絡を取ったが、彼女が電話に出ることはなかった。
逆に、水貴くんからは何度か電話があり、鍵を返してほしいと話をされた。
ただ、私の心はすでに決まっていた。
事情もわからないまま鍵を預かるには、随分長い期間だったと言っていいだろう。
その間、女鍵屋からの連絡もなく、こちらから連絡しても電話に出ない。
もう十分、借りを返したといっていいのではないか。
私は、この使いの男を心待ちにしていたところがあった。
マンションの玄関の鍵を解錠し、男がエレベーターで上がってくるまでの間、少し迷いが生まれた。
けれど、部屋のインターフォンを押される前に扉を開けるときには、その迷いも消えていた。
男は、ひどく陰鬱な感じのする風貌だった。
あまり長く話すことはためらわれた。
女鍵屋の事情も聞いてみたが、要領の得ないことを口の中で呟くばかりで、一向に埒があかない。
彼の方も少し苛ついているようで、やおら右手を私に突き出してくる。
これ以上、何のやりとりがあるだろうか。
私はその手に鍵を渡した。
彼は少し会釈めいたものをすると、そのまま私に背を向けた。
私は、その背中に向かって、彼の名前を尋ねてみた。
彼は振り返らないまま、「Fと言います」と答えた。
その口調に、私はなぜか後悔していた。
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